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美馬精神病学科のオンラインクリニック  作者: 端山 冷
第二消霊 『イマジナリーフレンド』
41/62

聡明なイブ

「はい、紅茶をどうぞ。熱いから気をつけてね」


「ありがとうございます。……ふぅ、美味しいです」


「そう? それは良かったわ」


 ふふふっ、花のようにほころぶ顔に自然と宮田も笑顔になる。


 この洋風の館に置いてもらって早、一週間の時が過ぎようとしていた。

 行く当てもない、という宮田の嘘を鵜呑みにし、此処にいていいという言質を与えてくれた若き主の言葉に甘えて、こうして同居を続けている。


 ちょうど、かのブラックな上司からも諸手をあげて『真夜中のピエロ殺人事件』の調査権限を委譲して頂いたところだ。宮田は『美馬精神病クリニック』にも、『神捜研』にも顔を出さずに、ずっとこうして彼女の傍でその動向を観察してきた。


 その間、目に見える変化、見えぬ変化……様々あった。だが少なくとも、宮田アマネと烏水ミノリ、その両者の間にある関係は大きな発展を迎えていた。


 気の置けない同居人、または、良き隣人へと――。


 そして時たま人形のようだった彼女の顔に、こうして固い蕾がほころぶような可憐な笑みがこぼれる事がある。同居を通じて僅かにだが、宮田は彼女の興味を引くことに成功していたらしい。


 もちろん、依然、彼女が『黒屍病』を患っている事実に変わりない。義父、他数名を殺したのも彼女だろう。だが、宮田が館に来てからというもの烏水ミノリが殺しをしたという事実もない。


 レベル3にしては驚くほどに穏やかな日々を送っている。これは宮田個人の意見ではあるが、日によってはむしろ彼女の症状は軽くなっている気さえしている。


 ただ、宮田は捜査官であって『美馬隆二』のような精神科医ではない。だから、これら全ては気のせいだという可能性もある。基本的に黒屍病は、一度悪化すれば症状の回復は困難である。だから、宮田は自身が見たい幻を夢見ているのかも知れない。だが、それでもわずかな希望を抱き始めていた。もしかしたら、この娘は病を克服できるのではないかと――。


 それは……、かつての私のように。






 こうして窓際のティディベアが見守る中、二人向かい合ってソファーに座り読書をする……なんてことも、珍しくはなくなっていた。

 美禮は読書が好きだ。彼女は大抵の場合、大人しく座って文庫本をめくっている。どこかに出かけることは滅多にせず、聞けば今は大学も休学中だそうだ。


 両親の突然の死去。

 ましてや、それが病死でもなく事故死でもないとくれば、誰も彼女の行動に口を挟める者などいない。

 恐らく、彼女にはもう復学する意志はないのだろう。このまま、この館で静かに朽ちていく。そういった強い意志を近頃の彼女には感じていた。


 それはある意味、望ましい選択だ。

 これ以上の犠牲がなければ彼女を見逃すことができる。いずれ警察も諦める。神捜研だって美馬の興味がないのだから、わざわざ追って調べたりはしない。


 ……犠牲者には悪いが、宮田はそう望み始めていた。



 


 ――いつもの光景。

 わずか一週間という短い期間でもそう感じるほど見慣れ親しんだ景色に、宮田はゆっくりと肩の力を抜きリラックスして紅茶の香りを楽しむ。


 ふと、興味が湧き、まだ温かいカップを持ち上げたままの姿勢でタイミングを計る。なんのタイミングかと言えば、読書にふける彼女に話しかけるタイミングだ。


 宮田は、紺色のカーディガンを羽織った美禮がちょうど顔を上げた瞬間に声をかけて訊ねた。


「ねえ。今、それ何を読んでいるの?」


「これですか?」


 話しかけられるとは思ってもいなかったのか、美禮はかすかに目を丸くして驚いた表情をした。ついで、何かを言いかけた彼女は、ただ文庫を手に挟んだまま表紙がこちらに見えるように大きく広げて見せた。


「『私という他人―多重人格の病理』という本です。なんでも映画にもなったこともあるらしく……」


「ああ、『イブの三つの顔』か。たしか、主役の女優がアカデミー主演女優賞とゴールデン・グローブのW受賞したやつね」


 随分と古い本を読んでいるなと素直に感心する。


 ハリウッド映画の原作ともなった小説で、平凡な主婦の中にいつの間にか三つの人格が潜んでいたというお話だ。今ではよくある多重人格ものだがその当時は物珍しかった。もう、60年以上前のオールド映画で主婦のイブ・ホワイト役の女優、ジョアン・ウッドワードの妖艶な演技が素晴らしかった。


「失望のイブ、魔性のイブ、聡明のイブ――、実話をもとにつくられた映画、その原作です。たしか、映画では最後に聡明なイブだけが残った。でも、実際には原作者の方はずっと、40年間もの間22もの人格に操られて生きてきた」


 一旦、本を閉じてから文庫の表紙をそっと撫でる美禮の横顔は、とても静かな湖畔のようで波一つ立つものがないように見えた。


 だが、彼女が何も感じていないはずがない。

 

 宮田は、静かに金色の装飾が施された優美なティーカップとソーサーを持ち上げる。一口飲んでほっと息を吐く。美味しい。――きっと高級な茶葉が使われているのだろう。


 もう一口、コクリと飲んでから正面の美禮の顔を見据えて頷いた。


「治療は随分と難航したようね。昔は医者も悪かったのよ。何がなんでも人格統合がしなきゃって感じで、なかば強引に人格統合を推し進める輩が多かったみたいだし。患者の気持ちなんて二の次で、医者自身がなんだか難しいゲームを攻略するかのように面白がっていたみたいに思えるわ。さぞ、『やりがいのある病』だったんでしょうね……」


 宮田はサラリと他人事のように言って、手にしていたカップを机の上に戻す。カチンと小さく陶器が重なった音が響いた。宮田は続けて言った。


「それが現代になってからは治療法が変わり、当時とは真逆の論調になったのは興味深いわね。ま、当時の患者たちにしてみれば、たまったものじゃあないでしょうけれどね」


 肩を竦め、おどけてみせたが反応はイマイチ。美禮は首を傾げてぼんやりとしている。宮田はそれに再度、肩を竦めて苦笑した。


 遡れば18世紀、夢遊病患者を『二重意識』と名付けたことからこの症例は始まり、19世紀には『ヒステリー』という分類がなされた。そして、件の映画の影響などによって1950年代からじょじょにその存在が民衆に広まり、患者数が爆発的に増えたことで医療現場でもその治療が発展してゆく。


 正直、職分だとは言え医療現場(彼ら)の熱狂ぶりは普通に気色が悪い。多重人格についての論文も多く、熱心な研究があったらしいが、それはどこか歪んでいるように感じる。宮田の考えすぎだろうか?


 だが事実、過去に遡れば遡るほど、割と精神科医がしでかしていた医療行為には、血の気が凍るほどに恐ろしいものがいくつもあった。


 『本当にあった怖い医療』……そんなマッドメンで大丈夫? と問い掛けたくなるような事例は山程ある。あの悪名高い『ロボトミー手術』とかその代表例だろう。当時は最先端の医療だったらしいが、ほんと、いやマジで脳を切ったり取ったりするか普通? ドン引きだ。


 最早あそこまで行きつくと、現代の私たちの感覚ではどっちが患者なんだと問い正したくなるほどだ。


「……」


 目の前のカップの中には、黄金色の液体に反射して女の顔がぼやけて見えてた。思わず深い溜息が口をつく。


 一体、現代の治療法とやらに辿りつくまでにどれ程の人格たちが医者の手で葬り去られてきたことか。考えるだけで胸が苦しくなる。しかも、それだけやってみても今の治療法が正解とは言えない。まだまだ発展する。……、まだまだ、人格の犠牲が必要だ。

 これは決して医師たちが悪いわけではない。全てのどんな病も、最初から迷わずに正解に辿り着くことなど出来ない。


 積み重ね――それが全てだ。

 結局、患者たちの苦しみを積み重ねて、より良い治療法を見出すしかない。

 未来のために。


 宮田の向かいに座る美禮は、サラリと長い黒髪を揺らしてこの話題から再び能面のように固まってしまった顔を持ち上げる。そして、無機質な声でポツリと呟いた。


「人格統合……、本当に昔はやっていたのですね。先生に言われました。べつにそれを目指す必要はないと。大きな支障がなければ、人格を消すことよりも、上手く付き合うことを覚えたほうがいいと」


 先生――。


 同じ場所で、同じ呼称で呼ばれる人間が、同じ症例を相手に十数年の時を経て、過去とは真逆の治療を施している。そう考えると、なんだか笑えてくる。こうして新旧の患者が互いの顔を突き合わせる時が来るなどと、私の『美馬先生』は考えたことがあっただろうか?


「……あまり、そういうのは読み過ぎないほうがいいわよ。そっちへ引っ張られるし、嘘の記述も多い。嘘じゃなくても、病気は常に変化するから参考にもならない」


 宮田は言って下を向く。


 そう、精神病だって日々変化している。定義が変わり、呼称が変わり、治療法が変わる。人々の認識も変化してきている。もう、私たちの世代が受けた治療は古びていた。しかし、変化は必ずしも悪いものではない。良いものだって、たくさんある。


 例えば、昔だったら『精神科専門の病院』なんてものはイコール狂った患者のいる牢獄、みたいに受け取る人間もいた。特に田舎の方では、そういう目的に作られていた『座敷牢』なんてものが存在していたのは驚くほどについ最近までのこと。


 それが今では、代官山のOLたちも通うような高級ブティック感覚のクリニックも多数存在している。消毒薬はアロマオイルへ、陰気な看護師は首にスカーフを巻いたアップヘアの女性へと化け、それはじわりじわりと日常的に溶け込んできている。……浸食されている。


 色眼鏡が消えたことはいいことだ。だが、どの区画に行ってもメンタルヘルスが乱舞している現代社会。それが良いことかなのか悪いことか……。賛否はもちろん、あるだろう。


 『多重人格者』についての認識もそうだ。


 映画になり本になり、身近になった分だけ人々にも知識が増えた。理解される、それ自体は喜ばしい。人は理解できないものには特に攻撃的になるのだから、その意味で言えば、現代社会は過去のどの時点より多重人格者でも過ごしやすいかもしれない。


 だが、知識が増えれば使いたくなる。身近にいれば構いたくなる。しかし、素人が分かった気になって施す治療擬きこそ厄介なものはない。特に『多重人格障害』、否、現代では『解離性同一性障害』と呼ばれるコレに関しては、決して相手が親兄弟だろうが分かった気になって何かしようなどと安易に考えては駄目だ。


 一度絡まってしまった糸を解くのは困難だ。

 精神の病は一瞬で悪化する。が、回復には幾多の時間が必要なのだ。



 ――ただでさえ、コレは『医(・)原(・)性(・)』が訴えられている……。


 机の下、宮田は震える拳を固く握りしめていた。



 誤(・)っ(・)た(・)治(・)療(・)は(・)地(・)獄(・)を(・)生(・)む(・)。


 40年間、決して他者に理解されぬ苦しみが続く生き地獄。そんなことが、『医療由来』の事由によって本当におこり得るのだ。





「……『医原性』?」


 疑問符と共に肩に流れた黒髪が視界の端に写り込み、宮田はハッとして顔を上げる。小さな呟きは全く意図したものではなかったが、正面にいる相手の耳にはちゃんと届いていたらしい。自分の迂闊さに舌打ちをしたくなるのを堪え、宮田はぎこちなく笑った。


「ああ。『医原性』っていうのは、医療行為が元で引き起こされる病のことよ。患者の治療のために行われた医療行為が、新たな疾患を引き起こす……医師の言動や医薬品の投与、治療手段などによって患者の中に新たな病を創ってしまう。そんなことがあるのよ、実際。ステロイド投与によるステロイド性緑内障なんてのは仕方がない副作用だけれど……、もし、それを故意にやるような医者がいるとしたら、そいつは医者なんかじゃない!!」


 ――ただの狂信者だ


 強く噛みしめた唇から出てきたのは、血ではなく怨嗟の響きだ。制御できない感情が湧きあがり、瞬間的に激高していた。

 しかし、真向いの静かな湖畔のような瞳には、数分前と同じく一切の波が立つことはなかった。


 ある意味、こうして話している相手がこの鈍い美禮で助かった、と宮田は頭の片隅で考える。こんな姿、とても人前で見せられたものではない。


(医療という名の神に仕える狂信者。彼らに出来ないことなどない。大義名分は人のため、未来のため。なんて素敵! なんて傲慢!! 全ては治療のために、ただしそこには倫理感も道徳感もありはしない。彼らの信ずる神の下では、そんな全てが取るに足らないもの……ですものね) 



 頭の奥で響く、心地の良い甘い調べが恐ろしい。

『キミが救うんだ』『私が救おう』


 

 ……駄目だ、自分を抑えなくては。

 ここでいつぞやのカフェと同じことをしてはいけない。しかも、相手は『黒屍病』患者。反撃の危険があることはもちろんだが、それ以上にこの危うい状況にいる彼女に余計な刺激を与えたくはない。


「――大丈夫ですか? アマネさん。顔が真っ青です」


 相変わらず大根役者よりもひどい棒読みのセリフだが、それでもそう言ってくれるだけマシというもの。もし、これが数日前なら、たとえ目の前で心臓発作を起こし宮田が倒れようとも、彼女は変わらず本を読み続けていたことだろう。


「ごめんなさい、ちょっと興奮しちゃって」


「……そうですか」


 宮田に対しての興味。だが、それは極わずかなもの。


 美禮は相変わらず、外界に興味がない。シャットダウンしている。宮田がしようとしていることは、恐らく報われることはないだろう。乾いた砂場に小さなジョウロで水をやるみたいな、意味がない行為。


 だが、すると決めたのは宮田自身だ。してやりたい。いつか誰かがしてくれたように。僅かにしか救われなくても。


(……今、私に出来ることは、きっとそれだけ)


 宮田は自嘲し、ほろ苦い笑みを浮かべた。


「それじゃあ、『解離性同一性障害』は医原性なのですか?」


 鈴のような美しくも平坦な声。やはり外界に興味は無くても、自分の病に関しては多少惹かれるものがあるのか美禮が問うてくる。自分自身を知りたいという欲求は、正しく本能のようなもの。


 今の宮田にとって、その問いは歓迎は出来るものではなかったが。


「全員ではないのだけれども、そういうふうに医療的に定義付けた者もいるのよ。皆が思っているよりも、自己という意識は曖昧なもの。不変でも、正しいものでもない」


 治療によって、医師の手によって第二、第三の人格が創られる。許される行為ではない。だが、元より許しを必要としない人間ならばいとも容易く出来る行為だ。


「そう言えば……解離性同一性障害の患者に施された催眠療法で、患者に嘘の記憶が創られるということを別の本に書いてありました」


 美禮はぺらりと手元の本のページをめくり、不思議そうに言った。それを聞いた宮田は目を伏せて答える。


「……精神科医の多くは病の原因を過去の記憶、もっと言えば『幼少期』の悲惨な体験に求める。セオリー通りならこの子は幼少期に肉体、もしくは精神的に酷い苦痛を受けているに違いない。そう疑ってかける催眠によってその疑いは確信となる。ただし、偽物の記憶が本物の記憶へとすり替わっていたという現象も報告されている」


 過去、アメリカで大問題になった事件があった。幼い少女が催眠によって思い出した『悪魔儀式』。それは偽りの記憶だった。彼女は両親に連れられて血生臭い儀式に参加し、そして父親含む多くの人間から性的虐待を受けたと訴えた。だが、そんな事実はなかった。


 妄想、空想、想像。不確かな催眠状態でフィクションをノンフィクションに塗り替えられた娘は、しかし、そんな説明を受けたところで納得いかない。嘘の苦痛はそれでも本物と変わらぬほどの苦しみを伴う。彼女は自らの父親を赦すことが出来ず、終には泥沼の法廷劇にまで陥ったのだ。


 始まりは、病んだ子を親が救おうとしただけの事なのに――。





 悪意なき害意。嘘の記憶が埋め込まれる。

 不思議なことに同様の事例は一つではない。世界中、数多くの報告がある。


 一時期、日本でも流行った催眠療法が廃れていった主な原因はここにある。信頼性が危うい上に、患者に医原性のトラブルを引き起こす可能性がある。


 例え事実ではないと分かったとしても、仮にレイプをされたという記憶が脳に残っていればどうなるだろうか? その相手となる人間といままで通りに関係を続けることは出来るのだろうか? 答えは無理だ。二人の仲は悪化し、関係修復は困難となる。


 解離性同一性障害の患者の中には、確かに苛酷な幼少期を送った人間たちも数多くいる。残念ながら幼少期の性的なトラウマが原因となり発症する者が多いことは事実であるが、当然ながら全員がそうとは限らない。


 ただ、我慢し続けた甘え下手の『いい子』と呼ばれるような子供が、自己にかけた抑圧により突然発症するなんてこともある。大人になってから強いストレスを受け、そうなる者だっている。もっと原因は複雑であり、多種多様なのだ。

 

 しかし、人は理解できないものには不寛容だ。

 人は、人を、型に当て嵌めたがる。

 それは、精神科医だって例外ではない。


 当然のことながら、人はそれぞれに感じ方が異なる。精神を病む理由も他者にとっては我慢できる、取るに足りない事由と言われることも少なくない。ならば、発症理由なんてバラバラで当然。八百万、いや星の数ほどあってもいいはずだが、実際は既に症例のパターン化が著しい。





 しばしの沈黙が辺りを包んだ。そこへポツリと一言。美禮が放ったそれは、水面に落ちた波紋のように瞬く間に部屋中に広がっていく。


「……聡明なイブ。何故、彼女だったんでしょうか?」


「……え?」


「失望、魔性、聡明……三つの顔のなかで一番の強者だったのは、『魔性のイブ』です。彼女は生き生きとして、自由に好きなものを好きだと言っていました。人生を謳歌していました。それなのに、最後には自らイブを聡明へと譲り渡して消えていった。映画はフィクションですが、これが原作者にとっての理想の結末だったのでしょうか?」


 美禮は先に映画を見ていたのか、妙に詳しかった。


 確かに、あの映画の中の三つの人格の内で最も強いのは魔性のイブだろう。失望のイブ……元の人格にとって、その姿は抑圧された自己を解放した姿であり理想とも言えるものだった。男相手に啖呵を切り、手玉に取って高笑いするその姿は、当時の古き良きアメリカにおいて全女性の理想とも言えるものだったのかもしれない。


 しかし宮田は首を振っていた。無理だ、そんなものは。


「魔性はなりたい姿、理想の人格だった。だから、最初から無理だったのよ。人は完璧な人格を創り出せない。創れたとしても、それはほんの数時間程度しか演じることが出来ない。魔性のイブは完璧だったゆえに、イブ自身の負担が大きかったんじゃないかしら?」


 確かに、魔性のイブのような女性は現実に存在している。蝶のように舞い天空を羽ばたくような女性が。しかし、そういう人間は元より『別人格』など必要としない。彼女たちは自らの努力、そして天性の輝きをもってそう生きるのだ。

 しかし、イブ・ホワイトは違う。元が抑圧が強い人間であったからこそ、魔性のイブを生み出した。元は無気力なはずの人間が生き生きと生きる。無理が来ないわけがない。


「では元の人格が消え、別人格であるはずの聡明が残ったのは何故です?」


「それは――」


 美禮はまるで先生に尋ねるかのようにして宮田に問う。宮田は少しの間、言葉に詰まった。


 確かにおかしい話だ。元の主人格に取って代わり、別人格を生き残らせたのは面白い発想だ。脚本か監督か……たしかに原作者も、映画がつくられる前からこの結末を知っていた可能性は高い。


「分からないけれど、理想だと私も思うわ」


 知らず、そう口にしていた。

 主人格が出来ないことをしてくれる人格。その中でも取り分けて賢く、聡明な人格。


「あのね、多重人格者の中でも『救済者』と呼ばれる人格がいるの」




 正式には『内的自己救済者』



 複数の人格が存在する場合には普通、主人格は他の人格の存在や行動を知らないことが多い。また、人格の中には主人格や自分以外の人格の存在を知っている者がいるが、それら全てを把握するような人格は滅多にいない。が、たまに全てを掌握して他の人格や主人格の行い、感情などを把握している人格が現れる。


 それが『内的自己救済者』


 彼らはその名の通り、自己を救済するためにつくられた特別な人格。他の人格よりも落ち着き、賢く、思慮深い。自傷行為や破壊行為を繰り返すような自己解放のための人格とは異なる。主人格がこの現状をなんとかしなければと憂い、自身の救済を望む強い欲求の下、最後の希望を託されて身の内に出来た最終砦だ。


 彼らは創り出された使命を全うするため、なんとか救済の手を伸ばしてくれる。それは人格の整理や、過剰な行動の抑制だったりする。


「抑圧が解放されただけの姿である『魔性』なんかよりも、もっと完璧に近い存在。彼らが人格の一部ではなく主としての機能を備えた人格になるのならば、それはそれで主人格にとっても本望じゃないかしら?」


 なにしろ、正真正銘の理想のヒーローなのだ。なりたい自分、なんてものよりもっと素晴らしい。どうしようもなく駄目な自分をも救いあげてくれる、理想以上完璧な存在だ。


 映画の『聡明』は『内的自己救済者』には見えなかった。しかし、原作者にとって理想の自己が最も思慮深い『聡明』であったのは共感できる。


「結局、私を本気で助けようとしてくれたのは彼だけだった……」


 宮田の内にいた48もの人格。その中の誰もが傷つき苦しみに藻掻いていた。余裕のなかった彼らには、押しつけられた役割に主人格を憎んでいても助ける道理はない。たった一個、『内的自己救済者』だけ。彼だけがアマネを責めたりはしなかった。慈しんで愛してくれた。


「羨ましい……」


 憑りつかれたように呟かれた一言。


 ここにいる自分が、もし彼だったら。そんな夢想を思い描いたことは数限りない。それならば、きっと全てが上手くいく。離婚もせず、神捜研でも活躍し、今頃は悪人をちぎっては投げちぎっては投げ、美馬の本当の相棒にもなれたはず。 






「……羨ましい、ですか。でも私は……」


 刺されたように苦しげな表情。


 初めて目にした美禮のその横顔には、ただ悲しみだけが浮かんでいた。

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