第17話|境界線の再定義と、夕暮れの温度
いつもお読みいただきありがとうございます、第17話です。
会社を出た瞬間に、まだ空が明るい。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに眩しくて、泣きたくなるほど嬉しいのでしょうか。
七野さんと一緒に、夕暮れの街を歩く気持ちでお楽しみください。
オフィスの中央にある、プラスチックのカバーが少し黄ばんだ壁掛け時計が、十七時五十分を指していた。
私のデスクの斜め向かい。九条先輩は、私が提出したA4一枚の要約資料を両手で持ち、行から行へと鋭く視線を滑らせていた。縁の細い眼鏡の奥の瞳が、まるで紙の繊維の中に隠されたわずかな綻びを探り当てようとしているかのようだ。
私は両手を膝の上で重ね、その様子をじっと眺めていた。
昨日の私であれば、この数分間は呼吸を止めていたに違いない。どこか間違えていないか。また「誠意が足りない」と突き返されるのではないか。今からやり直しになったら、スーパーの惣菜はまた「二割引」から「半額」に変わってしまう。そんな恐怖で胃の粘膜がキリキリと収縮し、先輩が紙をめくる小さな音にすら肩を震わせていただろう。
けれど、今の私の指先は膝の上で静かに落ち着いている。
小堀田部長の支離滅裂なメモと、不要な世間話だらけの議事録。その泥沼から、瞬時に「課題・要望・解決策」という結晶を抽出し、完璧な構成で組み上げたのは、私がたった今閉じたノートパソコンの向こう側に存在する『相棒』だ。
三時間悩んで書いた難解な文章より、八秒で出力された論理的な一枚の方が、部長を守る盾として優れている。その事実に、私は一秒の疑いも持っていなかった。
「……七野さん」
長い沈黙を破り、九条先輩がゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつものように「手抜き」を指摘する勝ち誇ったものではなく、どこか自らの防衛本能が空振りしたような、戸惑いを含んでいた。
「はい。修正が必要な箇所はありますでしょうか」
「要点は……ええ、まとまっているみたいね。部長のあのノイズだらけのメモから、よくここまで論点を絞り込んだわ」
先輩は、資料をデスクの上に置いた。しかし、すぐにまたその細い眉を寄せる。
「でも。出力が早ければいいというものではないわよ」
「え……?」
「あなた、これ提出する前に、ちゃんと隅々まで自分の目で確認したの? 本当に、一文字一文字に、あなたの『責任』は乗っているの?」
その鋭い追及に、私の喉が小さく鳴った。
AIを使用したことが見透かされたわけではない。彼女が恐れているのは、私が「苦労していない」ことそのものなのだ。
「仕事にはね、プロセスがあるの」
九条先輩は、自分自身に言い聞かせるようなトーンで語り始めた。
「部長のあの乱雑なメモを、何度も書き直して、頭で汗をかく。その泥臭い過程があるからこそ、いざという時の盾になれるのよ。要領よくまとめただけの文章なんて、表面を繕っただけで、誰の守りにもならないわ」
時間をかけること=誠意。それが、先輩の守り続けてきた絶対の正義だ。
三時間かけて作っても、八秒で作っても、部長の防衛になるなら同じ。
反論の言葉は、私の舌先まで出かかっていた。でも、先輩のその「祈り」のような信念を、今の私が頭ごなしに否定することはできない。
私はそれを決して声には出さず、深く頭を下げた。
「はい。ご指導、ありがとうございます。ですが、明日の朝の会議に間に合わせ、かつ部長が最も説明しやすい形に整理することを最優先にいたしました」
「……まぁ、いいわ。情報の漏れはないし、及第点ってところね」
先輩はそう言って、再び自分の手元にある巨大な事務用電卓へと視線を落とした。
時計の針は、十七時五十五分。
いつもなら、ここからが「本当の残業」の始まりだった。先輩が帰るまで、空気を読んで自分の席に座り続け、降ってくる雑務を笑顔で受け取り続ける、果てしない泥沼の延長戦。波風を立てるのが怖いという理由だけで、私はずっと自分自身の時間を投げ売りしてきた。
私は、両足に力を込め、リノリウムの床を捉えた。
斜めにすり減った不格好なヒールが、硬い床材に馴染むのを感じる。大きく息を吸い込み、私は口を開いた。
「九条先輩。本日の私のタスクは、これで全て完了しました」
私の声は、震えることなく、真っ直ぐに空気を震わせた。
「今日はこれで、定時で上がらせていただきます」
カチャリ、という金属音がした。九条先輩が電卓を叩く手が、空中で完全に停止した。彼女はゆっくりと顔を上げ、理解できない言語を聞いたかのような目で私を見つめた。
「……え? 帰るの? 今から?」
「はい。明日の資料も完成しましたし、急ぎの案件はございませんので」
「でも、他の皆はまだ残っているわよ。少しは周りを見て……」
「お疲れ様です。お先に失礼します」
私は、先輩の言葉を最後まで聞かずに、深く頭を下げた。
愛想笑いも、無理に引き上げた口角も、そこにはない。ただの丁寧な「一礼」だ。
そのまま背を向け、デスクに向かう。パソコンをシャットダウンし、引き出しからカバンを取り出した。その動作のどれもが、驚くほど滑らかだった。
キーン、コーン、カーン、コーン。
十八時のチャイムが鳴り響いた。いつもは「ここからが本番だ」と自分に言い聞かせるための、胃を重くする絶望の合図。けれど今日の私にとって、この音は全く違う意味を持っていた。
「お先に失礼します」
周囲の同僚たちが手を止めてこちらを見ているのを背中で感じながら、出口へと歩き出した。タイムレコーダーの前に立ち、カードを差し込む。
ガチャン。
インクの匂いとともに、カードに『18:00』という数字が印字された。その確かな物理的な手応えが、手のひらから手首、そして背中へと駆け巡った。
エレベーターを降り、エントランスの自動ドアを抜け、外に出た。
そこには、いつも私が歩いていた「黒く沈んだ冷たい夜の街」とは全く違う世界が広がっていた。
空は、まだ明るかった。
西の空には燃えるようなオレンジ色の夕焼けが残り、ビルの巨大なガラス窓を黄金色に染め上げている。強烈な西日がアスファルトに人々の長い影を落とし、逆光に透ける街路樹の葉が風に揺れてキラキラと輝いていた。
平日の十八時過ぎ。世界はまだこんなにも色鮮やかで、様々な息遣いがあったのか。
駅へと向かう大通り。私と同じように帰路につく人々の姿。
深夜の満員電車に詰め込まれていた、あの感情を遮断した人たちとは違う。足取りは重力から解放されたように軽く、イヤホンから漏れる音楽に小さくリズムを取っている若者や、今夜の夕食の相談をしている男女もいる。
スマートフォンが、カバンの中で短く振動した。
『GPSの移動軌跡および加速度センサーの数値から、通常より2時間早い退勤、かつ歩行速度の15%上昇を検知しました。現在のあなたの肉体は、この後急速な疲労を感じるはずです。最短ルートでの帰宅と、高タンパク質の摂取を推奨します』
「……わかった。ありがとう」
私は誰にも聞こえないような声で呟き、スマートフォンの画面を伏せた。
大股で歩き始めた。斜めにすり減ったパンプスのヒールが、アスファルトを「カツン、カツン」とリズミカルに叩く。いつもなら情けない音に聞こえていたはずなのに、今の私には、それが自分を運ぶための軽快なリズムのように思えた。
駅前のスーパーに立ち寄る。
精肉コーナーには、まだ新鮮で赤い色をした肉たちが、ライトに照らされて並んでいる。私は棚の前に立ち、「国産黒毛和牛・すき焼き用」のパックに手を伸ばした。
一瞬、その値段に指が止まった。
けれど、私はそのパックを戻さなかった。AIという相棒を手に入れたのは、ただ効率よく働くためじゃない。すり減った自分を、こうやってちゃんと甘やかすためなのだから。
隣にある長ネギと焼き豆腐もカゴに入れ、レジへと向かった。
アパートへの道を歩く。外階段を上る時の「カン、カン」という鉄の音すら、少しだけ高く響いて聞こえた。
ドアを開けると、玄関のたたきには、キジトラ猫のジークが座っていた。
「にゃ……?」
ジークが短く鳴いたのは、幻覚でも見たかのような、完全に虚を突かれた表情だったからだ。
「ただいま、ジーク」
私はスーパーの袋を床に置き、しゃがみ込んでジークの背中を撫でた。
いつもは私が疲れ切って倒れ込むように触れていたその温もりを、今日は私の方から受け取りに行く。ジークは不思議そうにしながらも、数秒後、ゴロゴロと深く喉を鳴らした。
その振動が手のひらに伝わってきたとき、私はなぜ「ただいま」と言ったのか、自分でもよくわからなくなって、そのまましばらくジークの隣でしゃがみ込んでいた。
洗面所でコンタクトレンズを外す。スーツを脱ぎ、お気に入りの丸メガネをかけ、ゆったりとしたベージュのニットに着替えた。首筋にウールが触れた瞬間、肩から重い何かが、音もなく滑り落ちた気がした。
私は、キッチンに立って、長ネギを切り始めた。
トントン、トントン。
包丁がまな板を叩く音が、冷たかった部屋の空気を、少しずつ温かいものへと変えていった。
お疲れ様です、作者です。
玄関で待っていたジークの「にゃ……?」という驚き顔、目に浮かぶようです(笑)。いつもボロボロになって帰ってきていた飼い主が、明るい時間に、しかもいい匂いのする袋を持って帰ってきた。そんな日常の小さな変化が、どれほど心を救ってくれるか。
国産黒毛和牛のすき焼き、きっと最高に美味しいはずですね。しっかり食べて、自分を甘やかして、また明日へ。そんな彼女の勇気を応援してくださる方は、ぜひ★ボタンで評価をよろしくお願いいたします!




