十三-炉の神
朱雀は小夜がとり憑いた沙月の口にも、かしわ餅を入れていた。ひと噛みで生菓子と悟った沙月は一瞬で自分を取り戻した。いやひと噛みで感じ取ったのだ。
これは鹿の子が練った、極上のあんこだと。
「ふくよかな小豆の甘味、なめらかな舌触り。今まで食べてきたあんこは何だったの? これが、これこそが御饌菓子! お稲荷さまの御心をつかんだ、あんこ……!」
沙月は天を目指し真っ直ぐ耳をたてた。
朱雀の力を操る沙月は世界中のあらゆる菓子を食べてきた。特に大好物のあんこは時季に合わせ職人を選ぶほど舌が肥えている。この世で食べていない菓子は御饌菓子だけ。御饌菓子は、御饌のあんこはどれだけ美味いのか。恋焦がれ、期待を膨らませ、待ちに待ったすえ、ありつけたかしわ餅は
鬼を追い出すほどの美味さであった。
「それになにかしら、この芳醇な香り……! まったりとして、くせになる」
「まあ、お気付きですか」
鹿の子は首根っこ掴み上げられたまま喜んだ。
「栗蜜ですよ」
「栗蜜?」
このかしわ餅が包むあんこ、ただのこしあんではない。
いつしか漬けた桜狩の栗の蜜で練り直している。
桜狩の人々に食べてもらうのだ、せっかくだから栗を味わって欲しいが、甘露煮はおせちでほとんど使い果たしており、半分に割っても五百個ぶん用意できない。そこで、残っていた甘露煮の蜜を練り込んだのだ。元々香り高い桜狩の栗を漬けていた蜜は、こしあんに味の深みを与えた。
ところで鹿の子は甘露煮を作るとき、御饌に上げるお神酒徳利を使っている。
徳利のなかでじっくりと清められた栗蜜は、運良く鬼を追い出す助けになった。
「沙月さん、くるじい、下ろして」
「あっ、は、はい!」
沙月が手を離すと、足元にはいつの間にやら月明が跪いており、鹿の子をしっかりと抱きとめた。
「鹿の子さん、あなたって人は……!」
口の端にあんこをつけながら涙を流す月明のなんとみっともないことか。
しかし誰もみちゃあいない。みんなかしわ餅に舌鼓、沙月もまだ夢心地である。
「あなたって人は?」
鹿の子はしたり顔で返したが、着物の裾から覗く鶏がらみたいな足首はがくがくと震えている。月明は沙月を突き飛ばす勢いで鹿の子を抱きしめ直した。
「私はあなたに振り回されてばかりだ」
沙月と栗蜜に追い出された小夜の御霊は、その場を逃れるようにして、雪の着物の裾にはりついた。
月明が馴染みの名を呼ぶ。
「唐かさ」
「うひゃあ」
唐かさの風が境内に立ち込めていた粉塵や瘴気をかき消していく。煙で覆われた空は青く澄み渡り、阿呆臭くなるくらいの日射しが降り注いだ。 敵と味方に分かれていた桜狩の男衆もまた、唐かさの風に吹かれ、いっしょくた。
「なに、……してたんやっけ」
「しかし、美味いなあ」
もはやかしわ餅の感想しか口を衝いて出てこない。
菓子が口に入らなかった薬師ひとり、酷く滑稽に見えた。さて締めくくりと思えた、その時だ。
「ふん、まあまあやな」
地に伏せる小夜の御霊を撫で、雪が言った。クラマを襟巻きにした雪が。
腑抜けていた薬師は一変して笑壷に入り、雪を讃えた。
「ふはは……! そうだ、氏神が我が掌中にあるではないか……!」
お国の氏神が今はただの狐、妖狐の爪に捕らえられては手も足もでまい。
「神になど頼るからこうして弱みとなるのだ、これからの時代は人間が天下を統一し、国を治めるのだよ。桜狩のようにな!」
周りは騒めくが、鹿の子を取り戻した月明にぶれはない。
「人が国を治めるだと? 神を拒み、鉱山の神祠を鎖した結果、桜疱瘡という難病を生み出したというのに」
「病を生み出した? 神の祟りだとでも言うのか」
「まさか、すべてが愚かな人間の所為。お稲荷さまは今、お前の手中にあるのだ。少し皆さんにも聞いていただきましょうか、桜疱瘡の正体をーー」
月明は袖に手を引っ込めると、なにやら印を結んだ。すると月明の右肩に、うっすらと人影ができた。手で振り払えば消えてしまいそうな影。触れればたちまち骨まで溶かしそうな、恐ろしい影。
「あなた方が何百年と閉じ込めていた、桜狩の産土神、鉱様です」
「ひぃいいいいい…………!」
町民たちは悲鳴をあげるほどその名に恐れ慄いた。なかには尻餅をつくものもいる。
かしわ餅を食べ終えたあとでよかった。
「みなさん、罰当たりなことをしていたという自覚はあるのですね」
五菱や鉱夫たちは月明の作り笑いのほうが恐ろしいと思った。
「残念ながら鉱様は荒神ではありません。よくもまあ、ありがたい神様を何百年と閉じ込めたものです」
月明は桜狩へ渡り、直ぐに違和感を抱いた。鉱山が折り重なる神々しい地形でありながら、その力を感じられないのだ。神道を嫌う桜狩のことだ、月明は鉱夫たちの治療を終えると、神の存在を示す遺跡がないか鉱山の奥深くへ潜った。鳥居を見つけたのは、今は使われていない旧い採掘場。鳥居の先は岩で塞がれ拝むことができなかった。
ここで鉱夫の出番がやってきた。恩返しにと、鉱夫たちは井戸ひとつ分の深さの岩を、わずかひと晩で掘り崩した。
岩の先には祠がふたつあった。
神は居た。ふたつのうちひとつだけ、神は鎖されていた。
「残っていたのが荒神のほうであったら、私はここに立っていなかったかもしれません。誠に運が良かった」
呑気なことを言う。
にっこりと、笑いかけた先には頭にお団子ふたつくっつけた彦が浮いていた。お団子には尻尾に三つ編みがついて可愛らしい。背は鹿の子より少し低く、股のない豪奢な着物を纏っている。彦に似た姫君を鹿の子は知っていたが、あいにく影にしか見えない。
何百年もひとりぼっちで閉じ込められ、よほど心細かったのだろう、彦は月明の背中に手を添えたまま離れない。
彦が見える薬師は目を疑った。
「それが、桜狩の、産土神だと……?」
「はい。昔々、桜狩は世にも珍しい、ふたりの神の加護がありました。鉱山で働く人々を護る、炉の神です。ふたりの神は対照的に和魂と荒魂であり、ふたりを等しく祀ることで、均衡を保っていました」
「炉の神……?」
鹿の子が尋ねれば、月明は柔らかく頷き、昔話を続けた。
彦が言うには、ふたりは仲が悪かった。供物がちょっとでも偏ると喧嘩して民を困らせた。特にもうひとりの荒神が機嫌を損ねると、疱瘡を撒き散らすからかなわない。天罰ばかり下す神は次第に民に嫌われ、忘れ去られてしまった。供物がもらえないのはお前のせいだと、彦は荒魂の神を責めた。傷付いた荒魂は祠を離れてしまった。
「それからしばらくして桜狩で疱瘡が流行りました。それはそれは酷い大流行だったそうです。荒魂は居ないのにおかしいですねぇ、力を失った彦は民を救えず、恨まれるばかり。終いには岩のなかに閉じ込められたという譯です」
月明の説法口調は周りを惹きつけた。氏神が薬師の掌中にあるというのにこの語りっぷり、先ほどとはえらい違いだ。
「さてここで問題です。祠に荒魂が居ないのに、なにゆえ桜疱瘡が流行るのでしょう」
そりゃあ病は病だ。風に乗ってやってくるんだろう。答えが飛び交うなか、薬師が唇を戦慄かせる。月明が見逃すわけがない。
「決まって三年に一度。桜狩では大きな行事があるのではないですか?」
その容赦ない問いの答えは、薬師自身から放たれた。
「……桜狩では、採掘場で事故が多い。年にひとりふたり、死人が出る。そのほとんどが生き埋めだ。葬いに三年に一度、同じ鉱山の辰砂を使い、仏の像を建てる」
桜狩は仏様を祀る町。
常に目に留まるようにと、町には背の高い仏の像がいくつも建てられている。そのほとんどが鉱山労働者の慰霊碑だ。
慰霊碑は三年に一度の年の暮れに、遺族が集まって建てている。銅を流し込んで鋳造した後は、金で美しく飾り立てた。
「鉱山で採った辰砂に金を混ぜると水銀と金の合金ができる。この合金を仏の像に塗りつけ、炭火で加熱すると水銀だけが飛ぶ」
「そして飛散した水銀は街に垂れ込め、吸い込んだ民は中毒を起こす。桜疱瘡は流行り病ではない、町民自らが引き起こした自殺行為だ」
何百年と続いたこの習わしは多くの民を犠牲にするだけでなく、土を汚染していった。元々鉱山下に草木は少なかったが、水銀が蓄積された山は見事に禿げた。桜狩名産であった栗は土と水を変えなければ実らなくなった。それを怠った三年前は水銀たっぷりの栗が実った。栗を食した人間は体内から蝕まれ、その被害は糖堂へ及んだ。
「薬師よ、薬を調合できたお前は疱瘡が水銀中毒であると気づいたはずだ。何故今年の建立を止めなかった」
「……亡くなった家族を想い、涙を流しながら金を塗る民を前にすると、止められなかった」
遺された家族は水銀を吸い、仏を追うようにこの世を去った。
「薬師よ。小夜は晩年、肌に良いからと栗の葉を生のまますり込んだり、湯に浮かべた。あれはお前が与えたのではないか」
栗の木は葉にも水銀が含まれている。直接吸い込んだり食してはいないが、微量の水銀が小夜の体内へ、徐々に蓄積されていった。桜疱瘡の後遺症には手足の痺れなどの他に、ふさぎ込んだり、奇怪な行動がみられる。小夜にはまさにその症状が表れていた。
「そんな……、私が、私が小夜を」
薬師はついに膝を崩し、地に手をついた。
顔を横へ上げれば小夜が浮かんでいた。実体のない御霊だが、穏やかに薬師を見つめているようにみえた。
「う、あぁ……っ、うわああああああああああああああああああ――――――!」
薬師は再び膝を真っ直ぐ立てると、雪へ飛びかかっていった。襟巻きのクラマをひっぺはがそうと手を伸ばす。お日さんによう焼けたその腕は、すう、と五本の切れ目が入った。
「ぎゃぁあああ! 何をする……!」
「息子に触れようとするなんざ、一億年早いわ」
雪が爪を払えば、灰で汚れた境内に血が飛び散った。
「何故だ! その狐を殺せば風成は無力となるのに! 私を助けようと、桜狩を救おうと、誓ったではないか!」
「約束したえ? 町は救われたではないか。そしてあんたは桜狩の習わしから解き放たれた。――陰陽師宗家、小御門月明の力でな」
雪のせせら笑いに月明は深い溜め息を吐いた。
「鹿の子さん、少しここで待ってて」
それから薬師の元へ歩み寄った。
雪が愛息子のクラマに傷ひとつつける譯がない。クラマを抱いて現れた雪をみて、月明は雪の企みを一瞬で悟った。
試したのだ、小御門家の未来を担う当主とその妻を。
雪が月明と鹿の子を交互に見やる。
「少々地味やったが、合格や」
「五月蝿い、女狐が」
そう言葉を吐き捨てると、月明は小夜の御霊の前で片膝をつき、瞼を優しく閉じた。
「……小夜の想いを知れたことだけは、感謝します」
「死んでも小御門の嫁やからな。今度はちゃんと供養したり」
月明は素直に頷くと、小夜の御霊を袖のなかへ納めた。
それから背中を向けたまま薬師へ語りかけた。
「お前を動かしたものが復讐でよかった。純粋に民を想い、討って来られては私に勝ち目はなかった」
風成は周りの国を枯渇させている。これは事実であり、風成が衰退すれば周りの国々は豊かになるだろう。
「しかし風成の陰陽師が神々を祀り、世界の均衡を保っている。これもまた事実」
「その通り、この現世はまだ神のもの。神を欺き、人間が国を治めても猿に烏帽子や、どこかで歯車が狂う。桜狩のようにな。人間が玉座に上がるんはまだまだ先の話や。まだまだ、な」
うっとりとクラマの毛を撫でながら雪が言う。
「水を引く金なんぞ、仏像を売ればお釣りがくる。桜狩も炉の神を祀り直せば、すぐに立て直すやろ」
「それには神道を学んだ陰陽師が必要だ」
月明は振り返ると、薬師の手を取った。傷のない右手を。小夜を奪い鬼に変え、鹿の子を苦しめた薬師の穢れた手を。
「来年の栗、期待しておりますよ」
月明は暮れに食した栗鹿の子を思い出し、神も見惚れる破顔をみせた。
離れて見守る鹿の子は小さいひとり言。
「やっぱり、旦那様は旦那様やった。ううん、それ以上に――」
しかしその言葉が地に沈むと、月明の破顔はまたもや情けないものに戻った。




