第10話
お読みいただき、ありがとうございます。
今回の第10話で完結します。
「隊長が侯爵かぁ…」
「しかも国内最大領地の領主とは…」
「ジュリアのおかげだよなぁ」
隊員達が口々に言うのをアレックスは耳の端で聞く。確かに皆の言う通りだ。密輸組織の撲滅はジュリアの功績と言っていい。指揮を取ったのはアレックスだが、作戦はほとんどジュリアが考えた。
領地の管理についても、ジュリアは忙しいアレックスを手伝うと言ってくれた。ジュリアは公爵に領地管理について教えを乞い、公爵夫人には領主のそして爵位を持つ夫の妻としての在り方を学んだ。ひと月後には、実際にはほぼジュリアが領地の管理を行うようになっていた。
領地を得て初めてアレックスがジュリアを伴って自分の領地を訪れた際には、領民の歓迎を受けた。美しい若夫婦が国王から爵位を授かって領地管理する事を領民も期待を持って見守っているようだった。
ジュリアは王宮での軍の仕事をきっちりとこなしながら、領地管理も抜かりなく行なっていた。
「閉鎖した鉱山を掘る?」
アレックスが訝しんだ。ジュリアは突然、50年も前に閉山した鉱山を再び採掘してはどうかと言い出したのだ。正確には同じ山の別の場所を掘る提案だった。
リアストー伯爵領では、かつては良質の鉄鉱石が採れたのだが、50年ほど前に枯渇して閉山した。ジュリアが熱心に地質調査をしているのは気付いていたが、アレックスはジュリアを見つめて考えた。
「まあ、お前が言うなら構わないが…また鉄が採れるのか?」
ジュリアは微笑んで首を横に振る。
「鉄ではないものが出てくると?」
ジュリアが頷く。しばし黙考したアレックスだったが、ジュリアが少し首を傾げてねだるように見上げてくるものだがら、その可愛さに負けて頷いていた。
ジュリアは、旧アプトン伯爵領と旧リアストー伯爵領を何度も訪れていた。領主への地域の祭事への招待状が届く中で、アレックスは軍の仕事が忙しくほとんど出席できないが、代わりに出来るだけジュリアが代理で出席するようにしていた。また領地を回り、領民との交流も深めていた。
当然ジュリアの美しさは人目を引いた。時にはアレックスではなくジュリアへの出席依頼も届くようになっていた。どこでもジュリアは歓迎された。またジュリアは農業や工業への助言もしていた。最初は半信半疑だった領民たちも、ジュリアの助言どおりにすると、作物の収穫量が増えたり生産効率が上がったりしたから、ジュリアへの信頼感と尊敬は増した。
アレックスから採掘の許可を得て、ジュリアは自ら現場で指示をした。ジュリアが示す場所を鉱夫が掘り始めてほんの数日後、それは急に現れた。ジュリアは待機させていた職人に早速磨かせると、それを持ち帰った。
「…これは…本当にサファイアなのか?」
ジュリアが机の上で開いた小さな布包みの中には、キラキラした粒がいくつか入っていた。それはアレックスが見たことも無い宝石だった。サファイアと言っても青ではない。
ジュリアはメモに“ピンクサファイア”と書いてアレックスに見せた。
「…ピンクサファイア…」
ジュリアによるととても希少な宝石らしい。既に首都の学者にも見せ、確かにサファイアだとお墨付きをもらっていた。
アレックスはジュリアに感心していた。ジュリアが天才だとは知っていたが、宝石の鉱脈まで見つけるとは思ってもいなかった。
アレックスとジュリアは、産業化に向けて話し合った。
1か月後には、旧リアストー伯爵領で採掘されたピンクサファイアが首都の宝石商に持ち込まれた。それらはアクセサリーに加工されると王族や貴族の女性の羨望を集め、非常に希少で高価であるにも関わらず飛ぶように売れて常に品薄の状態となった。それはアレックスの策略でもあった。
アレックスはピンクサファイアが市場に出回る前から、良い石が採れるとそれを引き取ってアクセサリーに加工させ、ジュリアに身に付けさせていた。ただでさえ目立つジュリアが、見たこともない美しい宝石を身に付けていれば、それは話題を呼ぶ。アレックスはジュリアを広告塔にしたのだ。その甲斐あって、グランドトリプレット侯爵夫人が身に付けている宝石は販売前から大きな話題となり、誰もが欲しがっていた。
今日もジュリアはピンクサファイアのネックレスを身につけていた。それは淡い桜色から濃い鮮やかなピンクまで、いくつものピンクサファイアをグラデーションになる様にセッティングしたネックレスで、アレックスがジュリアのために作らせたものだ。ジュリアの白い肌の上でピンクサファイアは美しく輝く。
ライラがほぅとため息をついた。
「本当に綺麗だよね、ピンクサファイア。ジュリアが着けてると余計綺麗に見えちゃう」
ジュリアがニコニコと頭を下げる。
「あぁ。嬢ちゃんによく似合ってる」
ヒューゴも目を細めてジュリアを見ていた。
「ピンクサファイアもそうだけど、ジュリアと同じデザインのジュエリーが欲しいって言う子がすごく多いらしいよ。ジュリアは女の子たちの憧れの的なんだよ」
ライラが言うとジュリアが恥ずかしそうに微笑んだ。自分なんかのどこに憧れられるのかジュリアには皆目見当もつかないが、実際に宝石商からも「奥様と同じものを、というお客様が非常に多いのですよ」と聞いている。
「当たり前だろう。俺のジュリアは完璧だ」
アレックスがジュリアを背後から抱きしめる。
「はいはい。ごちそうさま」
ライラが苦笑している。アレックスのジュリアへの溺愛ぶりは目に余るほどだ。さすがに軍の詰所では抑えているつもりなのだろうが、アレックスは事あるごとにジュリアに触れたり抱き締めたりする。そのうちジュリアを膝の上に抱いて仕事をするのではないかという噂を否定できる要素は今のところ見当たらない。
恥ずかしそうにアレックスを振り返ったジュリアの唇に軽く口付けると、ジュリアは可愛らしく真っ赤になった。
平穏な日々が流れる中でその事件は起こった。
日が暮れてから、アレックスとジュリアが帰宅すると、いつものように公爵夫人が出迎える。
「ただいま戻りました、母上」
ジュリアもアレックスの隣で頭を下げる。
「お帰りなさい」
アレックスはジュリアの手を握っている。仲の睦まじさに公爵夫人が微笑んでいると、
「アレックス」
公爵が執事を伴って急ぎ足でやってきた。表情が険しい。何事かをアレックスに囁くと、アレックスの表情も緊張する。
「ジュリア、母上と一緒にいろ。城から出るな」
それだけ言うと公爵と共に玄関に向かった。
アレックス達が正門に着いた時には、既に10人以上の城の警備兵が集まっていた。アレックスに気づくと、正門の頑丈な格子の向こうの女が笑った。
「まあ!グランドトリプレット侯爵様ですわね!初めまして。ヴァイオレット・アプトンでございます」
アレックスは顔を顰めて女を観察した。女は着古して擦り切れたドレスを着ていた。明らかにメッキの安物と分かるアクセサリーを幾つも着けている。ジュリアより背が高い。ブロンドであろう髪はパサパサで薄汚れているが、不相応に高く結い上げていた。
「ヴァイオレット嬢はリアストー伯爵家に嫁いだのではなかったかな?」
アレックスの斜め後ろからやってきた公爵が、穏やかに問いかける。
「そちらはトリプレット公爵様ですわね!落ちぶれたリアストー家とは既に縁を切りましたわ。ご安心くださいませ」
アレックスは一言も発しない。
「それで、我が城に何の御用かな?」
一見穏やかな公爵の声に微かな怒りを感じ、アレックスは横目で父親を見る。その微笑みが怖い。
「手違いがございまして、謝罪にお伺いしたのでございます」
「…手違いとは?」
公爵もアレックスを横目で見る。
「グランドトリプレット侯爵様の妻となるべきは私でございました。手違いで妹のジュリアがこちらに紛れ込んでしまったのです。誠に申し訳ございませんでした」
「…ジュリア・アプトンはとっくに死んだと聞いている」
公爵が静かに言った。ヴァイオレットは、ほほっと笑う。
「そのような事になっておりましたか?それはともかく、私がグランドトリプレット侯爵夫人になりますから、どうぞこの門をお通しくださいませ」
一歩出ようとするアレックスを制し、公爵が進み出た。
「ヴァイオレット嬢、行き違いがあるようだ。うちのジュリアはピジェル家の娘でね、姉はいないのだよ」
「まぁ、公爵様。ご安心くださいませ。対外的には何とでも取り繕えますわ。ジュリアのような出来損ないより、私のほうが…」
「いま何と言った?」
やっと口を開いたアレックスの声はいつになく低い。だがヴァイオレットは気付かない。
「ジュリアは何ひとつまともに出来ない子です。私が褒められるのをいつも妬んでおりましたわ。あの子はどんなに努力しても私の足元にも到底及びま…」
「俺のジュリアを侮辱するな…」
アレックスが怒りに満ちている。腹の底から響くようなアレックスの声は、公爵が声をかけるのを躊躇う程の迫力だった。
ヴァイオレットが再び口を開こうとするより早く、アレックスが腰に下げた剣を抜いた。
「…俺の、ジュリアを、侮辱するな!」
生身の剣の鈍い光とアレックスの怒鳴り声に、周囲がしんと静まる。
「ジュリア!駄目よ!戻ってちょうだい!」
遠くから公爵夫人の声がした。アレックスが振り返ると美しく愛しい妻が駆けてきた。ジュリアは門扉の遥か手前で突然立ち止まった。門の外にいるのがヴァイオレットだと気づいたのだ。
「…嘘…でしょ…?…そんなはずないわ…あの子が…醜くて…何にも出来ないくせに…そんなはず…」
ヴァイオレットは驚愕していた。高価なドレスを纏い、見事なプラチナブロンドを輝かせ、流行のピンクサファイアのネックレスを身につけて立ち尽くしているのは絶世の美女だった。幼い日、自分の後を追いかけていた無能な妹と同一人物だとは思えなかったのだ。
「ジュリア、来るな!」
アレックスが叫び、抜身の剣を手に門の方へと足を向ける。が、公爵がそれを止めた。
「アレックス、レディの前だ。剣を納めなさい」
「公爵様!」
ヴァイオレットが嬉しそうに声を上げた。
「ジュリアの前で流血沙汰は起こすな」
公爵がアレックスの肩に手を置く。
「それに、斬る価値もない」
温厚な公爵には珍しく、半ば吐き捨てるようにヴァイオレットを見ながら言った。アレックスは父の顔を見て、剣を鞘に納めた。
公爵がヴァイオレットの背後に向かって頷くと、呼んでおいた役人がヴァイオレットを拘束した。
「何するのよ⁈私はグランドトリプレット侯爵夫人よ!無礼ね!触らないで!」
暴れるヴァイオレットにアレックスが追い討ちをかける。
「ヴァイオレット・リアストーは国外追放されたはずだ。それがまた国内に、しかも王宮のすぐ近くに舞い戻ったとなれば反逆罪が適用されるだろう。反逆罪は死刑だ」
ヴァイオレットは青ざめて震えだした。そして猛烈に抵抗した。
「離しなさい!私は侯爵夫人よ!あの子じゃない!私が相応しいのよ!あの子じゃないの!」
遠ざかっていく哀れな叫び声を聞きながら、公爵が呟いた。
「ジュリアに全然似てないな」
「ええ、全く」
アレックスも同意した。
アレックスは踵を返すと、立ち尽くすジュリアへ歩み寄り、抱き締めた。ジュリアは静かに涙を流していた。アレックスは無言でジュリアを強く抱いた。ジュリアはアレックスの胸の中でただ泣いた。
翌朝の朝食にはアレックスだけが現れた。
「ジュリアはまだ休んでいます。朝食は俺が部屋に運びます」
公爵夫妻は、ジュリアが休みだから寝坊しているなどとはもちろん思わなかった。昨晩のヴァイオレットの登場で、ジュリアはひどく動揺していた。彼女が姉に抱いている感情は複雑だ。姉への憧憬や敬愛はむしろ崇拝に近い。昨晩のヴァイオレットの姿は、ジュリアの記憶の中の姉とはかけ離れたものだっただろう。
「ジュリアは大丈夫?」
公爵夫人が心配そうにアレックスに尋ねた。
「ええ、たぶん。ひどく泣いていましたが…落ち着いたと思います」
「…そう。ならいいけれど…」
「あの子はそんなにヤワな子じゃないさ。大丈夫だよ」
公爵が妻を宥める。
「ええ、俺もそう思います。ジュリアは強いですよ、とても」
アレックスは願いを込めて言った。
ジュリアが目を開けたのは柔らかな朝の光の中だった。そしてうっすらと思い出す。アレックスが、
「休んでいろ。朝食は持ってきてやるから」
言いながら、頭を撫でてくれたのだ。
ジュリアは昨晩の事を思い出していた。4年ぶりに会ったヴァイオレットは、ジュリアの記憶の中のような輝きを失っていた。完璧な姉はそこにはいなかった。いるのは気狂いじみた戯言をほざき散らす、哀れに落ちぶれた見すぼらしい女だった。
ジュリアは、ジュリア・ピジェルとして、そしてジュリア・トリプレットとしての新たな人生を得てから、もはやヴァイオレットへの感情は捨て去ったつもりだった。もう何の関係もない他人だと。しかし実際にヴァイオレットを目にすると、涙が溢れてきたのだ。その涙の意味は自分でも分からなかった。ただ涙が止まらなかった。
アレックスは昨晩、ジュリアへの惜しみない愛情を注いでくれた。何度も好きだ、愛してると言いながら、ジュリアを抱き締めて決して離さなかった。
今のジュリアには、溺愛し宝物のように大切にしてくれる夫と、優しいトリプレット家の両親とピジェル家の両親、それに隊の仲間もいる。過去ではなく、今があった。今のジュリアには、たくさんの大切な人たちがいて、たくさんの人に大切にされていた。
アレックスが朝食を持って入ると、ジュリアがベッドの中で泣いていた。
「どうした⁈なぜ泣いてるんだ?」
アレックスが慌てて駆け寄ってジュリアを抱き締める。ジュリアはフルフルと首を横に振るとアレックスに微笑みかけた。ベッドサイドのメモとペンを手に取る。
“大丈夫です。幸せすぎて、嬉しくて泣いていただけです”
アレックスはホッとしてジュリアに口付けた。軽い口付けだけのつもりだったのに、それはすぐに深い口付けに変わり、結局ジュリアは夫が唇を解放してくれるまで朝食をお預けにされた。
それは、トリプレット公爵家とピジェル侯爵家が、ジュリアの懐妊のニュースに沸く少し前の出来事だった。
数年後。
若き国王軍総司令官は、暖かな日差しの中、庭で寛ぐ妻の姿を見つけて歩み寄る。だが、それを遮る者がいた。
「父上!」
「ちちうえー!」
サイズの違う2つの柔らかな弾丸が飛びついてきたのだ。アレックスは笑いながら2人の息子を両腕に抱き上げた。
「母上の言う事をよく聞いているか?」
「はい!」
「はーい!」
元気な声が耳元で響く。2人を抱えて妻に近づくと、ジュリアが口の前で人差し指を立てた。ゴソゴソし始めた息子たちを下ろすと、2人して庭を走っていく。
妻に視線を戻すと、ジュリアの腕の中で、幼い娘がスヤスヤと眠っていた。
アレックスは娘を起こさないようにそっとジュリアの隣に腰を下ろすと、ジュリアに口付ける。
「具合はどうだ?」
ジュリアは微笑んで頷いた。順調なのだろう。アレックスはまだ膨らみのわからないジュリアのお腹に手を当てる。ジュリアの中には、アレックスの4人目の子どもが宿っていた。
オーリーとヒューゴに、4人目の子どもが出来たと知らせると「ジュリアに一体何人産ませる気だ?」と訊かれたから、大真面目な顔で「10人」と答えたら呆れられた。
アレックスはジュリアを抱き締めると、また口付けた。今度は深く激しい口付けだった。
「ああー!また父上と母上がチューしてるー!!」
「してるー!!」
駆け戻ってきた息子達が囃し立てるがアレックスは気にしない。
「そうだ。父上は母上を誰よりも愛してるからな」
アレックスはジュリアに何度も口付けた。
「ジュリア、愛してる。お前はずっと、俺のものだからな。永遠に離さない」
ジュリアは嬉しそうに微笑んで、愛する夫の口付けを受け続けた。
若き領主は国王軍のエリートで、国内最大の領地を見事に治める侯爵。その妻は天才的な頭脳を持ち、領民に絶大な人気を誇る絶世の美女。
2人は仲睦まじく、多くの子宝に恵まれて穏やかに幸せに暮らした。
拙文をお読みいただき、誠にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。