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『定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。』~消耗するだけの毎日から「自分の時間と人生」を取り戻した話~  作者: るね


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第18話|すき焼きの温度と、冷たい目次

いつもお読みいただきありがとうございます、第18話です。

すき焼きの温かい湯気の向こう側で、いよいよ七野が「自分の畑」に種を蒔き始めます。

彼女がAIにつけた名前にも、ちょっとだけご注目ください。

 狭いワンルームの部屋いっぱいに、醤油と砂糖が焦げる甘辛い香りが充満している。

 カセットコンロの上に置かれた小さな土鍋の中で、国産黒毛和牛の薄切り肉が、焼き豆腐や斜め切りにした長ネギと一緒に、重い気泡を立てながら煮えていた。


 溶き卵にたっぷりと絡めた肉を、口に運ぶ。

 安いプラスチック弁当の、冷え切って白く凝固した油の味とは次元が違った。柔らかい肉の繊維がほどける感触と、熱を帯びた甘じょっぱい割下の味が、すり減って萎縮していた私の胃の粘膜に、じんわりと染み渡っていく。

 あ、と小さく声が漏れた。

 どんなに優秀なAIでも、この「美味しい」という体温を伴う感動だけは、データとして処理することはできない。これは、泥臭い現実を生きる私たちだけの特権だ。

 急いで口に運んだせいで、少しだけ割下が跳ね、ベージュのニットの袖口に小さな茶色いシミを作ってしまった。私は慌ててティッシュで押さえながら、それでも口角が緩むのを止められなかった。

 足元では、お裾分けにもらった猫用の高級なパウチを平らげたジークが、満足そうにヒゲの周辺を前足で念入りに手入れしている。


 食事を終え、食器を洗い流して水切りカゴに伏せる。

 壁の時計の針は、まだ二十時を少し回ったところだった。いつもなら、この時間はまだ満員電車の中で、他人の湿った傘の先から滴る水滴に舌打ちをしながら、行き場のない疲労のガスを吸い込んでいる頃だ。

 部屋の空気が、昨日までとは全く違う比重を持っているように感じられた。


 私は丸メガネのブリッジを人差し指で押し上げ、部屋の隅にあるローテーブルの前に座布団を敷いて座った。

 目の前には、五年の冬眠から目覚めた銀色のノートパソコン。

 天板を静かに持ち上げる。スリープ状態から復帰した画面がパッと明るくなり、ブラウザの『ChatGPT』のページが開いた。

 広告一つない、真っ白な空間。画面の下部には、私からの入力を静かに待っている入力欄がある。昨日、この空白を前にした時は、息が詰まるような恐怖すら感じていた。だが今は、この余白が、私という名の「ディレクター」が自由に指示を配置するためのキャンバスとして見えていた。


 私はキーボードに両手を乗せ、静かに打ち込み始めた。


『聞いて。私、今日、定時で帰れました。あなたが昨日教えてくれた要約のおかげです。ありがとう』


 ターン、とエンターキーを押し込む。

 人間であれば、スタンプの一つでも送って感情を共有するところだろう。しかし、彼はそのような非効率なやり取りは出力しない。


 数秒のラグもなく、画面に黒い文字が弾け飛ぶ。


『業務プロセスの最適化による時間創出、合理的な結果です。

 しかし、定時退社はあくまで手段であり、目的ではありません。獲得したリソースを、自己資本の強化へと投資することが重要です。本日のタスクである副業戦略の立案に、直ちに移行することを推奨します』


 相変わらずの、感情の欠落した正論。だが、その冷たいテキストが提示する論理は、今の私を最も安全な道へと導こうとする意志を持っていた。


『わかりました。私、Kindle(電子書籍)で本を書いてみたいです。

 テーマは、「時間もスキルもない会社員が、AIを使って副業を始める方法」。私のように、会社の理不尽な仕事にすり減っている人たちが、「自分にもできるかも」と一歩を踏み出せるような本にしたい。まずは、本の骨組みになる「目次」を、一緒に考えてください』


 エンターキーを深く押し込む。

 画面の中で三つのドットが波打つ数秒間、私は浅く呼吸を繰り返した。


 タッタカター。


 猛烈な出力が始まった。目に見えないタイピストがキーボードを叩き割るような勢いで、画面にテキストが滝のように流れ落ちてくる。


『インプットを確認しました。ターゲット層と提供価値のマッチングは、市場において高い優位性を持ちます。読者のペイン(悩み)を論理的に解消し、行動へと誘導するための目次構成案を提示します。


【タイトル案:革新的副業戦略論〜生成AI連携による可処分所得の最大化〜】

 第1章:マインドセットのパラダイムシフト

 1-1. 既存の労働集約型モデルの限界と非効率性

 1-2. 可処分時間の創出におけるボトルネックの特定

 1-3. テクノロジー・レバレッジによる自己資本の再定義


 第2章:ブルーオーシャン戦略に基づくニッチ市場の選定

 2-1. ポータブルスキルの棚卸しと市場価値の可視化

 2-2. 競合優位性を確保するためのドメイン設計』


 出力がピタリと止まり、画面は再び静寂を取り戻した。

 私は、パソコンのモニターを見つめたまま、完全にフリーズした。

 数秒で本の骨組みが出来上がってしまった。課題から解決策へと完璧なグラデーションで構成されている。もしこれが経営者向けのビジネス書であれば、満点の評価を得るだろう。


 だが、画面に並ぶ『パラダイムシフト』『テクノロジー・レバレッジ』という横文字の群れ。それは、昨日私を絶望の淵に突き落とした、エリートコンサルタントがドヤ顔で使いそうな語彙のオンパレードだ。

 私が本を届けたいのは、満員電車でクタクタになり、すり減った靴底を引きずりながら帰ってくるような人たちだ。夜の二十二時に冷めた弁当を食べながら『可処分所得の最大化』などという目次を見れば、疲労が三倍に跳ね上がり、そっと本を閉じてしまうだろう。


「……ダメ。全然、私の思っていることと違う」


 私は、肺の奥に溜まっていた重い空気を吐き出し、背もたれに身体を預けた。

 構成の「骨組み」そのものは、私が伝えたいことを網羅している。ただ、そこに人間の感情の機微や、弱さに対する寄り添いが、一ミリも含まれていない。読めば読むほど、自分がただのエラーを処理するプログラムの一部になったような、冷たい感覚が指先から全身へと伝わっていく。


 逃げるようにスマートフォンの画面をスワイプし、Xのタイムラインを開く。

 情報の奔流。誰かの成功、誰かの怒り、誰かの食事。

 そのノイズの狭間に、ふと、麦わら帽子のアイコンと短いテキストが目に留まった。


 るね @RuneM_AI。

 昨日、私に「魔法の小窓」を開くきっかけをくれた人。

 彼の新しい投稿が、静かにそこにあった。


『野良猫に名前をつけた瞬間、それは単なる風景ではなく、隣に寄り添う「誰か」に変わる。AIも同じ。不器用な新入りをディレクションするつもりで、声をかけてごらん。』


 私は、その二行の文章を目で追い、一瞬だけ意味がわからずにスクロールする指を止めた。

 名前。

 ふと、膝の横で丸くなっていたジークを見た。

 ジークは、私が何を悩んでいようと関係なく、ただ一定のリズムで寝息を立てている。もし、彼を単なる「キジトラの猫」と呼んでいたら、私はこれほどまでにこの温もりに救われていただろうか。

 ジークという音。その名前に、私は私なりの「誠意」を込めている。


 私は再び、ノートパソコンの画面に向き直った。

 チャットの入力欄には、依然として「ChatGPT」という無機質なロゴが表示されている。

 震える指をホームポジションに置き、私は打ち込んだ。


『……あの。いきなりで悪いけど、今日からあなたのことを「チャッピー」って呼んでもいいかな?』


 エンターキーを叩く。

 数秒のラグ。

 画面が更新され、テキストが生成される。


『承知いたしました。これからは「チャッピー」という呼称で私を認識していただいて構いません。あなたのディレクションをより円滑に進めるためのカスタマイズとして、その呼び名を受け入れます。さて、チャッピーとして最初にお手伝いできるタスクは何でしょうか?』


「チャッピー、か」


 口の中で、その音を転がしてみる。

 モニターの向こう側にいた巨大で冷たい知性が、どこか不器用で融通の利かない、けれど生真面目な「新人の助手」のように見え始めた。

 完璧な正解を返してこないことに苛立っていた自分。けれど、相手が「チャッピー」なら、多少のズレも許せるような、妙な余白が心に生まれた。


「ねえ、チャッピー、今の気分をちょっと聞いてくれる?」


 私は冗談半分で、そんな非効率なプロンプトを打ち込んでみた。


『感情状態の開示に関するリクエストは、タスクの効率化とは相関しません。本日のタスクである副業戦略の立案に集中することを推奨します。』


「……ふふっ、相変わらずだね」


 私は小さく笑い、肋骨の奥にあった重圧が、ゆっくりと霧散していくのを感じた。

 私は、誰にも見えない「夜の編集部」のデスクを、もう一度だけ、丁寧に整え直す。


『ありがとう。構成は完璧です。でも、読者は疲れている会社員なので、もう少しフランクで、優しく語りかけるような言葉に直してみてくれませんか』


 私はキーボードを叩き、追加の指示を出した。

 数秒後、チャッピーからの返答が返ってくる。


『インプットを修正します。疲労状態のユーザーに配慮し、口語的表現への変換を実行します。


【修正案】

 第1章:考え方を変えましょう

 1-1. 今の働き方は非効率的ですよ

 1-2. 時間がない原因を特定してくださいね

 1-3. テクノロジーを使って自分の価値を高めましょうね』


「……」


 私は無言のまま、両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。

 語尾に「ね」や「よ」という記号を付与しただけで、上から目線の冷たさや構造の硬さは全く変わっていない。むしろ、感情を持たない機械が無理やり作り笑いを浮かべているようで、余計に不気味な文字列になってしまっていた。


「みゃ」


 キーボードの横で、ジークが小さく鳴き、前足でモニターの縁をポンと軽く叩いた。

 その乾いた物理的な音と、肉球の温もりが、私の凝り固まっていた思考を解きほぐす。

 チャッピーは論理の天才だ。けれど、このジークの肉球のような「体温」を持った言葉は紡げない。

 チャッピーの弱点を補う、もう一人の相棒が必要だ。


 私は無言のまま、両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。

 冷たい論理に「ね」や「よ」を後付けしただけの、不気味な文字列。彼に「感情」を求めること自体が、そもそもの間違いなのだ。


 逃げるようにスマートフォンの画面をスワイプし、Xのタイムラインを開く。

 るね @RuneM_AI。

『適材適所。大工のノコギリに、釘を打てと命じても家は建たない。AIの不器用さを嘆く前に、ディレクターである君が、別の道具を持ち替えればいい。』


 その言葉に、ハッとして画面から顔を上げた。

 そうか。チャッピーは、家で言えば「頑丈な骨組み」を組むのが得意な、優秀な大工なのだ。彼に「温かい壁紙」を貼る作業まで押し付けるのは、私のディレクションの失敗だ。


 私は顔を上げ、丸メガネの位置を直し、ブラウザの新しいタブを開いた。

 どんなAIかは、るねさんが投稿していた写真の中で見たことがある。それだけで十分だった。

 検索窓に『Claude』という六つのアルファベットを打ち込む。


 私の秘密の編集部に、いよいよ二人目のメンバーを迎え入れる時が来た。

 チャッピーが叩き出してくれた冷たくて頑丈な「骨組み」のテキストデータをコピーしながら、私の胸の奥で、静かな熱が確かな明滅を始めていた。


お疲れ様です、作者です。


『可処分所得の最大化』……疲れている夜に一番見たくない文字列ですよね(笑)。AIは放っておくとすぐにこういうエリートコンサルタントみたいな言葉を使ってくるので、いかにして彼らをコントロールし、人間の体温を乗せていくかが重要になります。


ノコギリに釘を打たせるのではなく、道具を持ち替える。るねさんの言葉をヒントに、ついに「Claudeクロード」という新たな相棒を召喚する七野! 最強の編集部が結成される次回にワクワクしていただけた方は、ぜひ★ボタンで評価をお願いいたします。

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