第五話『魔術師エルド』
嫌な予感だった。
根拠はない。
だが、エルドという男を見る度に胸の奥がざわつく。
召喚された日のことを思い出す。
神殿の隅で一人だけ楽しそうに笑っていた男。
王でもない。
騎士でもない。
他の魔術師たちですらどこか距離を置いていた男。
そして何より。
自分にこの黒い傘を渡した男。
ハルトは無意識に傘の柄へ触れた。
いつの間にか手に馴染んでいる。
まだ数日しか持っていないはずなのに、まるで長年使い続けてきた道具のようだった。
「そんな警戒しなくてもいいじゃないか」
エルドは苦笑した。
「私は傷付いてるんだよ?」
「初対面の時から少し怪しかっただろ」
「酷いなぁ」
全く傷付いていない顔だった。
レオンはエルドを見るなり露骨に顔をしかめた。
「お前か」
「やあレオン」
「帰れ」
「久しぶりなのに酷いな」
二人は知り合いらしい。
しかもあまり仲は良くなさそうだった。
レオンは露骨に嫌そうな顔をしている。
対するエルドは楽しそうだった。
嫌われることに慣れている人間の顔だった。
「知り合いなのか?」
ハルトが尋ねる。
レオンは深いため息を吐いた。
「腐れ縁だ」
「腐ってないよ」
「腐ってる」
「酷いなぁ」
エルドは肩を竦める。
しかしその表情に怒りはない。
むしろ面白がっているようだった。
風が吹いた。
城壁の上を抜けた風が三人の髪を揺らす。
遠くでは鐘の音が鳴っていた。
平和な午後だった。
だがエルドだけが、その景色から浮いて見える。
上手く言葉にできない。
ただ、この男だけが世界を違う角度から見ているような気がした。
「どうだい」
エルドが言った。
「異世界は楽しいかい?」
「今のところは」
ハルトは少しだけ悩んだ。
が、それは本心だった。
魔法がある。
見たこともない景色がある。
人々は優しい。
困っている人もいる。
助ける理由もある。
今のところ不満なんて一つもなかった。
「そうか」
エルドは微笑んだ。
「それは良かった」
どこか意味深だった。
まるで子供の成長を見守る親のような顔。
いや。
少し違う。
もっと距離がある。
"観測者"。
そんな言葉が近かった。
ハルトは少しだけ居心地の悪さを覚えた。
「なんだよ」
「別に?」
「何か言いたそうな顔してる」
「気のせいさ」
エルドは笑った。
その笑顔は柔らかい。
だがなぜか本音が見えない。
目の前にいるのに遠い。
そんな感覚があった。
その時だった。
エルドの視線が傘へ向く。
「使ったみたいだね」
ハルトも傘を見る。
「ああ」
「どうだった?」
「身に余るほどの代物だった」
正直な感想だった。
狼の火球を吸収した時は驚いた。
放出した時はもっと驚いた。
あんな力を自分が扱えるとは思わなかった。
「便利だろう?」
「便利なんてもんじゃない」
ハルトは苦笑した。
「ほぼチートだろあれ」
「チートか」
エルドは少し考える。
そして。
「そうだね」
あっさり認めた。
「まあ、そうだな」
レオンが呆れたように言う。
「認めるのか?」
「事実だからね」
エルドは笑った。
そして傘へ向けていた視線を空へ向ける。
雲一つない青空だった。
「でもね」
その声は静かだった。
「どんな力にも限界はある」
ハルトは眉をひそめる。
「限界?」
「そう」
エルドは頷いた。
「世界を変えられる力なんて存在しない」
ハルトは少し考えた。
だが意味が分からない。
傘は強い。
間違いなく。
なら強い力で世界を良くしていけばいい。
単純な話ではないのか。
「例えば」
エルドは続けた。
「君が一つの村を救ったとする」
「おう」
「素晴らしいことだ」
「だろ?」
「じゃあ次の日、その村人同士が争い始めたら?」
ハルトは黙る。
「助けた子供が大人になって人を殺したら?」
風が吹く。
エルドの髪が揺れる。
「飢えた人に食べ物を与えた結果、その食べ物を巡って新しい争いが生まれたら?」
ハルトは答えられなかった。
そんなこと考えたこともなかった。
助ける。
それだけだと思っていた。
「だから面白いんだよ」
エルドは笑った。
「人間は」
その瞬間。
ハルトは初めて思った。
この男は少しおかしい。
善人でも悪人でもない。
だが普通ではない。
何かが決定的に違う。
レオンも同じことを思ったのか、面倒そうにため息を吐いた。
「始まったな」
「何が?」
「エルドの悪癖だ」
「悪い癖?」
「人間を観察すること」
エルドは否定しなかった。
むしろ楽しそうだった。
「観察じゃないさ」
「じゃあ何だ」
「研究だよ」
その言葉を聞いた時。
なぜだろう。
ハルトの背中に小さな寒気が走った。
それが何を意味するのか。
この時のハルトはまだ知らない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
エルドという男は、自分が思っている以上に危険な人間なのかもしれない。
そんな予感だけが、胸の奥に静かに残り続けていた。




