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ゴルトベルク市は、僻地とはいえオステンバッハ支部管轄下では最も大きな都市であり、唯一周囲を強固な城壁で覆っている街だった。かつて蛮族との戦争で砦として築いたものの名残だと言う。年を経てだいぶ劣化が進んではいるものの、未だそびえたつその様は圧巻で、重要な観光資源として集客に余念がない。
一方で最も近いノイシュロスでは別世界のように過疎が進んでしまっている。農業しか産業がないから、誰もがゴルトベルクのような都市部へ出て行ってしまうのだ。逆に、距離的にはそれほど差があるわけでもないのに、子供が多くいたブリュケライヒのような例は珍しい。後者は街道に近く、人が立ち寄る機会も少なくないというのもあるだろうが。
ゴルトベルクには何度か訪れているが、ノイシュロス側から立ち寄るのは今回が初めてである。だから表門とは勝手が違うのだろうことは覚悟していたのだが、どうにも様子がおかしかった。
「なんだ?」
城壁の向こうからただならぬ気配を感じて、思わずサラヤは足を止めた。だがすぐさま、駆け出す。後れを取ることが、取り返しのつかない重大な事態を生む気がしたのだ。
来訪者への検問のために、門番が立っているのが常であるというのに、そこには誰もいなかった。城壁は開きっぱなしになっていて、小さな詰所では当番と思しき兵士が意識なく倒れている。
「おい、どうし……」
声を掛けようとして気づく。彼には、影がないことに。既に、はぎ取られているのだ。彼女らが追いかけている犯人に。
サラヤは思わず、開かれたままになっている街の方へと目をやった。短いトンネルの向こうにはさまざまな気配とざわめきが満ちているが、城壁の暗がりが邪魔をしてこちらからではどこまで邪なものなのか判別できない。まるで奥に入ることを見越しているかのようだ。
もちろん、ここで立ち止まりリカルトを待ってなどいられるサラヤではない。
「罠だろうがなんだろうが、行ってやんよ」
覚悟を決めて、サラヤは足を踏み出した。果たしてそこに広がっていたのは、ノイシュロスで見たような影による襲撃の様―――などではなかった。
軒に並ぶ露店。店先を覗き込む客らと、商人による呼び込み。行きかう人々の活気に満ちた様子。清掃の行き届いた石畳と、角砂糖を神経質に並べたように整然としている家並の中で、生活する人々。
何気ない当たり前の日常が、そこにはあった。
「な……」
夢でも見ているのかと言葉を失ったサラヤだったが、すぐに気づいた。目の前の景色に紛れ込んだ不自然さに。
行き交うほとんどの人々の足元には、影がないのだ。だがそれらは騒ぎもせず暴れもせず粛々と、日常に溶け込もうとしていた。ほんのり昏いそれらのものと、影の健在な明るい顔の人が笑い合っている。あれほど邪悪で弾けていたものと同じには思えないほど、普通の人々の平和な日常の中に混ざり合っていた。まるで鬱憤などないかのように。
だが果たしてそんな人間が、存在するだろうか。
影のある人は、影のないものの不自然さには気づかない。城壁による大きな影に、多くが覆われているためだ。だが彼女の目には明瞭に、二つの違いが見て取れた。
サラヤは舌打ちして、小さく毒づく。
「まがい物どもが。人の振りなんかしてんじゃねえぞ。てめえの影も持ってねえくせに」
その瞬間、影どもが挙ってサラヤの方を見た。ほぼ彼女の口の中で消えて行ったほど小さな声なのに、まるであらん限りの絶叫を上げたかのように。
談笑していたものも、店で売り子をしていたものも、商品を受け取ろうとしていたものも、ただその場を通り過ぎようとしていただけのものも、窓から身をのり出して洗濯物を干していたものも。
皆、口を閉ざしてこちらを見た。その動きをきょとんとした顔で見ているのは、影のある人たちだ。
「自己紹介、どーも」
その数の多さに、怯んでしまったことは否めない。そこを付け込むように、影らは一斉にサラヤに襲い掛かってきた。正面から挑んできたものを反射的に殴り飛ばしたサラヤだったが、どうやら既に進化を遂げているものらしく、一撃では消えなかった。
「くそ、めんどくせえ」
影らは次から次へと押し寄せ、獰猛な声を上げながらサラヤを捕まえ押し倒そうと掴みかかってくる。同時に商店を襲撃しながら、影を踏まれていない普通の人へも、影らは襲い掛かっているようだった。あちこちから悲鳴と破壊音が上がる。
辺りは瞬く間に阿鼻叫喚の様相を呈した。サラヤとしても数が多すぎて、無辜の人を助けるどころか自分を守ることで精いっぱいだった。たまらずその場を駆けだして、少しでも手の届かないところへ逃げるべく跳躍する。
彼女が目指した先は、角砂糖のようにきっちり切り出された住居の天辺だった。城壁より高く建造することは景観保護から禁止されているようだったが、多くがぎりぎりまで高く作られている。こちらはさすがに城壁と違い、何度も手が入っているようだ。サラヤは跳躍を繰り返し、ひときわ白くて新しい建造物の屋上へと降り立った。まだ住人は入っていないのか、その下に人の気配がしなかったためだ。
だがそれでも彼女がいるのは城壁にほど近く、蠢く影どもがこちらへ向かってこようとしているのが見えた。
「あいつら、なんでこっちに来るんだよ」
先刻の彼女の言葉が、よほど気に食わなかったのかもしれない。そうして地上を見下ろしていたサラヤは、不意に視線を動かして、気づく。
彼女の足元に広がる白い石材。頭上から日差しを浴びているのに、そこには白以外、何色も映らない。それは、当然だ。
だがもう一つ、それがない者がいた。彼女はそれを見ているはずだ。そう―――影を奪い去った、あの足。少年の長く伸びた影を踏んだ足には果たして、あっただろうか? 否。
「あいつも、影がない……」
ぞくりと背筋を震わせて、サラヤは顔を上げた。彼女が入ってきた門の方の壁は、少し朽ちて抉れて、低くなってしまっている。そのため、高所にいる彼女の目には、ふらふらと近づいてくる男の姿がはっきりと映った。
リカルトだ。
同じく陽光を浴びているはずの彼の足元。見間違いでないならば、あるべきはずのものがなくなっているではないか。だが目を凝らそうとする彼女の視界から去るように、リカルトは疲労を押して必死に走り出した。門番の様子に気づいたようだ。
「あーあ、ばれちゃったね。つーか、やっと?」
背後から聞こえてきたのは、硬質な足音が石材を叩く音。振り向いた先にいたのは、昏い笑みを貼りつかせたリカルトとうり二つの仄暗い男。
もちろんその足元に、影はない。ただ靴音を鳴らした際に生じた、冷たい焼け跡が残るのみ。