第二話
梅雨が明け、ジリジリとした強い日差しがキャンパスのアスファルトを照りつける7月上旬。夏休みを目前に控えたお笑いサークルは、夏の学内ライブに向けた熱気でムンムンと沸き返っていた。このライブは一年生にとって最初の大きな舞台である。
部室のホワイトボードには、出演するコンビ名とネタのタイトルがずらりと並んでいる。その中の一角に、『ダブルベース』という名前が新入生ながらしっかりと書き込まれていた。
「おっ、いいじゃん、ダブルベース。初舞台のわりに端っこじゃなくて真ん中あたりの出番だな」
先輩に声をかけられ、魁真は「はい、頑張ります」と元気よく返事をしたものの、その表情の奥には拭えない重苦しい影が落ちていた。
あれから、2人はコンビとして本格的に動き出し、夏ライブに向けてネタの練習を重ねてきた。しかし、ここ数日、魁真はこれまでにない絶望的なスランプに陥っていた。
原因は、拓人が書いた【完璧な台本】だった。
数日前、拓人はA4のコピー用紙を2枚にまとめた見事な台本を魁真に手渡した。
「一応、構成は組んでみた。ボケのタイミングと、それに対するツッコミのセリフ、だいたいの流れはこれに沿ってやろうと思う」
受け取った魁真は、その完成度の高さに驚いた。さすがは文学部に所属し、人の心理や笑いのツボを熟知している拓人である。起承転結が美しく整えられ、どこで笑いが起きるかの計算まで完璧に記されていた。
しかし、その【完璧な台本】が魁真を縛りつけていた。
公園のベンチ。セミの鳴き声がうるさく響く中、2人は今日も台本を片手に練習をしていた。
「ええと……ここで俺が『いや、なんでだよ!』ってツッコんで、そのあと拓人が『いや、実はこうで……』って返すんだよな」
「ううん、そこはもうちょっとタメを作ってから。『いや、なんでだよ!』のトーンをワントーン落としたほうが、次のボケが生きると思う」
「こうか? いや、なんでだよ……!」
魁真は頭で考えながら、台本の文字を忠実に再現しようとする。しかし、文字を追えば追うほど、自分の声が自分のものではないように感じられてしまう。棒読みになり、ツッコミのタイミングがコンマ数秒ずれる。いつもの、あの伸びやかで愛嬌のあるキレが全くない。
「……魁真」
練習を止めた拓人が、じっと魁真の顔を見た。その切れ長の目が、心配そうに細められている。
「なんか、今日もうまくいかないね。声も硬いし、文字を思い出しながら喋ってる感じがする」
「……わりい、拓人。なんか、頭ではわかってるんだけど、この台本通りにやろうとすると、自分の言葉じゃなくなっちゃうんだよな。変に噛んじゃうし、ツッコむタイミングも全然しっくりこなくて……」
魁真は頭をガシガシとかきむしり、持っていたペットボトルの水を一気に飲み干した。
悔しさと、申し訳なさで胸が締め付けられる。拓人の才能を一番近くで見て、その面白さを誰よりも理解しているからこそ、自分のせいでこのネタが台無しになることが何よりも怖かった。
「台本通りに完璧にやらなきゃいけないって、思い込みすぎじゃない?」
拓人は穏やかに言ったが、その声の裏には焦りの色が隠しきれていなかった。
「この構成通りにやらないと、全体のオチまで綺麗に繋がらないんだよ。だから、もう少し……」
「わかってるよ! わかってるけど、体が動かないんだよ!」
魁真が思わず声を荒げた。普段は温厚でムードメーカーな魁真がそんな風に声を張り上げるのは珍しかった。公園の木から、驚いた雀が数羽飛び立っていく。
気まずい沈黙が、ジリジリとした夏の空気の中に落ちた。
「……悪い。大声出して」
「いや、俺こそ。無理に型にはめようとしすぎたかも知れない」
拓人はそう言うと、それ以上追及せず、今日はそこで練習を切り上げることにした。しかし、残された時間はあとわずか。学内ライブの本番まで、もう数日しか残されていなかった。
それからの数日間、魁真の焦りはピークに達していた。
夜もベッドの中で台本を頭の中で反芻し、寝返りを何度も打つ。授業中もノートに「ツッコミ」「間」「テンポ」と書き殴っては消し、焦燥感に押しつぶされそうになっていた。自分の不甲斐なさが憎かった。
一方の拓人も、静かに思い悩んでいた。
部室の隅で、一人ノートパソコンの画面を見つめながら、拓人は考えていた。
(違う。魁真の良さは、用意されたセリフを綺麗に回収することじゃない。あいつの魅力は、もっと人間臭くて、感情の熱量がそのまま声に乗るところにあるんだ。俺が綺麗すぎる台本を作ったせいで、魁真の良さを殺してる……)
拓人は、自分の書いた自信作の台本を、画面上でパチンと閉じた。
そして、小さく息をつく。
(このままじゃ、本番で絶対に失敗する。二人でスベって終わる。……いや、それだけは絶対に嫌だ)
拓人の脳裏に、ある「秘策」がひらめいていた。それは、あまりにもギャンブル的で、準備してきた周囲の常識を覆すような危険な賭けだった。
しかし、今の停滞した状況を打破し、あの日の学食で感じた「この男と一緒にやりたい」という直感を信じるなら、これしか方法はない。
「……ふっ、怒られるかもな、あいつに」
拓人は一人、不敵に、しかしどこか楽しそうに笑うと、すぐにペンを走らせ、新しいメモ書きを何枚か作成し始めた。
ライブの前々日。最後の通し練習の日がやってきた。
相変わらず青ざめた顔で、ガチガチに緊張している魁真。その横で拓人はただフッと微笑み、不敵な目を向けるだけだった。
秘策を胸に秘めた拓人の表情には、奇妙な余裕と、底知れない覚悟が宿っていた…。
果たして、この直前の大勝負が、二人の運命をどう変えるのか――。夏学内ライブの幕が、今まさに開こうとしていた。




