跡
桃太郎が家に着いたのは夜が明ける頃だった。幸いな事に、丑三つ時に降り始めた雨はその勢いを増し、林の木々から巻き上がる炎を徐々に鎮めていった。この集落には火消しが設けられておらず、かつて大火が起こった際には集落の八分程の家屋が焼け落ちたという。高齢の住民達の間で未だに話題に上がることがあることからも、その大火の凄惨さが窺い知れる。
家の戸を開けると、お婆さんが桃太郎の元へと覚束ない足取りで駆け寄ってきた。お婆さんは警鐘の音を聞いてから一睡もしていなかったらしく、憔悴しきった様子だった。
「桃太郎や、無事帰って来てくれてありがとう……。爺さんも漸く息が落ち着いたところじゃ。」
桃太郎の右手を両手で握るお婆さんの間には涙が溜まっていた。
「そうか、それなら良かった。」
桃太郎は竹刀の柄から離した左手を、お婆さんの肩にそっと乗せた。
「――昨晩の警鐘は林から上がった火を知らせるものだったんだがな、どうやら集落の悪餓鬼が夜中に家を抜け出して悪戯で火をつけてしまったのが原因らしい。」
桃太郎の目線は梁の辺りに向けられていた。
「それはなんと……。とんでもない悪餓鬼がいたもんじゃのう。集落で火が上がるのなんぞ、何年ぶりのことかのう。雨が降り始めたのが幸いじゃったが、もしそうでなかったらまたあの時のようになっていたかもしれんのう。」
お婆さんは不自然に目線を逸らす桃太郎に違和感を覚えつつも、安堵の表情を浮かべていた。
「それはそうと桃太郎や、その袖はどうしたんじゃ? それによくよく見れば服が泥だらけじゃあないか。」
安堵を覚えたのも束の間、お婆さんは両手の中の桃太郎の左手を強く握りしめていた。
「ああ、これか。これはな、火に群がる野次馬に揉まれて体勢を崩して転んでしまってな。その時に何かに引っかかって破れてしまったんだ。」
これ以上お婆さんに要らぬ心配を掛けさせたくない。その想いが桃太郎に次々と嘘を吐かせた。優しさから口にした嘘が、桃太郎の中に罪悪感を沸き立たせた。
桃太郎はお婆さんの両手を解き、腰に差した竹刀を戸の横に立て掛けると、居間の淵に腰を下ろし布団の中で静かに寝息を立てるお爺さんに目をやった。
「お前さんが帰ってくる少し前まで苦しそうに咳き込んでいたんじゃがな、漸くそれも落ち着いたんじゃよ。」
布団の中で眠るお爺さんは、ほんの一月前と比べても随分と痩せ細っていた。
居間に上がり汚れた服を着替えると、桃太郎は布団に潜り込んだ。恐らく次の襲撃が行われるのも夜間のことだろうと予想し、その時に備え身を休めることにした。しかしながら、布団の中で目を閉じたものの昨晩の出来事による興奮と、忽然と姿を消した男のことが頭を過ぎり眠りにつくことができなかった。
桃太郎は男が倒れていたはずの場所の周囲の地面に、自身とその男の足跡と、鉈に抉られた跡しかなかったことを思い出した。あの男の状態では一人で歩いてあの場所を去ることなどできない。仮に彼が這ってあの場所を去ったとするならば、体を引きずった跡が地面に残っているはずだ。そして、彼の仲間が彼を連れ帰ったとしても、その場にはその仲間の足跡が残るはずである。
彼はどのようにしてあの場所から姿を消したのか。いくら頭をひねっても、桃太郎の頭にはそれらしき答えが思い浮かばなかった。




