20・ごめんあそばせ、聖騎士さま。
コライユは昼過ぎに目覚めた。
全身が重く、手足が石のように固まっている。微熱に包まれているけれど、喉は鳴っていない。
まだ月が満ちているからだろうか。新しい加護が与えられている気がした。
扉を叩く音がする。
「おはようございます」
返事も待たずに入ってきた銀髪の執事は、コライユを座らせて、背中に枕を差し込んだ。
「昨夜はご立派でした。今朝は特別に新聞から……ご自分ではお持ちになれませんね。私がお読みしましょうか」
「膝に置いてちょうだい。めくって欲しいときだけお願いするわ」
「かしこまりました。本日は号外が出ております」
通常の新聞の上に載せられた号外では、昨夜現れた海神のしもべについて特集されていた。
「仕事が早いわね」
「あの辺りの住人が情報を売ったのでしょう」
裏通りの建物は壁が薄い。すべて聞かれているとまでは思わないが、固有名詞は使わないよう気をつけていた。
「我らが聖騎士さまは復活した怪物を打ち倒し、剣に残る聖女さまの力によって新たな封印を施した。……あら」
ディアモンは一度死んで、蘇ったことになっている。
(ネズミの血だと気づかれていないんだわ)
記事の雰囲気からして、さほど深刻な事態にはなっていないようだ。
真実だと思っているものも少ないのだろう。
ぴぴ?
小鳥の声に籠を見る。横を向くだけで首が痛かった。
「おはよう、ブー。朝ご飯は食べた?」
「ええ、お嬢さまがお眠りの間にたっぷりと」
ぷぴー!
不満げな声を上げる小鳥に微笑む。
「元気が一番よ、ブー。ねえ、わたしはきちんとあなたの依頼を果たせたかしら?」
小さな頭が、力強く振り下ろされた。
「それは良かったわ。フェール、新聞を片づけてくれる? お腹が空いたわ。さっきから、とってもいい匂いなんですもの」
「お嬢さまのお好きな、すりおろしたエビのスープでございます。匙はお持ちになれますか?」
「無理みたい」
「さようでございますか。それでは少々お待ちください」
新聞を小机に片づけると、彼は部屋を出て行った。
(お母さまを呼びに行ったのかしら?)
匙が持てないほど体調が悪いときは、いつもならフェールが食べさせてくれる。
けれど今は母が家にいた。顔を合わせることの少ない親子だ。こんなときくらい甘えてもいいかもしれない。
──やがてフェールが戻ってきたが、同行者は母ではなかった。
「……ディアモンさま?」
「コライユ殿、お体は大丈夫か?」
「失礼ながら婚約者さま、大丈夫ではないから寝台にいらっしゃるのでございます」
言いながら、銀髪の執事は寝台の横に椅子を寄せる。
黒髪の聖騎士がそこに座り、スープの皿と匙を手に取った。
「そうだったな。すまない、執事殿。それではコライユ殿、あーん」
「え? あの、どうしてディアモンさまがここに?」
「君を踊りに誘いに来た」
「あ、ありがとうございます。ご一緒できなくてすみません」
「構わない。踊らなくても一緒にはいられるからな。さあ、口を開けてくれ。俺は気の利かない男だが、幼い弟の面倒は見ていた。食事の世話ならできるぞ」
「は、はあ、あの、ご家族は?」
「両親は君のご両親と踊りに行った」
「え? 奥方さまはあのお腹なのにですか?」
「妊娠中も多少は運動したほうがいいし、父上が抱き上げるから問題ない」
藍色の瞳でコライユを映して、ディアモンは優しく笑う。
「十年前の俺たちもそうだったな」
「……はい。あのときはご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした」
「迷惑? なにがだ? 俺はあの日、君に会えて良かった」
「そう……ですか?」
「ああ。君のおかげで、貝が金になると知ることができた」
「え?」
「覚えていないのか? 踊りの後で話をしたじゃないか。俺が貝を好きだと言うと君は、自分は金が好きだと言って、貝も金になると教えてくれたんだ」
「……ぷっ」
ディアモンの後ろで吹き出したフェールは、コライユの視線を受けて素知らぬ顔をした。
黒髪の聖騎士は話を続ける。
「嬉しかったよ。大好きだけど、なんの意味もないと思っていた貝拾いという趣味が金になるなんて。父上や母上が困ったときに売れば、助けることができるものな」
「それは、えーっと……」
なんとも返答しようがない。コライユは言葉に詰まった。
「でも本当は、最初から君に恋していたんだ。聖騎士になるのが嫌で嫌で仕方がなかったくせに、君に聖騎士みたいと言われただけで舞い上がって、父上のように武術大会で全勝すると宣言したんだからな」
「そういえばお嬢さま」
フェールが話に割り込んできた。
「な、なぁに?」
照れくさくて嬉しくて心臓が破裂しそうだったので、コライユはちょうどいい話題転換に飛びついた。
「ダイダイの砂糖煮の予約が百件を越えました」
「……予約? 在庫はたっぷりあったでしょう?」
「在庫はすべて売り切れましたので、今は予約を受け付けております。昨日配った見本のことが、都で噂になっているようです。開店したとたん客が押し寄せてまいりました」
「まあ……。ええ、安心して。新しいダイダイを仕入れる当てはあるわ」
口髭男の被害者を当たればいい。
彼はダイダイとアマダイダイを間違えて入荷した業者から買い叩き、わざと客を誤解させて売りさばいていた。もちろん訴訟の準備も進めている。
「砂糖煮を求める客が押し寄せておりますので、本日はダイダイ水売りの子どもたちに予約の受け付けや在庫の売り上げの管理を任せておりますが、よろしかったでしょうか」
「もちろんよ」
プルプル商会の雇用人には本来の仕事がある。
コライユが始めた仕事は、コライユが雇っている人間に任せるべきだ。
普段子どもたちが売りに行くダイダイ水だって、父から店舗の一部を借りて、コライユが雇った人間に用意させていた。
「でも大丈夫? お金の計算は心配ないと思うけど、読み書きができる子はまだ少なかったでしょう?」
貧しい生まれをスリの元締めにつけ込まれた子どもたちは、十分な教育を受けていない。
ダイダイ水の受け取りや補給の際に署名の仕方を教えて、やっと自分の名前が書けるようになった子どもがほとんどだ。
首をかしげたコライユに、意外な答えが返ってきた。
「予約の受け付けのほうはロッシュが手伝っている」
「ロッシュさまが?」
「前に砂浜で会ったダイダイ水売りの子どもがいるだろう? あの子が売り上げの計算をしているのを見て、なんだか競争心に火が点いたらしい。同じ年ごろだからかな。それよりコライユ殿、スープが冷めるぞ」
「うっ……」
コライユは救いを求めてフェールを見た。
ディアモンが嫌なわけではない。むしろ彼に食べさせてもらえるのは嬉しい。
嬉しいけれど、だからこそ照れくさいのだ。
「婚約者さま」
「なんだ、執事殿」
「砂糖煮の売り上げは、本日中にもお渡しできます。プルプル商会への借金も返済していただけると思いますが、お嬢さまとの婚約はどうなさるのですか?」
執事の質問に、ディアモンは馬車で貝殻が割れたときと同じくらい衝撃を受けた顔になる。
「……借金がないと、コライユ殿と婚約していてはいけないのか?」
そういうわけではない。
だけどコライユは照れくさくて口を開けなかった。
フェールが訂正しないのは、面白がっているからだろう。
「わかった。それならまた借金をしよう。しかしなにを買えばいいかな?」
しばらく考えて、彼は藍色の瞳を輝かせた。
「小舟を買おう」
「船ですか?」
「コライユ殿は船に乗りたがっているのに、体が弱くて禁じられていると執事殿に聞いた。うちの池で小舟に乗るくらいなら、みなさんも許してくださるだろう」
コライユはフェールに目を向けた。銀髪の執事が頷く。
「ただし、そのときは私もご一緒いたします。私の目が細いうちは、結婚前のお嬢さまを男性とふたりっきりにするわけにはまいりませんので」
(目が細いうちって、どういう意味?)
コライユは疑問を飲み込んだ。
遠い異国に行けるわけではないものの、舟の上で波や風を感じられると思うだけで嬉しい。
「話していたら喉が渇いたのではないか? さあ、コライユ殿」
もうフェールは割り込んでこない。
そもそもディアモンを連れてきたのは彼だ。
これまでだってスープがほど良く冷めるのを待っていただけで、コライユを助けるために脱線していたわけではなかったのだろう。
諦めて唇を開く。ディアモンが食べさせてくれたスープは、いつもよりも美味しく感じられた。
「そうだ、コライユ殿」
「なんでしょう?」
「アンブルが君に灰色の琥珀を売りたいと言っている。体調が悪いところ申し訳ないが、できるだけ早く時間を作ってやってもらえないか? ご母堂がご病気らしい」
「まあ……」
アンブルの母親が眠ったままなら、急いで金を作る必要はないはずだ。
彼女は目覚めたに違いない。眠り続けて弱った体を癒すのは急いだほうがいい。
「クルールの恩人ですもの。今日中に代理のものを差し向けます」
ディアモンが小机の上にある新聞に気づいた。
「読んだのか」
「はい。ディアモンさまがご無事で良かったです」
「俺は眠っていただけなんだが……気づかぬうちに死んでいたのかな?」
「死んでいるかどうかは、ご自分では気づかぬものかもしれませんね」
黒髪の婚約者が銀髪の執事の言葉に首肯するのを見ながら、コライユは吹き出すのを堪えた。
(本当に変な方。だけど強くて優しくて、ちょっぴりヤキモチ妬きなところもあって……大好き)
ちらりと泥色の小鳥に視線を送る。
小さな瞳と目が合った。
わかっている。すべては始まったばかりだ。
全部の封印を解いてかけ直すためには、聖騎士たちを絶望させる必要がある。
それまでディアモンに真実を告げることはできない。
「コライユ殿、あーん」
差し出された匙に口を開ける。
いつかこの愛しい人も絶望させて、ぶちのめさなくてはいけない。
(必要なことだから許してくださいませね)
コライユは、心の中で囁いた。
──ごめんあそばせ、聖騎士さま。




