エピローグ
都内某所。
某所というのは他でもない。所謂個人情報の保護に基づく観点から、特定できる情報は極力控えさせていただくが、都内といっても都心ではない。23区を少し外したあたりとだけ記しておくのは、前出の通り荒川が「意外と御曹司」であるためだ。
もふもふファームを後にして約3時間40分。荒川とひよこは、その御曹司にあてがわれた住まいにほど近い私鉄駅前に立っていた。
「タクシー、並んでるな」
まだ、路線バスの運行も途切れないというのに、タクシー乗り場もそれなりの行列ができている。
それはこの町の住人が、生活に多少の余裕を持っているという証のひとつかもしれない。
と、そこへ黒塗りの高級外車が横付けした。
「お坊ちゃま、ひよこ様。ご無事で何よりです」
「佐久間さん! 迎えに来てくれたんですか?」
運転席から降りた初老の紳士は、人懐こいひよこの笑顔に目じりを下げている。
「相変わらず連絡もしないのに、どうして佐久間には帰る時刻が判るんだ」
「お坊ちゃまのご様子を逐一お見守りいたしますのがわたくしの務めでございます。坊ちゃまこそ、わたくしが参ることをご承知でいらしたのでは?」
ぐうの音も出ず、苦虫を噛み潰したようなお坊ちゃまを満足そうに見守るこのストーカーは、荒川の兄が弟を心配して付けている執事であり、運転手で、料理番でもある。
おまけに、スマートフォンはおろか携帯電話の類を持たないお坊ちゃまの行動を、事細かく把握している敵に回したくないタイプの男である。
でかいお坊ちゃまとしては、したり顔のスパイにこれ以上大きな顔をされたくはないが、現実問題彼がいないと生活は立ち所に破綻を来たすだろう。大体この10年というもの、佐久間は荒川の一番の理解者であり、保護者で、場合によっては嫁だった。こんな都合のいい嫁がいては、お坊ちゃまの身が固まることは、まず不可能だろう。
5分後。結局は車上の人である。
「先生、さっきのお話しの続きなんですが」
この時を待っていたひよこは、いきなり本題に入る。
「何か途中の話があったかな?」
「今日こそは聞かせてください。先生はあの情報から一体どこまでを知り得ているのですか?」
「あみだで書いたでしょ」
「まさか本当に2択だったわけではないでしょう?」
「それは、そんなに重要なことなのかな。誰かが苦しんでいるなら、その苦しみから救われることの方が大事なんじゃないかと思うんだけど」
「何、カッコつけてるんですか」
「結構本気で言ってるんだけど」
「最初、面談で高橋さんが言った『せめて、夜帰った時に様子を見ていれば』って言ってたことですか? そうすれば遺書に気付いたと言う意味だったということですか?」
「おいおい、僕の話し聞いてた? というか、それに気付いていたのなら君が謎を解いてあげればよかったんじゃないかい?」
「保険屋さんのことだって、いつの間に社章なんて見てたんですか」
「うーん。だってあの人たち、かなり冷たい視線送って来てたから負けないように、こっちもじろじろ見てやったんだよ」
「もう! たまには真面目に応えてくれてもいいじゃないですか!」
後部座席のやり取りを黙って聞いていた佐久間は、やれやれと呆れながらも、拗ね始めたひよこに言う。
「ひよこ様もご存知でしょう? お坊ちゃまは色々と仰いますが、かなりの照れ屋さんでいらっしゃいます。そうそう事細かに人様の秘め事を暴露して、そら見たことかという顔をなさる向きとは、お育ちが違うのですよ」
何だかんだ言っても、結局荒川を庇う佐久間である。ひよこは少しだけ面白くない。
「照れ屋なのは知ってますけど、先生ホントは説明するのがめんどくさいんじゃないんですか?」
「だって、きちんと話を聞けば分かるようなことを、ごちゃごちゃと説明するのって何だか嫌なんだよ。奥さんの死因からいって、殴られたような痣と血痕は余計なおまけでしかない。暴行犯は羊だし、理由は無理やり毛を刈られたから。では何故慣れない毛刈りなんてする必要があるのか。簡単なことでしょ? 鍵がかかっていなかったのは犯人が逃げたからじゃなく、本人に逃げる意志が無かったという現れでしょう。そこで思い出したのが保険屋の社章だった。後はただの推理でしかないから自分で話して貰っただけだよ。そもそも、あの遺書を見てから、こんなことを鼻高々に披露するほど僕は悪趣味じゃないんだ。わかってくれるだろう?」
それはそうだけど……。そう口を尖らせるひよこと、それを見てクスクス笑う荒川を乗せた車は、郊外にある立派な門構えの屋敷へと吸い込まれてい行った。
*
もふもふファームから戻って大よそ1ヶ月が経っていた。
この日、アトリエと名付けた特に何をするわけでもない南向きの一室に、上等なソファでくつろぐ荒川の姿があった。
手には何やら珍しい、およそ彼とのツーショットを見るのは初めての物体が乗っている。
本だ。然も絵がちょっぴりあるかないかという本である。
「32になって高等遊民として、のらくらしているのは如何にも不体裁かな?」
「先生。なんですかそれ、漱石ですか? というか疑問形ですか?」
「漱石か、成程。僕は存外文学的なのかもしれない……」
荒川はめんどくさいことが嫌いな割には、自分自身が面倒な性格である。
そして個性的に見受けるが、どうやら影響を受けやすい性質といえよう。
「やはり、文学的作品の方が僕に合っていると思わないかい? そもそも、ラノベって何なんだ。結局それすらわからなかった」
「書く気になったんですか?」
先生などと呼ぶ割に荒川が何かを書こうが書くまいが、ひよこにとってはどちらでも構わない。
「いや、読んでみるのも悪くないかと思ってね。大体、書いてしまったら“フリー”じゃないだろう」
「フリーって、そっちの意味だったんですか……」
「執筆ゼロ、プリン体ゼロだよ。――ところで、これはなんだろうか、ひよこ君」
見ると、今朝方届いた朝刊だ。
「何でしょう?」
「ほら、ここの。読者が好きな本を紹介するというコーナーだよ」
荒川は新聞を広げると、家庭欄に載る囲み記事を指さした。
『おすすめのミステリー「羊たちのもふもふ」著者・三毛ひよこ』
「偶然でしょう……」
ひよこは記事に眼を落とすと顔色一つ変えずそう言った。
「こんな偶然、あるのか? いや、あれからまだ僅かひと月……? ひよこ君?」
!!
荒川の眼がひよこのそれを捉えた瞬間、まるで全てがスローモーションであるかの如く、彼の右腕は高々と天を掴んだかに見えた。刹那、その手からは3色の光が発せられ、それは高速で回転する。気付くとひよこの右手には奇妙な形状のペンが握られており、それを荒川に向けた。
「ひ、ひよこ……きみは、いったい……」
ペンから発せられた三色の光は混ざり合いながら荒川を捉え、アトリエは光の渦に飲み込まれた――――。
「ほらほら先生、起きて下さい。高等遊民だなんて言わないで、また取材旅行に行きましょうよ。何か文学作品のヒントになることがあるかもしれませんよ」
「う、うん……そうだな、そうだった。何だか目がちかちかするんだが」
「そうですか? きっとまた、うたた寝していたせいですよ」
廊下を小走りに近づいてくる足音は佐久間である。
そしてコンコンとドアを叩く。
「お坊ちゃま。何やらこちらの部屋から怪しげな光が見えた気がしたのですが、ご無事でしょうか」
「大丈夫ですよ佐久間さん。僕もここにいますから」
「そうですか、ひよこ様が御一緒でしたら心配は御座いませんね」
ひよこは荒川を見つめると、にっこりとほほ笑む。
南向きのアトリエには午後の陽光が降り注ぎ、穏やかな5月の風が二人の頬を撫ぜた。
<荒川クリスティーの事件簿 ―羊たちのもふもふ― おしまい>