カミラ視点
ロバートに恋愛感情を抱いたことは一度もない。幼い頃から家族ぐるみの付き合いで、弟か自分の後ろをついてくる犬みたいな、そんな存在だった。
けれど──彼とはこれからもずっと一緒にいるのだろうと、そう思っていた。
「ロバート君が家を出ちゃって、寂しくなったわねえ」
洗濯物を取り込みながら話しかけてくる母に、カミラは一言だけ返した。
「……そうだね」
自分でも驚くほどに冷淡な声だった。何か感づかれてしまうかもしれない。慌てて取り繕おうとするも、母は特に違和感を覚えなかったのか、そのまま話を続ける。
「どうしてロバートくんが急に家を出たのか、あんた知ってる?」
「……さあ。自立したかったとかじゃないの?」
「そうそう、そうなんだけどね。なんで今のタイミングでって思うでしょ? これが聞いた話なんだけどねえ、なんか好きな人ができたって話してたらしいんだよ。それと家を出ることがどう繋がるのかよくわからないけど」
「ふーん」
なるほど、それだけ聞けば確かにわからない。
けれど、彼女は知っていた。ロバートが家を出たのは、カミラと距離を取るため。自分の恋愛を邪魔してくる幼馴染から離れるためであると。
もうこの話題を聞きたくなくて適当な相槌を打ったが、それが母の気に障ったらしかった。
「ふーんって、あんたねえ。……てっきりあんたはロバートくんと結婚するもんだと思ってたのに、向こうには別の相手がいるっていうんだから、予定がまるっきり狂っちゃったよ。あんたももういい歳だし、うかうかしてたらすぐ行き遅れになるんだからね。早く相手を探しなさいよ」
「そんなの、ママたちが勝手に言っていただけでしょ。私は知らないよ」
そう言い残して、カミラはリビングのソファーから立ち上がると自分の部屋に直行した。このままだと母の長い説教に付き合わされる羽目になると思ったからだ。
「結婚、ね……」
ベッドに寝転がり、つぶやく。
さっき、カミラは「ママたちが勝手に言っていただけ」と母に言ったが、あれは嘘だ。
──実際はカミラ自身も、いずれはロバートと結婚するのだろうとなんの疑いもなく信じていたのだから。
だって、カミラの両親はいつもそう言っていた。カミラをもらってくれるのはロバートくんくらいしかいないわね、って。そうしたらロバートの両親も同調して、カミラちゃんが来てくれるならとっても嬉しいわ、って。ロバート本人だって特に否定もせず笑っていた。
だから──カミラはロバートとの将来を、まるで確定したことのように自分の中で扱ってしまっていたのだ。
顔もまあ悪くないし、近場で手を打とう。気心も知れているし仲良くやれるだろう。そんなふうに。
でも、今になって思う。カミラの両親が本気で二人をくっつけようとしていたのに対して、ロバートの両親は角が立たないように話を合わせていただけで、全然本気ではなかった。ロバートもカミラとの結婚など単なる冗談としか思っていなくて、だからこそ笑っていたのだと。
自分の両親だけが盛り上がっていた話に乗せられて、勝手にその気になってしまった自分が恥ずかしくてたまらない。結婚するのは自分だという思い込みのあまりに取った行動も、思い返せばあまりに痛々しくて、どこかに埋まりたいような、走り去ってしまいたいような気持ちになる。
ロバートに好意を寄せる女性の出現は、カミラにとって青天の霹靂だった。
あの犬のような、もしくは猿のような、何も考えていない男に積極的にアプローチをかける女性が現れるとは。
ロバートはぱっと見、別にモテないタイプというわけではない。顔も悪くないし、性格も明るくて善良な方だ。けれど持ち前の鈍感さとあまりのアホさは大抵の女性を遠ざけてきた。
それが今になって、女性に熱烈に言い寄られるなんて。しかも相手は年下の美人だという話だ。それによくよく話を聞けば、ロバート自身もその女性に一目惚れをしたというではないか。
──絶対に騙されている。
もしくは単なる興味本位でちょっと声をかけてみただけだろう。浮かれているロバートには悪いが、目を覚まさせてやらなくては。
そう思ったカミラが実際にその女性、オリビアに会ってみると、なるほど彼女は若くて可憐なお嬢さんだった。そしてロバートに向けられる熱い視線を見ると、彼に好意を抱いているというのも嘘ではないように思われる。
本来ならばその時点で、彼女の好意を得たロバートの幸運を祝い、二人の仲を応援する側に回るべきだったのだろう。
しかし、カミラはそうしなかった。今はロバートに夢中だったとしても、所詮一過性の熱病に過ぎない。そんなもののためにカミラの婚期を遅らせられてはたまらない。そう考えたのだ。
それから、カミラはロバートにオリビアが近づくのを妨げ続けた。頻繁に会いに行ってはロバートと仲良さげに話してみせ、さりげなく親密さをアピールする。オリビアの知らない過去の話を持ち出し、会話から締め出したりもした。ロバートもカミラのふるまいに違和感を覚えたようだったが、「ちょっとくらいそっけなくした方が彼女に飽きられにくい」と適当なことを言えば簡単に納得したようだった。
カミラの妨害も虚しく二人がついに付き合い始めた時には悔しい思いをしたが、そこで素直に引くことはしなかった。むしろ、さらに積極的に邪魔をするようになった。
ロバートとオリビアが二人きりになる機会を極力潰し、デートの中止に追い込むかカミラもついていって三人で行動する。オリビアからはあからさまに邪魔そうな目で見られたが、その視線に怯みはしなかった。カミラからすればオリビアの方が邪魔者なのだ。
しかし半年も同じようなことを繰り返していれば、流石にロバートもカミラの助言や行動に対して思うことがあったようで、段々カミラに反論したり、カミラの言う通りに行動しないことが増えてきた。カミラは焦った。
──このままでは、本当に自分のほうが邪魔者になってしまうではないか。
そして、ついに転機が訪れた。ロバートが休みをとってデートをするはずだった、オリビアの誕生日。
事前にデートの予定を聞かされていたカミラは、前日に冷水を頭から被って一晩中裸で過ごし、まんまと風邪を引いた。馬鹿なことをしたとは後になって思ったが、その時のカミラはほとんど自暴自棄になっていたのだ。
二人のデート当日に高熱を出したカミラは、意識が朦朧とする中、ロバートを呼ぶよう必死で親に訴えた。
「大丈夫か、カミラ?」
様子を見にきてくれたロバートは明らかにいつもより気合を入れた服装で、デートの前にカミラの見舞いに寄ったのだろうとわかった。
彼はしばらくカミラの様子を心配そうに見ていたが、やがて「じゃあ長居するのもあれだし、そろそろ俺はいくから。お大事にな」と、部屋から出て行こうとした。
「待って……」
カミラは咄嗟にその服の袖を強く掴んで、彼を引き留める。
ロバートをオリビアの元に行かせない。カミラの頭にあったのはそれだけだった。
「どうした、カミラ?」
「行かないで、ロバート」
「え、どうしたんだよ……。悪いけど俺、行かないと。約束があるし」
困惑した様子のロバートを、しかしカミラは離さなかった。
風邪のせいで掠れたか細い声で、必死に訴える。
「……嫌だ、行かないで。そばにいてよ」
「カミラ?」
「……死ぬ、死ぬから。ロバートがどっか行くなら、私死ぬから!」
熱のせいで情緒不安定になっていたこともあり、カミラはボロボロ泣き出した。
死ぬ、行かないで、ここにいて。それをひたすら繰り返す。
始めはカミラをなんとか宥めてオリビアの元へ行こうとしていたロバートも、カミラの尋常ではない様子と、病人とは思えない強さで握りしめられた袖を見て、
そうして──その日一日、ロバートがカミラのそばを離れることはなかった。
「ごめんね、私、本当に迷惑かけちゃって……」
体調が回復して正気を取り戻したカミラが謝ると、無理しているのが丸わかりの表情で「いいよ、気にすんな」とロバートは笑ってみせた。
前々から楽しみにしていたはずの、恋人の誕生日という大切な日のデート。それを台無しにしたというのに、彼はカミラを責めようとはしなかった。
「本当にごめん。多分オリビアちゃん、ずっと待ってたよね……」
「……カミラは気にしなくていいよ」
「ううん、やっぱり私のせいだよ。ねえ、もしかして今日オリビアちゃんに謝りに行くつもりだったりする?」
「その、つもりだけど」
それがどうかしたのか、と言いたげなロバートに、このような提案をした。
「ロバートが謝りに行っても、本当か嘘かわからないし、言い訳だと思われちゃうんじゃないかな。火に油を注ぐようなことになっちゃうかも。多分、私が事情を話しに行ったほうがオリビアちゃんも素直に受け入れてくれると思う」
「ええ? いやでも……」
「お願い! 私のせいなんだから、自分で説明して謝りたいの。私に任せてくれない……?」
そう懇願すると、ロバートは微妙に納得できないような表情をしていた。しかしなんとかロバートを説得し、カミラがもう少し回復したらオリビアに話しに行くことになった。
この時にはカミラの言うことを疑い出すようになっていたとはいえ、やはりロバートはまだカミラのことを信用しており、言いくるめるのは容易だった。
カミラは数日後オリビアが働いている食堂に行き、あの日何があったのかについて話した。話した内容は大体本当のことだが、オリビアはショックを受けているようだった。自分の誕生日に風邪の幼馴染を優先されたのだから当然だろう。
そして食堂から帰ってくると、ロバートに「オリビアはかなり怒っていたようだからほとぼりが冷めるまで会いに行かないほうがいい」と伝えた。
「そんな……」
「大丈夫だよ。ロバートは悪くないんだし、オリビアちゃんも時間が経てばわかってくれるはず」
それからもロバートはたびたびオリビアに会おうとしたが、毎回律儀に「やっぱりオリビアに謝りに行こうと思うんだけど」とカミラに相談してきたため、毎回阻止した。今度こそ二人の関係は破綻する。そう確信した。
だが二人が会わなくなって一ヶ月ほど経ったころ、ロバートがオリビアを訪ねて行ったらしい。カミラに何も言うことなく。
「俺、オリビアに会ってきた」
突然そのように報告された時は、驚いて一瞬声を失った。
だが冷静になってロバートを観察すると、彼は明らかに意気消沈している様子で、良い結果にはならなかったであろうことが容易に推測できた。それはカミラの望んでいたようにことが運んだことを意味するはずだが、なぜか胸騒ぎがした。
「別れることになった、オリビアと」
「……え」
「でも、まだ諦めない。これからオリビアの信用を勝ち取れるように頑張るつもり。多分今まで、俺はカミラに頼りすぎだったんだ。そのせいでオリビアを傷つけて、泣かせて、信用を失った。これからは俺が自分で考えて、頑張ってみる。今まで色々アドバイスしてくれてありがとう、カミラ」
そう告げて、ロバートはカミラが呆然としているうちに去っていってしまった。
それからロバートとはほとんど顔を合わせることなく、全く知らないうちに家を出て騎士団の寮に引っ越していったと後から聞いた。
──どうして。
カミラはしばらくの間、本当に意味がわからなくて混乱したまま日々を過ごしていた。どうして、オリビアとは別れたのにロバートは自分から離れていってしまったのか。結局はオリビアと自分は合わなかったのだと理解し、よく見知っている気心の知れた相手が一番だと思い至る。きっとそのはずだと、信じて疑っていなかったのに。
けれども時間が経って多少冷静になってから、これまでのロバートの様子や自分のオリビアに対する行動、その他の諸々を振り返って、やっと理解した。
全てはカミラの独りよがりだったのだと。カミラがロバートと結婚すると思い込んでいたのはカミラとカミラの両親だけ。オリビアを執拗に排除しようとしていたカミラは、正真正銘、恋人の仲を引き裂く邪魔者だったのだと。
「嫌になる、本当……」
別れてからのオリビアとロバートが二人で歩いている姿を、偶然見かけたことがある。険悪な雰囲気ではなかったが、どこかよそよそしい。オリビアの信頼を勝ち得ることは、未だできていないらしい。
──上手く行かなければいい。
どうしてもそう思ってしまう。二人がまた恋人に戻れば、勝手な勘違いをして勝手に敗れ去っていった自分がますます滑稽で仕方ない。
このような状況になってさえ、カミラを一言も責めなかった可愛い弟分。そんな彼の幸せを願えない自分が、醜くて、惨めで、大嫌いだと思った。