05.旅の目的
〝慎太郎!〟
マナが大きく手を振って駆け寄ってきた。その姿は日差しを受けて輝いている。わずかな吐息や香りまで敏感に感じ取れるほど近くで、マナは慎太郎を覗き込むようにして見上げた。慎太郎は首を前へ傾け、そんなマナを愛しげに見つめていた。
たわいもない会話に頬を染め、楽しそうにしている二人。
こんな、それほど遠くない過去を夢見て、慎太郎は目を覚ました。現実からかき消される幸福に胸を傷め、見つめるのは宿の天井だ。旅を始めてから一ヶ月。マナはもう嫁いだ頃だ。
奪い返しに行かないのかと問う者もあるだろう。もちろん互いに不本意ならばそれもした。だが得心がいっていないのは慎太郎だけである。「マナも柴門も望んだ未来」という事実があるかぎり、その行為は醜態でしかない。わかっていて都を出てきたというのに、いまだ面影を求めて夢に見るのは未練だ。
慎太郎は目尻の涙を拭い、身を起こした。うっすらと朝日が差す丸窓を眺め、寝息を立てている五人を見やる。そうして、習慣づいた稽古をやりたい時刻だが、もう生活環境が違うのだと自身に言い聞かせながら、ぼちぼち布団を上げた。
寝泊まりしている部屋は十畳間だ。中央に布団が五組、きれいに並んでいる。真ん中に紫苑。両脇に菊と菜々。さらに両脇に佐兵と実之という具合だ。慎太郎は少し離れて襖近くに布団を敷き、寝ていた。用心棒として出入口を守る役目があるからだ。
朝食までには間がある。慎太郎は刀をたずさえて襖に向かい、あぐらをかいた。
菜々は、そっと目を開けた。誰か起き出して布団など上げる気配を感じたからだ。すぐそばでは紫苑も薄目を開けている。音が気になったのだろう。菜々は少し頭を起こし、襖のほうを見やった。
刀を抱き、広い背を向けて座っている一人の男——新しい旅の伴の忠義な姿に菜々は一瞬、目を細めた。そして布団越しに紫苑の手を取り、手の平に文字を書いて状況を知らせた。すると紫苑はほんのりと笑顔を浮かべた。
***
紫苑たちの旅は変わっている。日中は宿でのんびりとし、申の二刻(午後三時半から四時)より出立の準備にかかる。足は遅い。亥の三刻(午後十時から十時半)まで随所で休憩しながら歩き、子の刻より卯の刻(午後十一時から午前七時)までを睡眠時間としている。宿がない時の睡眠時間は紫苑を除き半々で交代制だ。
紫苑が目立つという理由からだけではない。各所の風に吹かれ、音を聞くための旅ということが、自然と行動をゆるやかにしている。まるで俗世からかけ離れた集団だ。
しかしそんな感覚にも慣れはじめた慎太郎がいた。はじめのころは不思議に思うこともあったが、気にしても結局は関係のないことだと気づくと、考えるのもおっくうになった。
四人の伴をつけているうえに用心棒まで雇い、無理なく旅を続けようとする紫苑。その背後に莫大な富が潜んでいることは明らかだが、すべては対岸の出来事である。
が、いくら金を積んでも、無関心でいても、時には計画どおりにいかず無視できないこともある。思わぬ雷雨などに見舞われれば足止めもくらうし、夜間が危険な道は日中に歩くこともある。そんな時は一丸となって難をくぐり抜けなければならない。
昨夜は記録的な豪雨に見舞われた。一日経ったが、ぬかるむ道が多い。目の見えない紫苑を誘導しながら進むのは難儀だろうと思われた。
「土が乾くのを待ちますか」
佐兵の言葉に、紫苑は残念そうな顔をした。
「この先の峠には珍しい百合が咲いていると聞きました。待っているあいだに枯れてしまわないといいのですが」
「数日では枯れないでしょうが……峠までとなると、厳しいですな」
紫苑がしょんぼりすると、本当のことを言ってしまった佐兵を、菊と菜々と実之とがきつい目で睨んだ。この無言のやりとりを見て、慎太郎は苦笑した。
仲の良い者たちだ。しかしそんな仲間内でも、紫苑を悲しませる者は許されない。信頼があるからこそ、愛情があるからこそ、生まれる厳しさ。そういうものを彼らが持っていることは慎太郎から見て羨ましく、中心にいる紫苑は眩しかった。
しかたないな。
慎太郎は思うなり、ひょいと紫苑を抱き上げた。
「きゃあ」
と一瞬、紫苑が声を上げ、佐兵らは仰天した。
慎太郎はそのまま、ぬかるむ道をためらうことなく突き進む。そして自分が呆れられていることを承知で、数歩行ったあと軽く振り返った。
「どうした? 早く行こう」
慎太郎に抱き上げられたのだと知った紫苑は顔を朱に染め、声をかけられた四人は慌てた。
「まったく驚いちまったよ! 急になんだい? そういうこと頼めるなら、はじめに言っといておくれよ」
菊はケラケラ笑いながらいい、菜々は含みのある笑みを浮かべ、佐兵はホッと胸をなで下ろし、実之はお株を取られたような顔をした。
確かに実之でも紫苑を抱き上げられるだろう。だが、ぬかるんだ道をゆくなら、より安定感のある慎太郎のほうが適している。
慎太郎はまるで何も抱えていないように、泥道をさくさく歩いた。舌を巻くような軽快さである。
「なんと丈夫な足腰だ」
実之が感嘆の声をもらすと、
「よどみないな」
と、佐兵がひとこと呟いた。
***
「慎太郎殿は、はたしてどれほどの力量なのか……」
「そりゃ手合わせして確かめただろ?」
実之が言うのに菊が答えると、実之は腕組みして眉根を寄せた。
野宿を決めた原で焚き火を囲みながら、いま起きているのは実之、菊、佐兵である。
「国中の者と手合わせしたわけではない」
「はは。それはいくらなんでも無茶な話だ」
佐兵は笑うが、実之は本気だった。
「西の者を集めることならできる。東の都でも名の知れた剣士だ。戦わせてみたい」
「気持ちは分かるけどさあ。あたいたちの一存じゃ決められないよ」
「では姫様がうんと言えば良いのか?」
「正気かい?」
実之と菊と佐兵は、いっせいに紫苑を見た。安らかな寝顔だ。仲間を信頼しきっているその姿に癒される。だが紫苑を癒すのはおそらく、伴侶となる者だろう。
佐兵は視線を慎太郎へ向けた。若い獅子を連想させるような存在感のある男だ。顔立ちが整っているだけではなく、全体の均整も取れている。刀を振る時の安定感と力強さはそこから発揮されるのかと思いたくなるほどだ。
「紫苑様は気に入られているようだが」
佐兵が言うと、
「早いんじゃないのかい?」
と菊が返した。舌打ちしたのは実之だ。
「おぬしがいい男だなどとけしかけるからだ」
「ホントのことじゃないさ」
「なんでもかんでも正直に申告すれば良いというものではない」
「なんだい。ヤキモチかい? みっともないねえ」
「ぐっ……俺はただ、姫様を案じているだけだ」
「おやそうかい。まあいいさ。なんにしても、あたいたちの本来の目的を忘れないでおくれよ?」
実之は黙ってうつむいた。
慎太郎に期待しているのは、誰も同じだ。そのことを改めて認識すると、己の不甲斐なさに胸やけがした。




