襲撃
その日、桃太郎は夜遅くまで布団の中で目を開いていた。彼の頭には厠のあたりで感じた違和感がこびりつき、決して消えることはなかった。近頃耳にする鬼の手下達の魔の手がすぐそこまで迫ってきている。そう考え始めると神経が昂り、眠りに就くことなどできなかった。彼に目一杯の愛情を惜しみなく注ぎ、大切に育ててくれた父と母。その二人を脅かす存在の可能性を考えるだけで、彼の中の焦燥が掻き立てられた。
桃太郎はお爺さんとお婆さんが彼の本当の両親ではないことは聞かされていた。しかし彼が聞かされていたのは突如として彼が土間に姿を現したという事実ではなく、遠方に住む彼の両親が流行り病に倒れ、その噂を聞きつけた親戚のお爺さんとお婆さんが彼の育ての親を買って出たというものであった。桃太郎は数えの歳で九つの時にそれを聞かされ、幾分衝撃を受けた。それまで生みの親として自分に愛情を注いでくれていたお爺さんとお婆さんの優しさが、どこか本質からずれたもののように感じられた。しかし、桃太郎に対する彼らの献身的な態度をその目で見続けるうちに、桃太郎は彼らのことを実の親として認めるようになったのだ。
桃太郎にも自身の心境にどのような変化が起こったのかはうまく理解できてはいなかった。だが、少なくとも自分に対する彼らの愛情が何某かの見返りを求めるようなものではなく、単純に与えることだけに重きを置いていることを時間と共に察していき、本当の親でなくとも本物の愛を彼らに与えられていることを、彼は心で理解したのであった。
そんな大切な父と母に何かあってはいけない。そう考えると居ても立っても居られなくなり、彼は布団を抜け出し戸を開けて表に出た。
表に出ると月明かりに照らされた草木が風に揺られて漣のような音を立てていた。耳を澄ませばどこからともなく虫たちの声が聞こえてくる。桃太郎は先ほど違和感を覚えた厠のそばへと近づきその裏に目をやったが、やはり特に変わった様子は見受けられなかった。しかし、実の子ではない自分に献身的な愛を注ぎ続けた二人の『親』と、彼らに降りかかるかもしれない危険のことを考えると、彼は普段にも増して神経を鋭敏に尖らさざるを得なかった。
ふと厠の奥の林に目を向けると、立ち並んだ木々の間に小さく積み重ねられた何かを見つけた。桃太郎は月の明かりが木々の葉の隙間から漏れ出る林の中へと入っていき、それに近づいた。彼はそれが焚火の跡であることがわかると、素早くあたりを見渡した。周りには人の雰囲気はなく、聞こえてくるのは囁くように歌う虫たちの声と、騒めく風の音だけだった。
燃え尽きた木の枝の様子から判断するに、その焚火は昨晩行われたもののようであった。というのも一昨日は晩に大雨が降り、もしこの焚火跡がそれを受けていたのであれば、燃え尽きた木の枝はその形をここまではっきりと保っていることはないからだ。桃太郎は自分達の身に危険が迫っていることをこの時確信した。早く父と母を起こして、二人を安全な場所に避難させなければ。彼は暗い林の中で身を翻し、家に向かって走り始めた。
「父さん、母さん!」
勢いよく戸を開けると、戸から差し込む月明かりの中、お婆さんがお爺さんの横に膝をついているのが目に入った。
「桃太郎や、どこに行っていたんだい。それよりも、爺さんが……。」
狼狽えるお婆さんの膝元には、酷く咳き込み着ている服の胸のあたりを握ってもがくお爺さんの姿があった。お爺さんの枕にはお爺さんが吐き出したと思われる血の飛沫がにじんでいた。
「父さん、どうしたんだ……!」
「――桃太郎や、そんな顔をするんじゃあない。ここ最近どうも体調が優れんでお前さんに仕事を任せておったがのう、もうお前さんと一緒に仕事に行くこともなくなってしまいそうじゃ。」
仰向けになったお爺さんの胸は大きく上下していた。
――その時、遠くから鐘を打つ鋭い音が聞こえてきた。桃太郎はその音が物見櫓の番人が危険を知らせる警鐘だと瞬時に理解し、布団の上で不安げに桃太郎を見つめるお爺さんを残し、家の外へと飛び出した。
あたりを見渡すと北の方角に広がる林の上の空がぼんやりとした赤い光を放っていた。
「――桃太郎っ!」
声の方角には、髪を乱した楊の姿があった。彼女も警鐘の音を聞き家から飛び出して来たと見え、その顔は恐怖で引きつっていた。彼女は助けを求めるように、林から上がる火を見て立ち尽くす桃太郎の元に駆け寄った。
「楊、お前はお袋さんと家の中に隠れていろ。あれはただの火事じゃあない。恐らく鬼の手下による襲撃だ。」
「襲撃?どうしてそんなことがわかるの?鬼の手下の襲撃なんて私たちが生まれてから…」
「うるさい!俺の言う通り家の中に隠れていろ!」
桃太郎は声を荒立て彼女にそう告げると、家の戸の横に立てかけた竹刀を握り、北の林の方角へと走っていった。