四-薮入り
その日の朝、御出し台に干からびた鮎が二匹、のっていた。
ああ、もったいないと嘆きながら巫女が前を通り過ぎていく。そのなかに混じり、笑い皺を袖で隠しながら雪はわざとらしい声で鹿の子を詰った。
「あら、こんなとこに鮎の干物が。まさかこれが今日の供物ちゃうやろねぇ」
御出し台の鮎は、雪の御膳に上げたぶんだ。雪にも是非味わって欲しいと、鹿の子がのせた。それを雪はわざわざお日さんに干してから、持ってきたのだった。朝拝の御饌菓子は一寸前に鹿の子が上げていたが、雪の手で天井に放り投げられ、とうに小鬼たちの腹んなか。
皿だけが虚しく、鹿の子の頭の上へ落ちてきた。
「あいたっ」
「どんくさいこと。今すぐにでも新しい御饌を上げな、薮入りは許さんで」
雪の言う通り、鹿の子は今日から薮入りする。その時季にはまだ早いが、月明と決めたことだ。
遊びにいくわけではない。鹿の子の実家、糖堂家に炉の入る神祠が建ったのだ。この度正式に荒神を祀ることとなった。
その際、常任の陰陽師をひとり連れていく。
北の方、桜華である。
小御門家で二十年もの間修行に励み、人形を操る異能もち。国ひとつ護るのに充分、しかるべき人材だ。
申し出たのは、鹿の子。御用人にラクを付ければ見知らぬ土地も心細くないだろう。
月明はこの案をふたつ返事で受け入れ、直ぐさま自身の予定を空けようと走り回った。
しかしこの良案、元より雪が調えるはずであった。
雪は北の方とラクに酷い仕打ちをした張本人であるが、これはお目付役として当主を裏切った側室と、側室を裏切った御用人に制裁を下したまで。
鬼の目にも涙、余生くらいは調えたろうと月明へ打診するつもりが憎きかまどの嫁に先を越されてご機嫌ななめ、鮎を踏み潰すだけじゃあ物足りないもんで、干して突き返した譯である。ちなみに今朝御出し台へ上げた御饌菓子は雪にぜんぶ天井へ投げられている。
「無駄にしたんは、鹿の子さんやで? 私は鹿の子さんが作った菓子は食わんと、何度も言うてるやろう。あんたが死ぬまで、絶対にな」
「ならば、お稲荷さまにお譲りになればいいのに。菓子を無駄にして悲しむのはお稲荷さまですよ、お義母さまは頭が回りませんね」
「なんやてぇ!? ……ふん! お稲荷さまがかわいそうなら、早よう新しい御饌を作るんやね! 出来なきゃあ、寂しくお留守番や」
「久助」
「はい」
鹿の子と雪の間を、颯と風のように久助が横切っていく。御饌皿には、新しい御饌菓子。
「なんでやっ、かまどにあった菓子はみんな小鬼に食べさせたはずやのに」
「そんなことやろう思うて、余分に作って、茶室に置いてあります。かまどのことは久助が一番、勝手をわかってますのでご心配なく。お義母さまは母家だけ、お留守番よろしくお願いします」
「きぃい!」
雪はついに耳を出し、爪を立てて鹿の子に飛びかかった。爪は薬師に切りかかったときとおんなじ鋭さだ。
両脇にいた狐巫女はとっさに雪の腕を掴んで押さえた。
今鹿の子に死なれては、二度と菓子にありつけない。
「なんや、お前たちまでかまどの嫁の肩を持つんかっ」
肩を持つ気はないが、舌が甘美な菓子を憶えている。
「すんまへんねえ。巫女の胃袋も掴ませてもらいました」
鹿の子は鹿の子で、雪の勝手気儘にはらわたが煮えくり返っていた。
お目付役の役は充分に理解できたが、罪に対して傷は深過ぎる。
北の方は呪印のせいで風成に居れなくなった。これから二度と生まれ育った故郷の地を踏むことができないのだ。雪の爪で引っかかれたラクの腕の傷は深く、畑を耕せぬ身体になってしまった。百姓家生まれのラクにとって、さとうきびを前にして手をかけてやれないなんて拷問だ。
だから鹿の子は自分の、御饌巫女のやり方で味方を増やした。汚いやり方だとは思う。それでもお稲荷さまに無理を言ってでも、みんなの胃袋を掴みたかった。
これから何十年と鬼姑の雪と渡り合うために。
「私も居りますよ」
拝殿から戻ってきた久助が、鮮やかな笑みで鹿の子に寄り添った。名残惜しむように袖を掴む手が、温かい。
「しばらくのあいだ、かまどをよろしくね」
「はい。お気をつけて」
可愛らしく頭を垂れる。
「それじゃあ、いってきます」
鹿の子は久助の手を優しく解くと、妖しみんなにも声をかけた。それから留守の合図に、釜へ手拭いをかける。
雪の金切声を聞きながら、鹿の子は煤汚れた御饌装束のまんま、堂々と戸口から出て行った。
*
あか山のように燃え盛る翼を持った、朱雀の鞍に乗れるのはふたりまで。
空の旅は傷を負った北の方とラクに譲り、鹿の子と月明は夫婦水入らず、麒麟の背に跨り、ゆっくりとあか山を登った。
月明の顔は緩みっぱなしで、果たして帰るまでに直るだろうかと心配になるほどだ。
「そんなに喜んでいただけるとは、とうさまも外郎も喜びます」
鹿の子は月明の華々しい笑みを見上げ、自分も笑った。
神祠の建立に伴い、鹿の子の弟が祝言を挙げる。前回の薮入り、それも鹿の子の帰り間際になってお萩に思いを告げた外郎であったが、それから良い方向に向かったようで。お萩は糖堂家の表座敷を任され、外郎は人が変わったように跡取り修業に専念している。
それにしてもふたりの恋は始まったばかり。
外郎も若旦那にしちゃあまだまだ頼りないから祝言にはまだ早いが、お萩の歳が来月十九になるから、それまでに挙げてやりたいと婆さまが糖堂の旦那に掛け合った。
ついでにやってきた報せが鹿の子の薮入りだ。
陰陽師さまが居れば産土神も、きっと格別な福をもたらせてくれる。祝言の日取りは満場一致で明日に決まった。
親友のお萩が嫁入り菓子を作るのだ、鹿の子もより一層気合いが入っている。
「楽しみやなぁ、お萩ちゃんとおはぎ作るの」
「いやあ、誠に目出度い。私も嬉しいです」
七日も暇をいただけるなんて。
おはぎに鹿の子、小豆三昧。月明はだらしなく顔を緩めた。
「神祠の隣には、北の方の新しい邸まで建てたそうで。私たちはまた別邸で寝泊りできますね」
「別邸ならば、お稲荷さまの目もお義父さまの目も届きませんからね」
「とうさまの?」
「ごほんごほん」
神祠の隣に陰陽師邸を建てさせたのは月明だ。当初の常任役は北の方ではなくラクであったから、糖堂の旦那は「ラクなら実家でええ」と言っていた。
そのため月明は自分と鹿の子の事情を明かしてまで説得したもんだ。これらは総て文でのやり取りだが、事情を理解した後の旦那の字の乱れっぷりは酷いもんで、四角いはんにゃ顔を思い浮かばせた。
次に顔を合わせるのが気まずいが、背に腹は変えられぬ。
「総ては世継ぎ作りのため、為ん方ない」
「お世継ぎ?」
「手綱が乱れます。前を向いて」
「はいな」
鹿の子は顎を引き、しっかりと前を向いた。
鹿の子だって、なんも好き好んでうすらとぼけているわけではない。お稲荷さまに「世継ぎ作りは他所の国で」と言われているのだから、気にし過ぎて昨夜眠れなかったほどだ。
本来のお世継ぎ作りがどんなもんか、よう知らん鹿の子であるが、こうして背中を包み込まれているだけで、心の臓が鳴りっぱなし。それも以前、ふたりで乗ったときよりずっと、くっ付いてる気がする。
気のせいではない。
「……綺麗だ」
「はい。桜も綺麗でしたが、夏の風成も美しいですね」
「桜のない肌も」
月明は鹿の子の首筋のほんの少し手前の、襟を指でなぞった。
今すぐにでも肌に触れたいが、あか山では歳神さまの目がある。白いうなじに見惚れながら、はよう山を越えないものかと、蹄の音を数えた。