13.外(と)つ者は災いの兆し 肆
素早く身支度を整えると、扉の影に隠れて、外へと飛び出すタイミングを図る。
そんなラグナの顔をすぐ至近距離で見上げながら、キースは憤懣やるせない想いを抱えていた。
というのも、彼の状態がラグナに抱え上げられた……いわゆる「お姫様抱っこ」の状態だったからである。
(これじゃまるで、女みたいじゃないか……!)
そんな呑気なことを言っている場合ではない、と分かってはいるものの、男のプライドと言うやつはなかなか厄介で気持ちがなかなか落ち着かない。
(くそっ、なんで抱っこなんだよ……背中に担いでくれればそれで良いのに……)
両手が使えなくなるにも関わらずラグナがこの姿勢を取ったのは、万が一の背後からの魔物の強襲にキースが晒されないようにという気遣いだったのだが……彼はそこまで頭が回らない。
ただ、友人たちにこの姿は見られたくないな、とくだらないことだけを考えていた。
「じゃあ出ますよ、と。舌噛まないように気ぃ付けてくださいよ?」
低い声で耳元で告げられたかと思うと……キースは自分の身体がぐんと引っ張られるのを感じた。
頭ががくんと大きく揺れる。思わずラグナの身体にしがみついた。
ラグナの肩越しに眩しい光に晒され、自分が外へと飛び出したことを察する。
周囲の様子が気になって、薄目を開ける。その途端、こちらを狙って滑空してくる何体かの魔物がその目に飛び込んできた。
喉の奥で、悲鳴が上がる。
と同時に、ラグナが大地を強く蹴った。周囲の景色の流れるスピードがさらに一層速くなる。
襲い掛かろうとクチバシを開けた魔物との距離がぐんぐん離れていく。
(魔物より速い……?どんなスピードで走ってんだよ…!)
信じがたい光景を目の当たりにして、キースは頭の中で絶叫する。
と、その速度を緩めないままラグナが身体を低くかがめた。
ざっ、と音がして周囲一帯の空気が翳る。道の脇の雑木林に飛び込んだのだ、と遅れて気が付いた。
頭上の遮蔽が増え、姿が隠れたからだろう。彼らを追う魔物の数はあからさまに少なくなる。
それでもラグナは走る速度を落とすことなく、トップスピードで疾走し続ける。その疾さに、目を開けるのが困難なほどの強い風が吹き抜けていく。
風に煽られて巻き上げられた砂利や小枝が、肌が露出している部分にぱちぱちと当たって痛い。
顔のすぐ脇をごぅ、と唸り声をあげて木々が通り過ぎていく。あまりの速さに、キースは抱えられたまま身を固くすることしかできない。
足場の悪い林の中だというのに、ラグナにとっては何の妨げにもならないようだ。
軽々と木の幹を駆け上がり、手も使わずに枝へと飛び移り……、獣じみた身軽さで魔物たちを撒いていく。
バチン、という音がして、顔の横の枝が鞭のようにしなり、頬をかすめた。
「ぃっつ!」
思わず声が漏れる。じんとした熱さと共に、痛みが走った。
「どうしたっ⁉︎」
その声に、つんのめるようにラグナが止まった。
「あ、ちょっと切っちゃっただけ……」
この非常時にこんなすり傷で悲鳴を上げた自分を情けなく思いながら、切れた頬を指さす。
たかがこれだけの小さな傷なのに、それを見たラグナの顔が絶望的な表情になった。
「血が出てるじゃないか……!」
「ただのかすり傷だよ?」
キースは無造作に頬を拭う。それを見たラグナの方が、何故か痛そうに顔を歪めた。
あんな規格外の能力を持つラグナが、この程度の傷で慄いていることが不思議で仕方ない。
「そんなことより……この後はどうすんの?」
気を取り直して、キースは尋ねた。
ちょうどこの辺りで雑木林は途切れる。もうこの後は、身を隠す茂みはなく開けた畑が拡がっているだけだ。
此処で立ち止まっている場合ではない。
それなのに、ラグナは不敵に笑む。
その姿は、キースのかすり傷を見て取り乱したつい先程とはまるで別人だ。
そして彼は、なんてことないように軽く告げる。
「まぁヤツらには別の場所に行ってもらいましょうかねぇ。」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
――突如、大地に轟音が鳴り響いた。それと共に、地面を揺るがせる大きな衝撃が走る。
その威力を示すように、もうもうと砂埃が高く上がる。
斥候の鳴き声に呼び寄せられていた魔物たちが、一瞬鎮まった。
何が起きたのかと、音の発生源へ向けて注意が逸れる。
その砂埃の中から、ひらりと上着の裾が一瞬ひるがえった。
――人間だ、あの中に人間が居る。
魔物たちの興奮が一気に高まった。
一斉に大挙して、我先にとわき目もふらずその砂埃の中へと飛び込む。
人間への殺意のみを宿した瞳が、視界の悪い灰色の世界で獲物を求めてぎらつく。
……その瞳に、反対方向で静かに走り始めた人影が映されることはなかった。
「にーちゃん、すごい!術師だったの?爆発する術なんて、初めて見た!」
魔物を気にして小声ながらも、キースは腕の中で興奮を露わに口にする。
その無邪気な反応が誰かさんを思い起こさせて、ラグナの口元に苦笑が浮かんだ。
「まぁ本来なら爆発より斬撃の方が強いですからねぇ。」
――実のところ、普段からラグナは血を見たくないがために爆風程度にしか術を使っていないのだが、そんなことは口にしない。適当に返して、濁しておく。
それから、村の壁の前まではあっという間だった。聳え立つ壁を見上げて、ラグナが満足気に頷く。
「よし、これで到着だ。」
「でも門閉まってるけど、どうやって――」
キースが言い終わるよりも先に、ラグナがぽん、と手近な木の枝に飛び乗った。キースを抱えたまま、たんっ、たんっ、と軽い足取りで上の枝へと飛び移っていくその姿は、猿でさえ呆れるくらいの身のこなしだ。
「しっかり捕まって。」
かなりの高さまで上ると、ラグナは端的にそう告げて片手で頭上の枝を掴む。
そして振り子のような要領でキースを抱えたまま身体を前後に振り……キースがはっとした瞬間には世界はくるりと回り、そして自分が壁を越えて村の中に着地したことに気が付く。
もはやラグナの驚異的な身体能力に驚くことにも慣れて、キースは無言でラグナから離れて立ち上がった。
すぐ目の前に高く聳える壁を改めて眺めるが、自らの身に起きたことだというのに、これを飛び越えてきたのだと俄には信じがたい。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「キース……キース……」
しばらく呆然としていた彼の耳に、さざめくような泣き声が聞こえた。自分の名前を呼ぶ、心地良いその声。
「っ!お母さん⁉︎」
耳慣れたその声の主に気づいた途端、弾かれたようにキースは走り出した。
「キース……⁉︎」
「おかあさーん!」
信じられない、という表情をしている母親の胸の中に、キースは勢いよく飛び込んでいく。
感動の再会。しばらくの間、キースは母親と抱き合い、お互いの無事を喜び涙していた。
母の温もり、柔らかな匂いに知らず知らず安堵の涙がこみ上げてくる。
そうして母親との二人きりの空間にどっぷり浸かって、自らの無事をしみじみと噛み締める。
「本当に、本当に良かった……無事で………」
何度目かの母親のその台詞。
そこでやっと、キースはやっと自分を助けてくれたラグナのことを思い出した。
「お母さん、旅戦士のラグナさんが僕を助けてくれたんだよ!僕を担いで、魔物たちから守りながらここまで連れてきてくれたんだ!」
「ありがとうございます、ありがとうございます……!このご恩は必ず……!」
「いやぁ……まぁ……」
居心地悪そうに返事をするラグナは、魔物たちと対峙していた時よりも困惑しているように見える。
感謝されることに慣れていない……というよりも、家族愛を見せつけられてどんな顔をすれば良いかわからない、といった感じだろうか。
母親の慈愛あふれる姿を眩しそうに、やりきれなさそうに複雑な表情で眺めて、立ち尽くしている。自分の手の届かないものを眺めているような、何処か切なげな顔で。
「ラグナ!」
そこに割り込んできた女性の声に、ラグナはあからさまにほっとした様子で振り向いた。
「アーヤ様!駄目じゃないですか、建物の外に出てきちゃ……ほら、危ないから、教会の中へ……!」
「ごめんなさい、でもラグナが心配で……」
本人は気付いていないのかもしれないが、ラグナの表情が先ほどに比べ格段に柔らかくなった。
「気持ちは嬉しいですけど、外は危ないですから……」
重ねて促されて大人しく教会へと戻りかけたアーヤはそこで、あ、そうだ、と足を止めて振り向いた。
「無事で良かったです、おかえりなさい!」
明るくそう告げて駆け出していく彼女の姿に、ラグナは眩しそうに目を細める。
なんだよ、とキースは少し憮然とした。
あんなに寂しそうな顔をしといて、俺は一人だって顔をしといて、ちゃんと想ってくれる人が居るんじゃないか。淋しがる必要なんて、ないじゃないか。
今の彼女?と大人の真似をして軽口を叩こうとしたキースは、そこで彼が村の中だというのに未だに警戒を解いていないことに気が付いた。
――結界の中まで無事辿り着けたのにどうしてそんな張り詰めているのか。
そう、疑問に思ったところで。
「キースも。早く建物の中に入って。危ないから。」
「?なんだよ?もう結界の中なんだから大丈夫だろ?」
訝しげにラグナを見上げると、彼は嘆息する。
「皆、結界に対して夢を見過ぎだ。……確かに結界は魔物を遠ざける効果があるけど、これだけ数が居ると――……」
そう言いながら空を見上げたラグナは視線を空へと移す。
空を黒く覆う無数の魔物たちが、村を狙って頭上を旋回しているのが、目に入った。もはや数えることのできない程の数の魔物が、村をぐるりと取り囲んでいる。
ぐるぐると結界の範囲外をひたすら彷徨く魔物たち。結界の中に逃げ込んだ人間を狙って、執拗に村の上空を徘徊し続ける。
見えない壁があるかのように、魔物は一定距離以上こちらに近寄れずにただ恨めしげな飛行を続けている。
と、その中の何匹かが徒党を組むように連なりあって、急上昇と急下降を繰り返し始めた。まるで軍隊のように統率された動きで、ひたすら空での上下動を繰り返しながら結界へと挑む。
その勢いはだんだん激しくなり……
ぐにゃりと空間が歪む気配。
そして突然、結界の向こうから三体の魔物が爪を剥き出しにして直滑降してきた様がキースの目に飛び込んできた。
思わず頭を庇ってしゃがみ込む。と同時に、横のラグナが飛び出していく風を感じた。
だん、という何かが落ちる音。
しばらくそのままの姿勢で居てから、キースは恐る恐る目を上げた。
途端にその視界に飛び込んでくる、地面に転がる魔物の身体。
一瞬びくりとしたが、すぐにそれがただの死骸であることに気づく。
ラグナが剣の汚れを無造作に拭って、顎でその死骸を示した。
「こーいうワケ。結界は、たまに破られる。……さあ、」
ラグナの目がすっと細くなった。
「ここからが正念場だ。」