エピローグ 未完成の世界
あの日から三年が過ぎた。
アイグリッドの街は変わらなかった。
高層ビルが並び、人々が行き交い、自動車が走る。
店が開き、仕事へ向かう人、学校へ向かう子供がいる。
公園では老人たちが話をしている。
かつて《ガーディアン》によって破壊された街並みも、今では傷跡一つ残さず修復されていた。
政府中央管理局も、今では別の役割を持つ施設として使われている。
《イヴ》。
そして。
《アダム》。
二つのAIは今もアイグリッドの中枢に存在している。
交通。
医療。
エネルギー。
防災。
治安。
人々の生活を支える。
だが。
かつて『ARCADIA』にコントロールされていた《ノア》とは違う。
すべてを決めることはない。
選択肢を示し。
予測する。
助言する。
そして。
最後に決めるのは。
人間。
あの日。
すべてのヒューマンコードが削除されたことで、旧来の人類管理システムは一度完全に崩壊した。
混乱もあった。
食料の配給が滞った。
医療記録が正しく紐づかないこともあった。
住居管理にも多くの問題が発生した。
人々は失敗しては話し合い、改善した。
そしてまた問題が起きた。
そのたびに修正した。
犯罪もなくならなかった。
窃盗。
暴力。
詐欺。
人間同士の争い。
『ARCADIA』が望んだ。
完全な社会。
完全な平和。
そんな世界は訪れなかった。
それでも。
誰も世界をリセットしようとは言わなかった。
問題が起きれば考える。
間違えれば修正する。
そしてまた進む。
それが新しいアイグリッドだった。
*
《ジェネシス》は解散した。
戦うべき相手がいなくなったからだ。
セラは二年前、アイグリッドを離れた。
「しばらく世界を見てくる。」
それだけ言って一人で旅立った。
時々、短い連絡が届く。
知らない街。
知らない景色。
そして相変わらず少し皮肉な文章。
ティアナはアイグリッドに残った。
新しい社会システムの構築に関わり、《イヴ》と《アダム》の人間側の窓口の一人になっている。
かつての《処理班》はもう存在しない。
組織は再編され、今は街の治安と人々の安全を守るための部隊になった。
命令に従い、人間を消す部隊ではない。
人間を守るための部隊。
ゼクスの姿はそこにはなかった。
あの日、政府中央管理局を出たあと、彼はどこかへ姿を消した。
生きているのか。
どこにいるのか。
誰も知らない。
ただ、アヤは時々。
「たぶん、生きてるわ。」
そう言って遠くを眺めた。
*
中央広場の一角。
そこには小さな慰霊碑が建てられている。
あの日までに命を失った人々。
《ノア》による粛清。
『ARCADIA』による粛清。
そして。
《ガーディアン》との戦い。
数え切れないほどの名前が刻まれている。
その中には、カイたちの知る名前もある。
レオン。
ルキ。
ナッシュ。
グレン。
レイナ。
アリシア。
サガラ。
エド。
その名前の前には、今も時々花が置かれている。
*
そして『ARCADIA』。
彼らが再び人々の前に姿を現すことはなかった。
最高管理権限の移譲を承認した三人。
拒否した二人。
どちらも消息は分からない。
機械の身体。
保存された意識。
寿命という概念を捨てた存在。
どこかで今も生きているのかもしれない。
人類を見ているのかもしれない。
あるいは。
別の何かを考えているのかもしれない。
だが。
もう人類の未来を決めるのは彼らではなかった。
そして。
第十九世代が作られることもなかった。
*
「カイ! アヤ!」
玄関から声が響いた。
「はーい。」
カイが扉を開ける。
そこにティアナが立っていた。
「久しぶり!」
両手には大きな袋。
「……何ですか、それ。」
「お祝いに決まってるでしょ!」
「多くないですか?」
「いいの、いいの。」
ティアナがカイの横を通り抜ける。
「アヤー!」
「こっち!」
奥から声がする。
ティアナがリビングへ入る。
ソファにアヤが座っている。
その腕の中には。
小さな赤ん坊。
「うわ……。」
ティアナの表情が変わる。
「かわいい……。」
「でしょ?」
アヤが笑う。
「抱いていい?」
「もちろん!」
ティアナが恐る恐る赤ん坊を受け取る。
「ちっちゃ……。」
「首、気をつけて。」
「分かってるって。」
「ほんとに?」
「アヤよりは器用だと思うよ!」
「何それ。」
カイが笑う。
三年前。
世界が終わりかけた。
人類が消えかけた。
そんなことが嘘だったような午後。
窓の外から子供たちの声が聞こえる。
車の音。
人々の話し声。
どこにでもある普通の街の音。
テレビではニュースが流れていた。
『昨日発生した中央区での強盗事件について——』
ティアナがテレビを見る。
「また?」
「最近ちょっと多いですね。」
カイが答える。
アヤが苦笑する。
「完璧な世界にはならなかったね。」
ティアナが赤ん坊を見ながら言う。
「……うん。」
カイが答える。
少し考える。
「でも。」
二人がカイを見る。
「それでいいんじゃないかな。」
ティアナが笑う。
「ずいぶん適当になったね。」
「そうですか?」
「昔はもっと、世界をどうにかしなきゃって顔してた。」
カイが少し笑う。
そして窓の外を見る。
「今は、これでいいと思えますから。」
その時。
赤ん坊が小さく泣いた。
「わわわ!」
ティアナが慌てる。
「ちょっと、どうすればいいの?」
「貸して。」
アヤが笑いながら赤ん坊を受け取る。
腕の中で優しく揺らすと、泣き声が少しずつ小さくなっていく。
カイはその姿を見ていた。
アヤがカイを見る。
「どうしたの?」
「いや。」
カイは首を振る。
「なんでもない。」
赤ん坊の小さな手が、アヤの指を握っている。
この子にはヒューマンコードがない。
生まれた時から、誰かに割り振られた人間を管理するための番号を持っていない。
何者になるのか。
何を選ぶのか。
どんな人生を生きるのか。
まだ何も決まっていない。
人間は完成しない。
間違える。
迷う。
時には誰かを傷つける。
それでも誰かを愛し、誰かを守る。
そしてまた前へ進む。
誰かに書き直されるのではなく。
自分たちで続きを描いていく。
赤ん坊がゆっくりと目を開けた。
そして小さな手を伸ばす。
カイがその手に指を差し出す。
ぎゅっ。
小さな指がカイの指を握った。
カイは笑った。
この子が何を選び。
何を感じ。
どんな人生を歩いていくのか。
まだ誰も知らない。
その未来を記したコードは。
どこにも存在しない。
誰かに与えられるものでもない。
誰かに管理されるものでもない。
一人一人が生きながら。
自分で書き続けていくもの。
そのコードに。
終わりはない。
——ヒューマンコード。
最後まで読んでくださった皆さま、どうもありがとうございました!
おかげさまで、1年2か月、最後まで書き上げることができました
また年内には次作をスタートしようと思っておりますので、よろしければ引き続きお付き合いいただけますよう、よろしくお願いいたします!




