異世界のダンジョン
「……あなたの名前、決めないといけませんね」
志乃は、夜の静けさの中で口を開いた。
室内は照明を落とし、スタンドライトのわずかな明かりだけがテーブルを照らしている。
少女──元狼は、相変わらず整った正座姿勢で、志乃の問いに頷く。
「はい。私は、あなたに名を与えられるのを待っています」
どこまでも無表情なその返答に、志乃は少しだけ眉をひそめた。
「では……夜月という名前は、どうでしょう」
少女の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「あの高層ビルでの戦いは夜でしたし、月も出てましたからね」」
「……夜月」
少女は、一度だけ口の中で転がすように言った後、目を伏せる。
「気に入りました。ありがとうございます」
それだけの言葉が、妙に丁寧で──志乃は少しだけくすぐったくなった。
ふと時計を見ると、既に23時を回っていた。
朝のバイトの事も考えると、そろそろ寝ないといけない。
ベッドを見やる。
狭い、学生用のシングルサイズ。
本当なら、夜月には床で寝てもらうつもりだった。
けれど、いざその場面になると、言い出せなかった。
「風邪ひかれたら困りますし。いえ、狼だから風邪ひかないのでしょうか……」
ぶつぶつ言いながら、結局、端に寄って自分のスペースを狭める志乃。
「……ここで、いいですから。一緒に寝ましよう」
夜月は一言も文句を言わず、静かにベッドへと身体を滑り込ませた。
布団を挟んで並ぶふたり。
触れない。
けれど、距離が近い。
夜月はピクリとも動かず、まるで獣が潜むように静かだった。
毛布の下で、志乃は目を開けていた。
隣には夜月がいる。
温もりがすぐそばにあるのに、どうしても眠れない。
この世界の理は、ダンジョンの出現によって壊れかけている。
そんな感覚が、頭の奥に引っかかっていた。
「夜月」
「はい、志乃」
「……夜月は、ダンジョンのボスだったんですよね」
夜月の視線がこちらに向く。
じっと見つめてくる。
「じゃあ──そのダンジョンって、一体なんですか?」
志乃の問いに、夜月は少しだけ沈黙した。
やがて、囁くように答える。
「……私は、塔のダンジョンで生まれ、そこで育ちました」
その口調は、まるで夢を語るようだった。
「外のことは、あまり知りません。けれど、塔の外にも、同じような場所があって」
「そこには、それぞれボスがいて──皆、自分の縄張りを主張していました」
「私は、外に出ることに興味がありませんでした」
「塔の中が、すべてでしたので、それ以上のことはよくわかりません」
志乃は、ほんの少しだけ身体を寄せた。
夜月の呼吸の音が、肌の距離で感じられる。
「それって……今のこの世界とは、別の世界ってことですか?」
「おそらく」
夜月は、わずかにまぶたを閉じたまま続ける。
「あの日──私は、眠っていました」
「そして目を覚ましたとき、塔の構造が変わっていたのです」
志乃は眉をひそめる。
「構造?」
「はい。私のいた塔が、あの高層ビルの形状と……同化していたのです」
それはあの夜、志乃が探索したあのダンジョン。
「どうしてそんなことが?」
「理由は分かりません。しかし、私のいた場所は、明らかに今のこの世界とは異なる理で動いていました」
夜月の声は静かだった。だが、その奥には確かな断絶があった。
彼女の世界。志乃の世界。
それらが、ある日突然、重なり合った。
理由もなく、前触れもなく。
まるで誰かの意志で、引き合わされたかのように。
志乃は、夜月の腕にそっと触れる。
彼女の肌は、人の温かさを持っていた。
でもその心は、どこまでも異世界のままだ。
「じゃあ……夜月がこっちに来たのは、偶然ですか?」
「偶然か、必然か。それは、私では分かりません」
志乃は、そう……とつぶやいて、瞳を閉じた。
──そして、深夜。
静けさの中、夜月の瞳が開いた。
すぐに身体を起こし、天井をじっと見つめる。
目に見えない「何か」が、遠くで揺れている。
濃密な気配。
空間の裂け目。
音のない叫び。
夜月は音も立てず、隣の志乃に手を伸ばした。
「……志乃、起きてください」
その声は、眠りの淵にいた志乃の耳に確かに届いた。
「ん……なに……?」
「ダンジョンが、できました。私たちの狩場です」
夜の空気が、一変する。
まだ温もりの残る布団の中、志乃はゆっくりと目を開いた。
その横顔に、夜月の瞳が宿す、獣の光が映っていた。