助けが必要か
「助けが必要か?」
この問いかけに、あたしはあの時、どう答えのだったろうか?
食堂を出た足で、あたしはエレベーターに飛び乗った。目指すは最上階、警視庁長官がいる執務室だ。けれど、あたしが会いにいくのは『カレ』ではない。
あたしが会いたいのは――。
――くすり
その部屋に入った瞬間、唐突に宮田の耳元をかすめていったのは、吐息めいた艶のある声。次いで真っ赤に染められた爪先が、こちらに向かってゆるりと伸びて、宮田の頬を戯れのように引っかいていく。
――それは、まるで猫のよう。
注意深く隠されていた鋭い爪で、隠しようの無い傷跡を残していく。
思わず背後を振り返る。
――誰もいない。
分厚く重たいその扉は、今しがた宮田が通ってきたばかりなのだから、当然ピッタリ閉じていた。ネズミ一匹、通れやしない。
そっと自らの頬に指を伸ばす。恐る恐る、そこに触れてみたが、もちろん爪跡など有るはずもない。その何も無い気味の悪さと、生理的な嫌悪感に、あたしは歯噛みをしながらも視線を正面へと戻した。
その先に、一体何があるかも知らないで――。
まず、鼻先に漂ってきたのは甘くスパイシーな不思議な香り。それは嗅げば嗅ぐほど、もっともっとと体内に取り込みたくなる……麻薬のような匂い。そんな悪い冗談のような香水を身にまとう人物など、あたしは一人しか知らない。
しかし、室内に該当の人物の姿はない。……どころか、いるはずの部屋の主の姿も、お目当ての人物の姿すら、何も無かった。…………正面には。
「……おいっ、顔が不細工になっているぞ」
知らず、しかめっ面になっていたようだ。指摘されて初めて気づく鼻と眉間に寄った皴、そして、引き攣っていた口元を意識して元に戻した。
「……何しに来たのよ」
「それは、こっちのセリフだ」
顔は直せても口調は直せず。
不快感が滲み出たその音階に、眼下に倒れるその男は、呆れたような視線を投げかけてきた。
「久しぶり……一週間ぶりだというのにその言い草。上司をもっと敬うべきではないか? なあ、アマネ?」
「色情狂のババアとこんな処で乳繰り合ってる上司なんて、もっと早くに訴えるべきだったと思わない? ねえ、クソ医者?」
こんな処――宮田がそう呼んだこの場所は、紛れもなく本庁の最上階に位置する部分にあり、本来ならば日本で最も御堅い部屋と言っても過言ではないはずの場所だ。だが今現在、この場に充満しているのは煙の様な紫色の空気。とても清浄とは言い難い。
紺色の絨毯。おそらくペルシャ絨毯であろう、一点物の超高級品の上に横たわっていた男がその身を起こす。男は、絨毯の中央の図柄に刻まれた美しいメダリオンを踏みつけにし、この部屋に鎮座する重厚なマホガニーの執務机の上に浅く腰かけた。
宮田の前を、残像のような黒い白衣が横切っていく。
「ああ、ナニしてたかバレてしまったか。ククッ、悪い。内緒にしておいてくれ」
エッチ、と囁きながら美馬は長い足を卓上で優美に組んで、人差し指を己の唇に押し当て嗤う。その淫靡な姿からは目を逸らして、宮田は地面に吐き捨てるように言った。
「クソがっ……どーでもいいけど。さっさと前、閉めなさいよ」
――マニアック過ぎんだよっ!!
裸エプロン、ならぬ裸白衣。
ロングコートのような黒い白衣の下、いつも着ているはずの白いシャツのボタンは外され、中身がこぼれて見えていた。かろうじて下を履いている分だけ、まだ映像としてマシかもしれないが、彼が動き、話し、嗤い、息をするたびに、その白い肌が、窪んだ鎖骨が、肋骨が、割れた筋肉が動いている。――見えてしまう。
それに、どこか居心地の悪い思いを覚えてしまうのは何故か。
宮田は思わず来なければ良かったと呟き、どんよりとした後悔に肩を落としていた。
ようやくシャツのボタンを閉め直した男に向かって、宮田は再度、同じ疑問をぶつける。
「あのババア。一体、何しに来てたのよ?」
「何って、ナニ?」
「いや。それは、もーいいっつーの。アイツが色狂いなのは、あたしもよ~く知ってるけど、まさかそのためだけに来たってわけないでしょ?」
――そんな与太を信じろと?
鼻先で笑ってやると、目の前の美丈夫は大袈裟に肩を竦めた。やけに芝居がかった仕草だ。大方、いつもの禄でもない悪巧みの真っ最中なのだろう。彼が今回、組み手に選んだ人物の趣味は最悪だ。
――まあ、あの女が最悪だと言うのは今更のことか。なんせ、むこうは旦那の職場で、わざわざ元上司を呼びつけて不倫を楽しむような腐った神経の持ち主なんだし。もちろん、ヤルこと為すこと、悪趣味の塊で当然でしょうね。
「仲良くすればいいのに。数少ない『神捜研』の女性OB同士だろ」
「ハッ! オンナ同士だからよけいキモく感じるのよ、アイツのことが! だいたい、あたしはアイツと違ってまだ、正式に組織を退いたわけじゃない」
「へぇ~、マァ、そういうもん?」
気怠げにため息をつきながら、頬杖を突くこの男の心情はきっと「メンドクセェ」。独身の美馬にとってはアマネも、もう一方も、同じく不倫相手に違いないだろう。だが、それでも二人のポジションは彼の中でも大きく違っているはずだ。
片や、美馬が神捜研を立ち上げた時からの部下であり、ある意味幼馴染とも言える存在。片や、上司の妻にして自分の元部下という存在自体がややこしい女。そもそも、むこうにとっては美馬は不倫相手などではなく、『愛人』扱いなのだ。求められるのは昼ドラのドロドロではなく、即物的な快楽。だが、名称がどうであれ、同じ穴の狢じゃねーかと彼が思っているであろうことはありありと伝わってくる。
それを言葉にしないだけこっちに配慮しているつもりなのかもしれないが、まるで興味も関心も欠片も見えない。仮にも自分ところの部下同士がこうしていがみ合っているのに、組織の長がそれでいいのか、という気もするがそれはそれ。むしろ、自ら火に油を注ぎにきている。恐らく、それもまた彼の退屈凌ぎの一つなのだろう。
それに、もし上司命令で『仲良くしろ』とでも言われた日には、宮田は苦虫100匹ほど噛み砕く思いをしなくてはならない。そんなのはゴメンだ。
そこまで考えたところで、目の前の男がニヤリと笑い、口元を厭らしく吊り上げたのが目に入った。そして、とんでもないことを平然と言ってのける。
「むこうはアマネのこと、嫌いじゃないと思うけど? むしろ、興味シンシンってやつ」
「キ・ン・モ~~!!」
宮田は両手で抱きしめるようにして、自分の両腕に立った鳥肌をさすった。そして、信じられないものを見るかのような目つきで、恐ろしくも頓珍漢なことをのたまう上司を睨みつける。
「ウソよっ!! 絶対、あのババアはあたしのこと、嫌いだもの!!」
「え~? 博愛主義でしょ、あの人」
「違うっ!! ……いや、100歩譲ってアレをそう呼ぶのを許してやってもいいけど、なんか、アイツ、あたしだけには違うのよ」
多分、気のせいではない。そして、その主たる原因は今、目の前にある。その原因はふわぁ~と口を開けて欠伸をしている。そして、気の抜けた表情のまま暢気に言った。
「俺が呼んだんだよ。ま、大した用事でもない。お前が気にすることもない」
嘘だな、と咄嗟に感じたが口にはしなかった。
――そうだ。もう、私が気にすることじゃあない。
宮田は今日、この場に立つにあたって一つ大きな覚悟をしてきた。
宮田は背筋を伸ばすと、目の前にいる男の顔をじっと見つめる。
一生、離れることはないと思っていた一族。
離れたいと藻掻いたが、結局の所ここまで寄り添ってきた男たち、その最後の一人。彼の瞳から目を逸らすことなく、宮田は真っ直ぐに向き合う。
「美馬。あたしは、今回の件が終わったら降りる」
「……」
目の前の男は、何の反応もしない。
男のことだ。きっと、こうなることを予期していたはずだ。その証拠に、彼の顔には驚きも戸惑いも……侮蔑の色すらもない。あるのは一つ、『退屈』だけだ。
しかし、構うことなく宮田は続ける。
「あたしは神捜研を降りる、正式に。そして、もう二度と関わらない」
――『美馬隆二』。アンタとも。
宮田は思う。
揺れていたのだ、ずっと自分は。
グラグラと、土台が崩れて揺れていた。その揺れを一時だけ抑えてくれたのが、悪魔のようなこの男だった。だが、もはや男の抑えだけでは間に合わない。
――だから、潮時なのだ。
ここを離れる。崩れるのは自分だけでいい。
仮に、崩壊を抑える手があったとして、それはこの男のものではない。
だから、
「――だから、アンタも後悔しないようにして」
「…………はっ?」
退屈そうにしていた男の表情がピクリと動く。まさか、自分のことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「『女子連続溺死事件』……犯人分かってるんでしょう? なら、さっさと捕まえなさいよ」
今度こそ男はハッキリ顔を歪めた。その顔には不快感があらわになっている。
「お前の事件は『真夜中のピエロ殺人事件』だろう? よそ様の事件にまで気をかけるとは、随分、余裕そうじゃねーか」
低い声――かつて、アマネを裂くと言ったのと同じ声。だが以前とは違い、宮田は不思議と恐怖を覚えなかった。代わりに胸に湧きあがったのは『憐憫』だ。私はこの男を憐れんでいる。この男はきっと間違う。自分と同じように、間違う。
「さっき素斗さんに聞いたのよ。最近、話題になってるもう一つの事件だってね。……犯人は『犬桜 隼』の友人、『対馬 国彦』。そうなんでしょう?」
疑問形だが、これは紛れもなく解答だった。
同僚の関西弁の彼に貰った隼のプロフィール。アレを見れば大体の想像がつく。捜査をしている刑事の素斗も全く同じ資料を見ているはずだが、彼は気がつかない。それは、思ったよりも単純な理由からだ。
単に視点が違うから。
『神能』――、いや『呪祝』。その存在ありきで捜査をする『神捜研』と、切った貼ったで長年捜査を続けてきた『刑事』との視点のズレ。だから、『稲場 素斗』が『女子連続溺死事件』の真相が掴めずとも仕方がないこと。だが、この男は違う。目の前の、『精神病学捜査研究所所長 美馬隆二』に分からないはずがない。
「捕まえない理由は……『ハイト君』。彼の『神能』を覚醒させるための駒として、使うつもりなのね」
「だとしたら?」
――それがどうした。
美馬の目はそう言っている。宮田はそれに目を伏せる。やはり思ってしまう。『哀れ』だと。彼は気がついていないのだ、まだ自分自身の心に。
「……もし、彼が傷ついたり、死んでしまったらどうするの?」
「それに何の問題がある? 大抵の能力者は一度傷つき、死にそうな目に遭っている。……たとえ実際に死んだとしても、それは、それまでだったという事だろう」
「私を彼から遠ざけたのは彼の能力が目覚める前に、私が彼を助けてしまうから?」
「そうだ」
――くすり。
宮田は柔らかく微笑んだ。
「ウソつき」
「……」
男は沈黙した。少しだけ彼の元に近づく。そして彼の黒い白衣に付いていた、白いナニカを払ってやる。多分、床に寝転んでいた時に付着したホコリなんかなのだろう。
「思ったより貴方は嘘が下手ね。……気をつけたほうがいいわ」
これは最後の忠告だ。
そして、切実な願いでもある。
いつか、胸に抱いたしこりの様な疑問。
恋は人を変える。恋は人を――、凡人を、天才すらも滑稽にする。本人たちにすればそれは真剣な思いの発露なのだろう。だが、傍目に見ると面白くて可笑しくて、そして温かい。
――だが、恋をしたのが『狂人』であればどうなのだろうか。
同じように面白おかしく、温かい顛末を……ハッピーエンドを迎えることが、出来るのであろうか?
「(私はその答えを知っていたのね、とっくの昔に……)」
この男の思いの発露が、恋にあるのかどうかは知らない。だが、それが特別な思いにあることは知っている。
「(私を彼から遠ざけたいのは、彼を私が助けるからではない。……彼を私が殺してしまうことを、恐れたため)」
神社で見た美馬の瞳。その真剣な瞳は、かつて一度だけ私が見たはずのものだ。
「(私は忘れてしまっていたけれども……、今度はアンタの大切な人を、私も殺したくなんかない)」
かつて大切にしていた人――いや、一個の人格。
始まりの、『一』と名付けた彼。あたしと私たちと、美馬隆二を繋いでいた糸の様なものだった彼。それは今はすでになく、あたしが断ち切ってしまった後だ。
恐らく、その時の恐怖がまだ美馬隆二の中には残っている。彼が自覚しているかは知らないが、大切な、きっと初めて大切に思った人物を『アマネ』に殺されたという恐怖が。だから、あんなに必死になって遠ざけようとした。
彼には別の道を選んで欲しい。私たちには出来なかった、選択を。
「大切な人を自分の手で殺しては駄目よ、リュージ」
私は二度とも恋を殺してしまった。
だが、三度目はない。
「さようなら、あたしの…………友達の、友達」
私はそれだけ言って、もう振り返ることはしなかった。




