22.夜は無慈悲に平等に 壱
血の臭いがする。
鼻の奥が灼けつくように熱い。自分の息が、いつもより耳障りにその耳に届く。
血の臭いがする。
五感が薄い膜で包まれているように鈍くなっているのに、その中に混ざる鋭利な痛み。
頭が、目の奥が、関節の節々が、神経を直接刺激するように痛みを訴えてくる。
血の臭いがする。
血の気配が強すぎて、逆に位置取りが掴めない。焦る脳裏に、「行かないで」と訴えるアーヤの姿がよみがえる。自分の身可愛さではなく、純粋にラグナを心配して引き留めようとしていた彼女。
――でも、駄目だ。助けられる命を見捨てたら、それは間違いなく自分の弱みになるから。自身を認められなくなれば、結局自分は破滅する。
俺は、ヒ・ト・を・助・け・な・け・れ・ば・い・け・な・い・。ヒ・ト・に・害・な・す・存・在・に・な・っ・て・は・い・け・な・い・。
その強迫的な義務感の歪いびつさに敢えて目を背けて、ラグナはただ足を走らせる。
――血の臭いが、する。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
女性のか細い悲鳴が聞こえた。
そこか、とその声で最後のあたりをつけて、ラグナは高く跳躍した。
街道脇の馬車を休ませる広場で、女性が今まさに暴漢に襲われようとしている光景が目に飛び込んでくる。
その足元には血だまりができており、女性の連れらしき男が力なく倒れていた。
素早く状況を見てとると、木立に身を隠しながらラグナは手の中の小石を素早く投げた。小石はまっすぐに進み、あやまたず女性に襲いかかろうとしていた男のこめかみを強打する。
声もなく、男は地面へと崩れ落ちた。女性が再び、掠れた悲鳴をあげる。
――これで、あと四人。
「誰だ!」
予想外の襲撃に、賊が浮き足立った。石の投げられた方向に向けて慌てて武器を構える男たち。
それを尻目にラグナは身体を屈めて茂みを駆け抜け、木の枝に飛び乗った。突然の敵の出現にまだ反応できずにいる男を、死角となる頭上から強襲する。
両手を組んだ拳を振り下ろすと、落下の勢いと相まって男は容易く昏倒する。
剣を抜くのはやめた。今は、通常よりもチカラの加減が難しい。
これ以上血に塗れて、正気でいられる自信がなかった。
遅ればせながらラグナに気が付いた残りの男が、三人まとめて掛かってくる。
振り下ろされた剣の切っ先をするりと避け、一気に間合いを詰めて男の鳩尾みぞおちに容赦なく拳を叩き込む。
握り締めた手が、肉の中にのめり込む感触がする。その暴力を実感させる生々しい感触が、普段以上に厭わしい。
気絶した男の身体を無造作に放る。その先にいた男が、投げられた仲間の身体と衝突してタタラを踏んだ。その隙を逃さず男の顎を蹴り上げながら、振り向かず反対の左腕を上げた。
ガツンと籠手にナイフが当たる衝撃が走る。背後からの不意打ちに失敗した男が顔を歪める。
攻撃を受け止めた籠手を振り払うと、男はその勢いでくるりと回転する。その瞬間、キラリと目の端で何かが光った。
反射的に半歩飛び退くと同時に、男は逆の手に持ったナイフを突き出した。
……なるほど、両利きか。
男の長い腕が左右からナイフを繰り出す。それなりに腕に覚えがあるのか、仲間が倒れて自分一人が残された状況だというのに男に退く様子はない。
その反応に内心舌打ちをしながら、ラグナは左右に繰り出されるナイフを薄皮一枚のところで躱しつつ相手の隙を窺う。
絶え間なく降り注ぐ左右からの連撃。頭を振ってその切っ先を避けるたびに、軽い眩暈を覚える。……あまり時間をかけたくはない。
そう思った直後、その足元がぐらりとふらついた。襲われる眩暈に、周囲の景色が二重に滲む。
その隙を逃さず、男がトドメとばかりに鋭い突きを出す。
風を切り裂き、迫り来る死の気配。
なんとか身体を捩り、スレスレのところでのけぞるようにそれを躱した。避けきれなかった刃やいばが、ラグナの頬を裂く。それでも、致命傷にはほど遠い。
自分の顔のすぐ脇を掠めていく、ナイフを握った男の腕。
それを不安定ながらも捩った身体で逃さぬよう挟み込む。そして相手の勢いを利用して、その接点を中心に腰を落としてその身体を地面へと投げ出した。
捉えた男の右腕が、ぐきりと嫌な音を立ててあらぬ方向へ曲がる。それでも油断はしない。左に握られたナイフを蹴り上げ、脳天に踵落としを決めてようやく息をついた。
足元に転がるのは負傷し、呻き声をあげる五人の男。
――暴力、血、暴力。もううんざりだ。
そう思うのに、自分の裡うちには否定できない確かな愉悦があって。
それを振り払うように、ラグナは勢いよく頭を振った。
――見られている。
己を見失う日が来るのを今か今かと。
虎視眈々と、執拗に、ただひたすら自我が崩れるその時を待たれている。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
必死に平静を装い、蹲って震えている女性に声を掛けようと振り返った。
「ご婦人、怪我はありませんかね?もし良かったら、近くの町まで送らせて――」
ドクン。
突然、体内に留めていた熱が膨れ上がるのを感じた。
こめかみが脈動する熱に圧迫される。
気がつけば、地面に膝をついていた。
ぐるぐると景色が回り始める。苦しい。
「ラグナ……!?」
この場に居ないはずのアーヤの声が、聞こえた気がした。




