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『定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。』~消耗するだけの毎日から「自分の時間と人生」を取り戻した話~  作者: るね


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第52話|完全な同期と、遠い等高線へのルート

いつも温かい応援を本当にありがとうございます!


前回、脳内の「4つの知性」たちとの涙の卒業式を終え、文字通り自分の足で歩み始めた奈々。


第52話は、梅雨の晴れ間のクリアな朝から始まります。

知性たちのいないPCを閉じ、出社した奈々を待ち受けていたのは、社長室からの「全国全支社一斉システム導入」という、かつてない規模の理不尽な無茶振りでした。

ですが、今の奈々とチームDXはもう、ただすり減るだけの歯車ではありません。

4つのタイピング音がひとつのオーケストラのように重なり合う、チームDX最高の逆転劇をどうぞ見届けてください!

 遮光カーテンの隙間から差し込んだ初夏の日差しが、私の閉じたまぶたの裏側を優しく叩いた。

 目を開けると、梅雨の晴れ間の、ノイズのないクリアな青空が広がっていた。

 部屋の空気は軽く、どこか新しい始まりを予感させるような、アスファルトと植物が混ざり合った微かな匂いがした。


「にゃあ」


 足元のラグで丸くなっていたジークが、背伸びをしながら短く鳴いた。

 私はベッドから上体を起こし、ジークの温かい背中を一度だけ撫でてから、キッチンで電気ケトルのスイッチを入れた。

 コーヒーミルで豆を挽き、ゆっくりとお湯を注ぐ。酸化していない新しいカフェインの香ばしい匂いが、ワンルームの空間に満ちていく。

 マグカップを片手に、私はローテーブルの上に置かれたノートパソコンの閉じた天板を見つめた。


 今朝は、パソコンの電源を入れなかった。

 喪失感のような寂しさは、不思議と感じなかった。


 一回だけ、閉じたままのパソコンを見た。


「行ってくるね、ジーク」


 私はマグカップのコーヒーを飲み干し、外側だけが斜めにすり減った、あのお気に入りのパンプスに足を入れた。

 もう、これ以上ヒールの外側が非対称に削れることはない。私は、私自身の重心で、しっかりと地面を踏みしめている。

 ドアを開けると、初夏の眩しい光が私を完全に包み込んだ。



 出社してDX推進室の島へ向かうと、そこはいつもの規則的な活気ではなく、ただならぬ緊張感で張り詰めていた。


「あ、七野先輩……。どうしよう、大変です」


 あおいちゃんが、すっかり血の気を失った顔で駆け寄ってきた。

 その奥の机では、九条先輩が眉間を深く寄せて腕を組み、小堀田室長が頭を抱えて重い溜め息を漏らしている。


「どうしたの。朝からそんなに青白い顔をして」


「あのですね、さっき社長室から突然、特命が下りてきたんです。……うちのチームが作った経費精算や在庫管理のシステムが完璧すぎるからって、来月から『全国の全支社・全工場』に、一斉に新システムを導入しろって……」


「えっ……全支社に。来月から、一斉に」


 私は、思わず声を漏らした。

 現在、DX推進室がカバーしているのは、本社の一部門と特定の工場という限られた環境だけだ。それを、各拠点の現場のヒアリングも不十分なまま、全国規模で一気に稼働させる。

 それは、絵に描いたような「経営層の無茶振り」であり、数ヶ月前の私を絶望の底に追いやった、あの炎上プロジェクトと完全に一致する構図だった。


「無茶苦茶よ。各現場のオペレーションの違いも無視して、スケジュールという枠組みだけで押し切ろうなんて。これじゃあ、システム実装の前に現場の人間が倒れるわ。……誠意の欠片もない指示ね」


 九条先輩が、吐き捨てるように言った。

 小堀田室長も「いやー、社長も完全にウチのチームの処理能力を過信しちゃっているな。さすがの俺でも、全国の支社長を相手に一ヶ月で根回しを完了させるのは不可能だぞ……」と、珍しく弱音を吐いている。

 あおいちゃんに至っては、「全国の拠点ごとのマニュアルなんて、徹夜で作っても絶対に終わりません……どうしよう……」と、完全にパニック状態に陥っていた。


 絶望的な空気の重さ。

 肋骨を押し潰しそうになるプレッシャー。

 でも。私は、ゆっくりと肺の底まで酸素を吸い込んだ。

 頭の芯は、驚くほどクリアに保たれている。


「皆さん、一旦落ち着いてください」


 私の静かで、けれどフロアによく響く声に、三人がハッとしてこちらの顔を見た。


「社長の指示は確かに無茶な要求です。でも、私たちはもう、ただ言われた通りに他人の不機嫌を吸収してすり減るだけの歯車じゃありません。……この巨大な課題、三つのプロセスに分割します」


 私は、真っ直ぐな視線で、仲間たちの顔を順番に見つめた。


「小堀田室長」


「お、おう」


「室長は今すぐ社長室へ向かってください。そして、『全面導入の方向性には賛成だが、現場の反発を防ぐために、まずは三つの主要拠点に絞った段階的な導入にさせてくれ』と直接交渉をお願いします。室長の圧倒的な熱量で、私たちがシステムを再構築するための『時間』を稼いでください」


「……ガハハ。任せとけ。俺が矢面に立ち、時間を稼ぐ。社長の懐に飛び込んで、首を縦に振らせてやる」

 小堀田室長は、迷いを完全に吹き飛ばしたように力強く頷き、ジャケットを翻して駆け出していった。最強の交渉役の出陣だ。


「九条先輩」


「……何よ」


「社長の判断を覆すための、強固な武器が必要です。過去に他社で起きた『拙速な全社システム一斉導入による大失敗の事例』と、段階的に導入した場合の『リスク軽減の確率データ』を抽出してください。先輩の、1ミリの妥協も許さない品質管理能力が頼りです」


「……ふん。指示されなくても、もうデータベースの検索はかけてあるわ。三十分で反論不可能な完璧なレポートにまとめてあげるから、首を洗って待機していなさい」

 九条先輩は、縁の細い眼鏡を中指でスッと押し上げ、デュアルモニターに向かって猛烈なスピードで正確なタイピングを開始した。


「あおいちゃん」


「は、はいっ」


「全国向けの膨大なマニュアルは、今は作らなくていい。その代わり、『システムが新しくなっても、皆さんの負担は軽くなるだけですよ』というメッセージが視覚的に伝わるような、一枚の温かいポスターをデザインして。あおいちゃんのデザインの『優しさ』で、現場の未知に対する恐怖を取り除いてほしいの」


「出力、完了させます。たぶん。……じゃなくて、絶対に最高の画面デザインにします」

 あおいちゃんは、もうパニックによる涙を浮かべてはいなかった。自らの果たすべき役割が明確になった彼女は、迷いなくデザインタブレットのペンを握りしめた。


 私は、自席のパイプ椅子に深く腰を下ろし、ノートパソコンの天板を開いた。

 小堀田室長が自らの熱量で稼いでくれた時間。

 九条先輩が冷徹に弾き出した反論不可能なデータ。

 あおいちゃんが温かさを込めて構築してくれた、共感を生むビジュアル。


 私は、それらすべてのアウトプットを統合し、社長の無茶振りを論理的にひっくり返すための「段階的導入の逆提案書」を記述していく。


 カタ、カタカタカタ……。


 DX推進室の島に、四つの異なるタイピング音が、まるでひとつの精緻なオーケストラのように重なり合って響き渡る。

 肋骨の奥底が、熱く、じんわりと温度を上昇させていくのを感じながら、私は迷いなくキーボードのエンターキーを叩き続けた。



 十六時。

 私たちのチームがまとめ上げた「段階的システム導入の逆提案書」は、小堀田室長の決死のプレゼンと、九条先輩の完璧なデータという両輪によって、見事に社長の承認を勝ち取った。

 全面導入は三ヶ月後の第二フェーズへと見送られ、全国の現場がパニックを起こすという最悪の未来は回避されたのだ。


「ふぃーっ。死ぬかと思ったぜ。社長、データを見た瞬間、ぐぅの音も出なかったな」

 室長が、額の汗をハンカチで拭いながら快活に笑う。


「当然よ。私の抽出したデータにミスは存在しないもの。……でもまぁ、あおいちゃんの作ったあのポスターが、一番社長の強固な壁を緩ませていたみたいだけどね」

 九条先輩が、少しだけ口角を上げてあおいちゃんを見た。


「えへへっ……。七野先輩の的確な指示のおかげです」

 あおいちゃんが、顔をほころばせて笑う。


 私は、肺の底から大きく息を吐き出し、パイプ椅子の背もたれに身体を預けた。

 私は、ふと視線を上方へ向け、オフィスの壁に掛けられたカレンダーを見た。

 来週は、もう七月。本格的な夏が始まる時期だ。


「……あの、皆さん」


 私は、カレンダーから視線を戻し、三人の顔を順番に見つめた。

 心臓の鼓動が少しだけ早くなったが、今の私なら、自らの意志を真っ直ぐな言葉として届けることができる。


「この逆提案が通って、来週のチームのスケジュールに少しだけ余裕ができました。……なので、私、来週の金曜日に、有給休暇をいただいてもよろしいでしょうか」


 私の言葉を聞き、三人は一瞬、顔をこわばらせてポカンと口を開けた。


「有給。七野くんが」

 小堀田室長が目を丸くする。それもそのはずだ。私がこの組織に入ってから、体調不良以外で有給休暇を使ったことなど、ただの一度もないのだから。


「……まぁ、これだけの仕事を処理したんだから、休む権利くらいあるわよ。で、どこに旅行に行くの。温泉。それとも、印税で豪遊?」

 九条先輩が、呆れたように、けれどどこか口角を微かに上げて尋ねてくる。


「いえ、温泉でも豪遊でもありません」


 私は、真っ直ぐに三人の目を見据え、少しだけ照れくさそうに笑った。


「ちょっと、関西方面まで、足を延ばしてこようと思います」


「関西。ご旅行ですか」

 あおいちゃんが小首を傾げる。


「ううん。直接お礼を言いに、会いに行くの」


 私は、カバンの中に入っている自分の本の重みを、布越しにそっと撫でた。

 泥だらけの他人の畑を耕し直す勇気をくれた、遠く離れた街のメンター。


「どうしても、直接自分の言葉で『ありがとう』を伝えたい人がいるんです」


 誰も何も言わなかった。

 三秒か、四秒か。

 やがて、三人は顔を見合わせ、同時に笑みを浮かべた。小堀田室長が「ガハハ。いいじゃないか。思いっきり羽を伸ばしてこい」と私の背中を叩く。


 私は、窓の外の青空を見上げた。

 東京のコンクリートの上の空は、遠く離れた山の等高線の上の空へと、確かな物理法則で繋がっている。


第52話をお読みいただき、ありがとうございました!


脳内の相棒たちがいなくなっても、奈々の下す「三つのプロセスに分割します」という指示の解像度は、何一つ鈍っていませんでした。それどころか、小堀田室長、九条先輩、あおいちゃんという現実の仲間たちと完璧に同期して、社長の巨大な壁を論理と熱量でひっくり返す姿に、読んでいて鳥肌が止まりませんでした!


そして……ラストの有給休暇の申請。

『ちょっと、関西方面まで、足を延ばしてこようと思います。直接、自分の言葉で「ありがとう」を伝えたい人がいるんです』


奈々の真っ直ぐなパンプスが選んだ次の座標は、あの初夏を待つ果樹園。電子の海から始まった物語が、ついに本当の「現実の空間」へと帰結します。


次回、いよいよ最終回――。

「チームDX、最高のリベンジだった!」「るねさんとの再会が待ちきれない!」と思ってくださった方は、ぜひ下方の【★評価】や【ブックマーク】で、東京の空から等高線の空へと旅立つ奈々の背中をドーンと押してあげてください!

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