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第一話

4月、新緑の匂いがまだ冷たい風に乗ってキャンパスを吹き抜ける季節。大学の門をくぐる学生たちの足取りには、誰もが新しい生活への期待と、ほんの少しの不安が入り混じっていた。


東都大学の経済学部に合格し、ピカピカの学生証を手に入れたばかりの忍足魁真は、早くも周りの熱気に圧倒されていた。賑やかなサークルの勧誘の波をどうにかやり過ごし、キャンパスの隅にあるベンチで一息ついていると、同じ学部の友人がスマホを片手に駆け寄ってきた。


「魁真、いいところに来た! お前、お笑い好きだろ? サークルの新歓、一緒に行こうぜ。『お笑い研究会』の部室、この奥の棟らしいんだよ」


魁真自身、お笑い番組を見るのは好きだったが、まさか自分が大学でお笑いをやるとは思ってもみなかった。しかし、新しくできた友達の誘いを断る理由もなく、「まあ、見学だけで雰囲気を知るのも悪くないか」と、魁真は軽い気持ちでその後をついていくことにした。



――それが、彼の大学生活、ひいては人生の大きな転換点になるとも知らずに。



お笑い研究会の部室がある部室棟は、少し古びていて、部室前の壁には過去のライブのポスターやイベントの張り紙が無数に貼られていた。ドアを開けると、部室内はすでに何人かの新入生や先輩部員でごった返しており、独特の活気と澱んだ部室特有の匂いが混ざり合っていた。


「いらっしゃい! 新入生? ちょうどネタ見せやってるところだから、奥に入ってよ!」


先輩に促されるまま、魁真たちはパイプ椅子に腰掛けた。その時、前方の小さなステージ(という名の段差スペース)の端に立っていた一人の学生が、ふと視界に入った。


ーー森畑拓人。


後から知ることになるその男は、特別派手な格好をしていたわけではない。自然体の黒髪ショートヘアに、文学部らしい落ち着いた雰囲気。しかし、その場に佇んでいるだけで、周囲の空間だけがスッと静まり返るような、不思議な存在感を放っていた。大きく切れ長な目元は、どこか遠くを見つめているようでもあり、目の前のすべてを冷徹に観察しているようでもあった。


その日、先輩たちがコンビを組んで簡単な漫才やコントを披露していたのだが、拓人はまだ相方が決まっていないのか、一人でポツンと座っていた。


「じゃあ、最後に……新入生で、なんかやってみたいやつ、いるか?」


先輩の軽い振りに対し、部室の空気がわずかにピリッとした。誰もが目を逸らし、気まずい沈黙が流れる。


「じゃあ、ちょっといいですか」


その瞬間、拓人がスッと立ち上がった。声は低く、しかしよく通った。拓人はマイクの前に歩み寄り、特に緊張した様子もなく、ポケットに片突っ込んだまま軽く頭を下げた。


「あの、文学部の一年、森畑です。適当に…隣の席のやつと話す設定でやります」


拓人は客席にいた別の新入生を指名し、その場で即興のコントのようなものを始めた。大げさなセリフがあるわけではない。特別な小道具もない。ただ、日常のありふれた一コマを切り取ったような会話劇だった。しかし、拓人の口から紡ぎ出される言葉のチョイス、間の取り方、そして相手のボケやリアクションを完璧にコントロールするような絶妙な誘導は、見ていて鳥肌が立つほど鮮やかだった。


「なんだこれ……すげえ……」


誰かがぽつりと呟いた。魁真もまた、言葉を失ってステージを見つめていた。笑わせようと必死に声を張るわけでもないのに、部室の全員が拓人の一言一言に引き込まれている。圧倒的な観察力と、それを瞬時に笑いに変換する構成力。魁真は直感した。「この人は、自分とは生きる世界が違う、本物の『天才』だ」と。


数分間のネタが終わると、部室はどっと大きな笑いと感嘆の拍手に包まれた。拓人は照れくさそうに頭を掻きながら、何事もなかったかのように自分の席へと戻っていった。



部室の見学が終わり、魁真と友人は学食に向かいながら、さっきの拓人の話題で持ちきりだった。


「おい、見たかよさっきの! やばくなかったか?」


「やばかったな……あんな奴、同じ大学にいるんだな」


魁真が感心しながら学食のトレーを受け取っていると、目の前にふと、あの黒髪の青年が通りかかった。一人で食券を買い、静かに窓際の席を探しているようだった。


「あ、さっきの……」


魁真が無意識に声を漏らすと、拓人は足をとめ、魁真のほうをじっと見た。そして、どこか人懐っこい、しかしどこか鋭い光をたたえた目で微笑んだ。


「あ、君、さっき一番前の席にいたよね。どうだった? 俺のネタ、滑ってた?」


「いや、滑ってるとか全然! めちゃくちゃ面白かったし、すげえなって思って……!」


魁真が反射的に大声で、身振り手振りを交えて感想を伝えると、拓人は少し驚いたような顔をした後、フッと柔らかく笑った。


「そう? よかった。一人でやるの、けっこう緊張したんだけどさ。……よかったら、一緒に座ってもいい?」


「あ、どうぞどうぞ! 全然空いてるよ!」


友人を交えて3人で席に座ると、最初は少し緊張していた空気が、嘘のように消え去った。拓人は一見するとクールで近寄りがたそうに見えたが、いざ話してみると、意外にも聞き上手で、ユーモアのセンスが抜群だった。魁真が学部の講義の愚痴を話すと、拓人は腹を抱えて笑った。


「それ、お前がツッコんでやればよかったじゃん。教授相手に『おい!』って」


「できるわけねえだろ! 単位落とすわ!」


魁真のテンポの良いツッコミに、拓人が絶妙なトーンの相槌を打つ。そのやり取りは、まるで最初からコンビを組んでいたかのように息が合っていた。


会話の端々に、拓人の鋭い観察眼と、魁真の持つ圧倒的な人間味あふれる愛嬌が噛み合っていく。


「魁真さ、声でかいよね。でも、聞いてて気持ちいい声してる」


「そうか? よく周りからうるさいって言われるけどな」


「うるさいくらいがちょうどいいだろ。俺、静かなやつより、そういうエネルギーあるやつのほうが好きだわ」


拓人が何気なく放ったその言葉に、魁真はなぜか胸が熱くなった。圧倒的な才能と独特の雰囲気を持ち、自分とは違う高みにいるように感じていた男が、目の前で温かく自分を見てくれている。そして拓人自身も、魁真の持つ底抜けの明るさや、人に愛される才能を心地よく感じていた。


学食でのランチをきっかけに、2人は急速に距離を縮めていった。講義の合間、図書館の帰り道、そして夜のキャンパスのベンチ。気がつけば、どちらからともなく連絡先を交換し、毎日のように顔を合わせるようになっていた。


ある日の放課後、いつものように大学近くの公園のベンチで、2人は缶コーヒーを片手にダラダラと喋っていた。


「なあ、拓人さ。お笑い研究会、本格的にやるのか?」


魁真が問いかけると、拓人は缶コーヒーのプルタブを弄りながら、遠くの空を見た。


「どうだろな。……でも、やってみたいとは思ってる。ただ、一人じゃ限界があるし、やっぱお笑いは相方がいないと面白くないからさ」


「相方かぁ……。拓人ほどの腕があれば、誰だって組みたいって言うだろ」


「いや、そういう問題じゃないんだよ」


拓人は振り返り、まっすぐ魁真の目を見た。


「笑いってさ、ただ面白いことを言えばいいわけじゃなくて、それをどう受け止めて、どう爆発させるかが大事なんだよね。俺のボケを、一番近くで食らって、一番デカい声で跳ね返してくれなきゃ、意味がないんだよ」


その言葉に、魁真はドキリとした。拓人が思い描くお笑いの景色の中に、もし自分がいたら――そんな、少しだけ恐ろしくて、最高にワクワクするような想像が脳裏をよぎった。


「……俺じゃ、ダメかな」


口から出た言葉は、自分でも驚くほど自然だった。勢いだったかもしれない。しかし、後悔は微塵もなかった。拓人は目を丸くし、それから、今日一番大きな声で笑った。


「ははっ! お前、真面目な顔して何言ってんだよ」


「本気だよ! お前が隣でボケるなら、俺が世界一デカい声でツッコんでやるよ。絶対に退屈させねえからさ」


魁真が胸を張って言い切ると、拓人はしばらく沈黙した。その切れ長の目が、魁真のまっすぐな瞳をじっと見つめる。やがて、拓人はふっと満足そうに笑い、立ち上がった。


「……いいよ。じゃあ、試してみるか。俺たちの漫才を」


夕日が、2人の影を長く引き伸ばしていく。


大学一年生の4月。まだ何者でもなかった二人の若者が、偶然と必然の間に引き寄せられ、やがて伝説へと繋がる第一歩を、静かに、しかし確かに踏み出した瞬間だった。



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