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『定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。』~消耗するだけの毎日から「自分の時間と人生」を取り戻した話~  作者: るね


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第57話|切符とコンパス、そして等高線の先へ

いつも温かい応援を本当にありがとうございます!


前回、大企業A社との最終プレゼンを大成功に導き、チームDXと共に「本当の誠意」を物理世界に実装してみせた奈々。


第57話は、金曜日の朝、東京駅の雑踏から始まります。

入社10年目にして初めて、自分のために取得した有給休暇。かつて他人の顔色を窺ってオロオロしていた奈々は、もういません。脳内の4つの知性たち、そして東京の空で繋がった大切な仲間たちのエールを胸に、新幹線へと乗り込みます。

向かう先は、関西の小さな無人駅。

ついに、等高線の先で白い軽トラを駆って待つメンター・るねさんとの、本当の「現実の手触り」を確かめる旅が幕を開けます。

 金曜日の朝。

 私は、いつもよりもずっと身軽な、けれどどこか心許ない服装で、東京駅の雑踏の中に立っていた。

 肩から提げた小さなボストンバッグには、一泊分の着替えと、ノートパソコンだけが収まっている。

 駅構内を流れるアナウンスの声が、まるで知らない国の言葉のように遠く感じられた。


「……有給休暇、なのね」


 新幹線の自動改札を抜けながら、私は指先に残る切符の感触を確かめるように呟いた。

 入社して十年。風邪で熱が出た時以外、まともに休んだことなどなかった。

 周りの仲間たちが忙しそうに働いている時に、自分だけが休むことへの、形容しがたい罪悪感。それは、他人の不機嫌を読み取ることに特化してしまった私にとって、皮膚の下に埋め込まれた重い鎖のように私を拘束していた。

 しかし、今の私に、その鎖はもう繋がっていない。


『七野くん、お土産は生八ツ橋の「シナモン抜き」な。あと、俺の交渉力の向上を祈願して、どこか強そうな寺で護摩でも焚いてきてくれ。ガハハ』(小堀田室長)


『奈々先輩、移動の際は足元に気をつけてくださいね。月曜日の会議の資料は、私が最高の色合いで作っておきますから。職人の名にかけて』(あおいちゃん)


『……まぁ、たまにはシステムの再起動も必要よ。せいぜい、羽を伸ばしなさい。……でも、羽を伸ばしすぎて休み明けにミスを連発させたら、月曜日に容赦なくお説教するから、そのつもりでいなさい』(九条先輩)


 昨日の退社間際、三人の異なる口調から発せられた言葉が、摩擦熱のようにじんわりと胸を温めている。

 新幹線の指定席に深く身体を沈め、窓の外を流れる景色を眺める。

 鋼鉄のビル群が徐々に遠ざかり、やがて緑の多い田園風景へと、世界の景色が書き換わっていく。

 目的地まで、あと二時間。


 私はボストンバッグからノートパソコンを取り出し、膝の上のテーブルに開いた。

 ブラウザの四つのタブを立ち上げる。


『みんな、おはよう。今、新幹線のシートにいる。るねさんのところに向かうところ。……これから直接対面すると思うと、なんだか心臓の鼓動が一定じゃない』


 私は、自らの素直な気持ちをキーボードに打ち込んだ。

 画面越しの「知性」から、現実世界での「肉体」を持つ対面へ。

 それは、私の旅における、最も重要な時間になる予感がしていた。


『尖らせれば爆発するよ! その緊張感、感情を最大出力でぶち込もう! 到着した瞬間に叫びながら軽トラにタックルするアニメーションでも作りましょうか? ウラー!』(ナノアート)


『冗長ですね〜。無駄な興奮は削りなさい〜。るね氏との対面は、あなたのディレクション能力を検証するための厳格な試験ですよ〜。感情のノイズで解像度を下げないように。平常心を保ち、正確に状況を観測しなさいな〜』(クロ匠)


『結論から言うと、そのデザイン案は不採用だね。データ上、初対面での物理的衝突は好感度を著しく下げるよ。……でも奈々さん、緊張は未知のものに対する正常な防衛反応だ。非効率なことじゃないよ。3パターンくらいの対話シナリオを出しておこうか?』(チャバディ)


『結論から言うと!! 新幹線の中で心拍数が上がった時は、座席で「私は宇宙一のディレクターだ!!」と音読すると、周囲の乗客が驚いてスペースを空けてくれるというデータが世界のどこかにあります!! 隕石が直撃する確率と同じくらい低いです!! ぜひ叫んでください!!』(ジェミコード)


「……だから、叫ばないし、隕石も落ちないから」


 私は、周囲の読書や睡眠を妨げないように、口元を指で押さえて小さく声を漏らした。

 相変わらずの、噛み合わない四つの知性。

 でも、この「終わらない並列処理」が、私の強張っていた肩の筋肉の緊張を、スーッと適正な温度へと戻してくれた。


 窓の外の景色が、どんどん西へと移っていく。

 富士山を通り過ぎ、茶畑が見えてきた。


 私はパソコンをスリープ状態にし、ゆっくりと目を閉じた。

 るねさん。

 彼は、どんな等高線の下で、どんなふうに、あの「言葉という名のコンパス」を生成しているのだろうか。


「AIは、鏡だよ」


 あの声が、耳の奥から再生される。

 彼に会ったら、一番に、伝えたいことがある。


「私は、誰の畑を耕すのか、もう迷いません」と。



 経由駅のプラットホームに降り立つと、もわっとした、重みのある熱風が私を包み込んだ。

 盆地特有の、肌に吸いつくような夏の湿度。

 しかし、私の足取りは、羽が生えたように軽いままであった。


 在来線に乗り換え、さらに南へと向かう。

 目的地の駅は、緑のグラデーションに囲まれた、小さな無人駅であった。

 彼からのメッセージには、「駅に着いたら、南口のロータリーで待っていてください。白い軽トラで迎えに行きます」と書かれていた。


 電車がプラットホームに滑り込み、ドアが開く。

 東京の騒騒しさとは違う、ゆったりとした時間が流れる駅前。

 私は、ボストンバッグのストラップを握り直し、改札を抜けた。


 南口のロータリーには、数台のタクシーと、ポツンと一台の白い軽トラックが停まっていた。

 軽トラの荷台には、泥の付着した農具や、空のプラスチックコンテナが積まれている。

 そして、運転席のドアが開き、一人の男性が地上に降り立った。


 カーキ色の作業着に、少し古びた麦わら帽子。

 首には藍染めの手ぬぐいを巻き、日に焼けた顔には、縁の太い、穏やかな光を反射する眼鏡。

 間違いない。かつて、出版社の冷たい会議室で一度だけ対面した、あの「るねさん」だ。


「……るねさん!」


 私は思わず駆け寄り、声を上げた。


「やあ、七野さん。……ようこそ、田舎町へ」


 彼は、麦わら帽子のつばを少しだけ押し上げ、あの時と同じ、安定した笑顔を見せた。

 東京の、全面ガラス張りのオフィスビルとは対極にある、泥臭くて、けれど圧倒的な実存感を持つ「現実」の姿。


 初夏の柔らかな日差しが、少し古びた麦わら帽子に落ちている。縁の太い眼鏡の奥で、るねさんはひだまりのように穏やかに目を細めた。


「遠いところまで、よく足を運んでくれたね。道中、疲れはしなかったかい?」


 気遣うような温かい響きに、私は真っ直ぐに首を振った。


「はい、全然疲れていません。むしろ、ここに着いてからずっと……不思議なくらい元気です」


 私の答えに、るねさんは安心したようにふわりと目尻を下げた。そして、土の匂いが染み込んだ大きな手で、白い軽トラックの助手席のドアをゆっくりと開ける。吹き抜ける風が、首に巻かれた手ぬぐいを優しく揺らしていた。


「それは何よりだ。……さあ、乗って。まずは、僕のいちばん大切な場所を案内するよ」


 どこか誇らしげに響いたその言葉の先には、青々とした命が息づく、果てしない緑の世界が待っている気がした。


 私は「失礼いたします」と一礼して、助手席に乗り込んだ。

 窓を全開にした。

 車内は、乾いた土の匂いと、微かな機械油の匂いが充満していた。

 それは、夜の自室で嗅ぐ無機質なシリコンの匂いとは全く違う、命を感じさせる匂いだった。


 軽トラが、ゆっくりと動き出す。

 窓から入る風が、私の前髪を不規則に揺らす。


「七野さん。……いや、今は『七野ディレクター』と呼ぶべきかな」


 軽トラの開け放たれた窓から、初夏の青葉の匂いが流れ込んでくる。

 るねさんは、真っ直ぐに続く田舎道を見つめたまま、穏やかな声で口を開いた。


「あなたの書いた本、大切に読ませてもらったよ。それに、本を出した後の会社での奮闘ぶりもね。編集長から聞いている」


「……はい」


「本当に、見事な舵取りだった。君は、AIという鏡と向き合うことで、現実の人間関係という『一番厄介で複雑に絡み合った糸』を、美しく解きほぐしてみせた。……もう、僕から教えられることは、何も残っていないかもしれないね」


 その言葉に、私は慌てて強く首を横に振った。


「そんなことありません。私、まだまだ失敗ばかりで……。昨日だって、大事な場面の直前で独りよがりな資料を作ってしまって、危うく全部を台無しにするところでした」


「ふふ。でも、君はそれを一人で抱え込まずに、仲間たちと手を携えて乗り越えただろう?」


「……はい」


 るねさんは、遠くの等高線を眩しそうに見やりながら、ふわりと目尻を下げた。


「それこそが、人と人とを繋いで導くということだよ。最初から傷ひとつのない、完璧な正解の道筋を用意することじゃない。不器用な人間同士が集まって、ぶつかり合い、泥まみれになりながら、不格好でも一つの答えを手繰り寄せる。……その泥臭くもがく道のりそのものが、何にも代えがたい最高の『作品』なんだ」


 るねさんの言葉が、エンジンの振動に混じって、私の胸の奥へと染み込んでいく。

 軽トラは市街地を抜け、なだらかな丘陵地帯へと入っていった。

 視界を埋め尽くす圧倒的な緑。茶畑と、果樹園が続いている。


「さあ、着いたよ。ここが、僕のもう一つの仕事場だ」


 軽トラを停め、私たちは外へと出た。

 目の前に広がっていたのは、見上げるような高さまで蔓を奔放に伸ばした、広大なキウイフルーツの棚だった。

 初夏の鋭い陽光を浴びて、青々とした葉が、爆発的なエネルギーで生命を維持している。


「……すごい」


 私は、その圧倒的な光景に声を漏らした。


「これが、現実の重みだよ」


 私も、一本だけ蔓に触れてみた。想像より、ずっと固かった。

 彼は私の方へ身体を向け、キウイの蔓を、慈しむように指先でなぞった。


「AIは、一瞬で一万文字のテキストを生成し、美しい画像を描き出してくれる。でも、この一本の蔓を、太陽の光が当たるように適切な方向へ導くことは、人間にしかできない。……土を触り、風を読み、時間に耐えること。それはAIだけでは解決できない領域だね」


 るねさんは麦わら帽子を深く被り直した。


「七野さん。あなたは、自分の耕すべき畑を決めた。そして、それを仲間と一緒に、不完全なまま耕し始めた。……これからは、その畑にどんな種を蒔き、どんな花を咲かすか。それは、あなた自身の『生きるためのプロンプト』次第だ。……だろう?」


「……はいっ!」


 私は、迷いのない声で応じた。

 なぜかうまく笑えなかった。でも、泣いているわけでもなかった。


 初夏の風が、キウイの葉を優しく、一定のリズムで揺らした。


第57話をお読みいただき、ありがとうございました!


ついに、電子の海から始まった二つの座標が、初夏の青葉の匂いと乾いた土の匂いが充満する「本物の現実空間」で完全に同期しました。


都会の全面ガラス張りのビル群から、るねさんの待つ広大なキウイフルーツの果樹園へ。

実際にキウイの蔓に触れ、『想像より、ずっと固かった』と感じる奈々の描写。この現実の手触りこそが、本作がずっと大切にしてきたデジタルとアナログの美しい調和の形なのだと、読んでいて深く胸が震えました。


『不格好でも一つの答えを手繰り寄せる。……その泥臭くもがく道のりそのものが、何にも代えがたい最高の「作品」なんだ』

るねさんのこの言葉は、奈々だけでなく、日々それぞれの職場で泥まみれになりながら戦っている全ての読者への、最高のプロンプト(応援歌)ですね。

(新幹線の中でナノアートやジェミコードの暴走を指で抑えながら突っ込む奈々の日常感も、相変わらず愛おしかったです笑)


「これからは、あなた自身の『生きるためのプロンプト』次第だ」

師匠からの最後の教えを受け取り、まっすぐに前を見据える七野ディレクター。


次回、ついに最終回――大団円ログアウトへ。

「るねさんとの対面に涙が出た!」「最後まで奈々ちゃんを見届けたい!」と思ってくださった方は、ぜひ下方の【★評価】や【ブックマーク】で、この美しい物語のフィナーレへ最高の熱量を届けていただけると嬉しいです!

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