十二-かしわ餅
春の空に瘴気が垂れ込める。
黒焦げた木々の陰から現れたのは気位の高い顔立ちをした女であった。かと思えば時折顔に、幸薄い美女が映る。
小夜だ。
小夜の細指が食い込む首には、貧相な小豆顔が乗っていた。
「鹿の子、さん……?」
鹿の子は白小豆のように顔を真っ白にしながら、月明に心配かけまいと笑った。
「どうして、沙月さんが……?」
先ほどまで流暢だった月明の言葉は、まるで泣くのを堪える子どものように震えていた。
「まだまだ青いなあ、月明。ついさっき、あんたが認めたんやで。七化けが得意な側室だと。沙月さんを側室だと、その口が言うたんや。あんたと私、ふたりが側室と認めれば、その者にどんな異能があろうと、このお目付役の思うがままよ……!」
雪の言う通り、月明は自らの口で沙月を側室だと認めた。
それに沙月の側室入りは朝廷の公認でもある。蘆ノ宮家、五菱の側室入りを知った阿倍野家が我もと直々に申し出てきたのだ。
行方不明の沙月を、形だけでも是非にと。
歯嚙みする月明の目端から、口惜し涙が溢れる。
なんと惨めな姿だろう、薬師は手を叩いて喜んだ。
「先ほどまで偉そうにしていた男が酷い醜態だな。弱みが女とは蔑視に値する」
しかし月明が溺れているのは未だ、煤汚れた小娘。
「お前は何も思わないのか、娘を手に捕らえるこの女を。怨みを抱く小夜の成れの果てを……!」
女は薬師の言葉通り、垂れ髪のなかで鹿の子に殺意を向けていた。魂まで啖らい尽くすほどの強い怨念を抱いて。
女は幻術を解いた沙月。とり憑いたのは鬼と化した月明の正室、小夜。
月明は今まで誰も見たことがないような、苦患の表情を浮かべた。
小夜は月明の元服に合わせ輿入れし、それから九年正室の座にいた風成貴族の姫君だ。霊力なし、子を成せぬ役立たずとしてお目付役や狐巫女に日々いびられていた。心を弱らせ、臥せっていた小夜は月明の遠征直後、すれ違うように家を飛び出し、あお山の谷底へ消えている。遠征とは糖堂の村へ桜疱瘡の救助に当たっていた三月を指す。
「思うさ。今思えば、糖堂の疫病と小夜の心の病は繋がっていたのだ。もっと早くに調べるべきだった」
両親の死から二年、悲しみ薄れぬまま小夜を失った月明は小夜の死因を深く調べることはなかった。無粋に感じたのだ。
――北の御用人との逢いびきを掘り返すことを。
月明が小夜の裏切りに気付いたのは糖堂への遠征前であった。不在が長くなることを伝えようと、足を運んだ先はお目付役から小夜を護っていた御寝所。ふたりだけの局に映ったのは、自分以外の男の影だった。
月明は小夜を責めなかった。
他の側室と同じように、御用人と添い続ければよい。
「小夜が幸せならそれでいいと、私は伝えた。お前も几帳越しに聞いていたはずだ」
「だから、だから小夜はお前に見離されたと、嘆き苦しんだんだ……! 小夜が愛していたのは、貴様だった。絶望した小夜は心を狂わせ、身を投げたのだ……!」
怨霊の巣窟、または鬼門と呼ばれる奈落の底、あお山の谷底に。
小夜の御霊は現世に未練を残したままあお山で穢れていった。月明は月命日になるとあお山へ足を運んだが、その祈祷は谷底まで届くことはなかった。
「そうだったのか、小夜――」
月明は小夜のために涙を流した。鹿の子を殺したくて、今か今かと雪の許しを待つ小夜を見据えながら。
「私も愛していたよ。もっと話し合うべきだった」
愛していた。遠い昔噺のような月明の語り口調に、小夜は沙月の顔を不愉快そうに歪めた。
「かわいそうになぁ。小夜の御霊を鎮めることは難しいのに、鬼として甦らせるんは、簡単やったわ」
生前に散々いびっていた張本人の雪が言う。
「幸いとり憑いた沙月の身体は若く力も強い。子を成せばさそがし素晴らしい御子に恵まれることやろう。せいぜい可愛がってもらい」
薬師は難色を示したが、鹿の子を殺すよう導いているのだと、差出口を止めた。
『まあなんてこと……! これで私たち、お世継ぎを作れるのね!』
小夜は口の端から牙を見せて喜んだ。
『嬉しい……! もうどこにもいかない? 私だけを見てくれる? また私を護ってくれる? 前よりずっと愛してくれる?』
涙止まらぬ月明へ堰を切ったようにまくし立てる。それから鹿の子の首を肩より上に持ち上げ、尋ねた。
『この娘より……愛してくれる?』
境内にいた人間みんなが総毛立った。
言葉ひとつ間違えば鹿の子の命はないと、誰もが感じた。
もちろん月明は言葉に詰まらせた。こんなに焦ったのは鹿の子と久助を取り合って以来のことだ。
寸の間の静寂のあと、意外なところで口が開いた。
「なんて我が儘なお姫様なんですか」
鹿の子だ。
なんと鹿の子は命を握られながら説教を垂れ始めた。
「どこにもいかない? 陰陽師宗家の当主が家に居座ったら誰が主上を護るんですか。主上だけではありません、お稲荷さまのお守りに国民、こうして他国の民の救助に買って出る、旦那様に暇はありません」
雪の腕のなかで耳を傾けていたクラマがお守りのひと言にズキンと胸を痛ませる。
「そんな忙しい旦那様に護ってもらおうなんて図々しいにも程があります。自分のことくらい自分で護る。それが出来んでなにが正室ですか。前より好いて欲しかったら、」
小夜を見下ろす小豆の目は怖いくらいに座っていた。
「疲れて帰ってきた旦那様に、あったかいお茶ひとつでも淹れてみい!」
しん、と境内が静まり返る。
小夜は鹿の子を吊り上げたまま、目を皿にしていた。
これから何が起こるのか、誰にもわからない。病み上がりの鉱夫にも、男衆も、陰陽師宗家の当主であり、主上の侍従長である小御門月明にも。
鹿の子を救いたい。しかし袖のなかの手をわずかに動かせば小夜は我に返り、鹿の子を襲うだろう。もちろん身体を奪われた沙月も救うべきだ。そして小夜も救ってやりたい。お目付役に無理やり鬼にされた小夜の御霊を。
しかし良案はちっとも浮かばない。
月明の空っぽの頭に浮かんだのは、久助だった。鹿の子の幸せのためとはいえ、菓子の精霊に無理やり自分の、人間の依り代を押し付けようとしていた。
自分と久助を、沙月と小夜に重ねる。
怨で塗りたくられた沙月の顔は見るに堪えない。
「私は……こんな愚かなやり方を、本気で考えていたのか」
月明は口を空けて空を見上げた。
あったかいお茶もいいが、贅沢を言えば甘いもんを食べたい。鹿の子さんの菓子を食べれば、疲れが吹き飛び頭も冴えるのに。
「ひと口、いやひと欠片でいいから――――」
願いは叶った。
空から菓子が降ってきた。
ひと欠片どころか、頬が膨らむほどの大きさの菓子が月明の言葉を塞いだ。
「んぐ」
空から雨のように菓子が。
「んが」「んげ」「んご」
月明だけでなく、空を見上げたものの口全部に菓子が収まった。吐き捨てることなどできない、もっちりとした餅が唇に貼りついて取れやしない。嚙み砕けば、
「…………あんこ!」
菓子はかしわ餅。
かしわの葉がひらひらと舞うとはいかず、ぼたぼた落ちてくる。取りこぼしのないよう、ひとりひとつずつ、口元に運ばれる。そんな器用なことができるのは神獣、朱雀だ。お稲荷さまが食べたよもぎ団子の対価、少し余っていたぶんがここで利用された。
「なんや、これ……」
一晩かけて包んだかしわ餅は恵みの雨となり人々の舌を潤した。
まず、ちょうど葉のかからない餅の部分が口に入る。噛みちぎろうと、葉に手を添えれば餅がのびるのびる。
のびるが歯切れは良い。咀嚼すればぷちん、ぷちんと小気味よく餅が弾む。ふた手に分かれた餅のあいだから、現れたのはあんこ。
はじめて食べる人間にとってこしあんは、得体の知れぬ肉、それもモツを口に入れられたようなものだった。おそるおそる舌で転がせば、豆の甘味がとろける。
「これ、こんな」
ふたくち食み、みくち食み、静かに時が流れる。みんな文句ひとつ溢さず、とにかく口のなかのものに気を集めた。
「なんて、なんて」
かしわの葉がぽつぽつと、地へ舞い落ちる。
「なぁんて、美味しいの……!」
最初に嘆声をあげたのは沙月であった。




