04.都を去る者
「それでどうかしら? わたくし達と国を見て回る気はありませんか?」
紫苑は慎太郎から離れると、また元の位置にきちんと正座して言った。
「お金は用意してあります。あなたがいなくなれば道場も大変な損失でしょうから。もちろん、あなたへのお給料も毎日差し上げます」
なんの冗談かと、慎太郎は思わず笑ってしまった。純真な表情に似つかわしくない台詞が饒舌にもれるのも滑稽だった。練習して言わされているのは明らかである。
「それは、そちらの本心か」
「ええ」
「なぜ国を見て回る必要がある。目も……見えぬのに」
やや遠慮がちに、だがハッキリと尋ねる慎太郎に、紫苑は微笑んだ。
「暗闇にいるほうが、よく見えることもあります。それにお友達がわたくしの手となり足となり、目となってくれていますし——ですが世間は広うございます。いつなんどき、どのような強者が襲ってくるかも分かりません。慎太郎様のような方がいてくだされば、旅もより安全におこなうことができます」
「言葉を返すようだが、お友達の太刀筋はみな立派だったし、連携もよく取れている。大方の者は追い払えると思うが」
「ほほう? それが我らを赤子でもあしらうように負かした者の台詞なのか」
と横やりを入れたのは実之である。慎太郎は苦虫を噛み潰したような顔をして答えた。
「道場の型を破らなければ苦戦していた」
「おや、ずいぶん買ってくれるねえ? だけど、あんたのような剣士が現れたら万事休すさ。あたいらはねえ、どんなのが来ても絶対に間違いのない用心棒が欲しいのさ。紫苑はあたいらの命だ。完璧に守りたいのさ」
熱のこもった声で語る菊を、慎太郎は意外な気持ちで見やった。男関係にだらしなさそうな外見からは想像もつかないくらい真面目である。そういえば紫苑にかける言葉も本物の姉のように優しかったと、慎太郎は思い出してうなずいた。
「どうしてもと言うなら伴をしても構わない。だが道場に断る必要はない」
「……なぜです?」
「あの道場はもう俺などいらないのだ」
いなくなれば清々するだろう、と出かかった言葉を慎太郎はかろうじて飲み込んだ。
彼らの思いどおりになるのは癪だ。だが留まってもいられない。未練がましく道場に居座っていると噂されるのも嫌だが、尻尾を巻いて逃げたと陰口叩かれるのもつらい。残っても去ってもどうせ変わらないのなら、いっそ誰も知らないところへ行ってしまったほうがいい、と慎太郎は思った。
どこかで一角の者になれれば良いし、たとえ朽ちても落ちぶれた姿を見知った者たちに晒さないだけマシだ、と。
塔の陰が差すほど近いこの界隈でどうして生きて行けようか。見上げるたびにマナを思い出し奪った男を恨めば、心穏やかな日は一日とて得られまい。だからといって陰を踏みつければ、焼けつくような屈辱で焦げついてしまうだろう。
慎太郎は覚悟を決めて視線を上げ、紫苑の瞳を見つめた。すると彼女は不安そうに顔を曇らせていた。
「いらない、とはどういうことなのですか?」
「おぬし、何かやらかしたのか」
続けざまに実之が問いただす。引き抜こうとしている相手が破門される寸前と知ってはそれも仕方ないと、慎太郎は苦笑いした。
「俺は真面目に生きていた。だが……その真面目さが仇になったのかもしれん」
もう少し強引なら良かったのか。もう少し狡猾なら良かったのか。
慎太郎は自問してみるも、いまさら何が変わるわけではないと溜め息ついた。
マナは確かに、まっすぐな慎太郎を愛していたのだ。毎日あきもせず向けられる笑顔は、陰日向のない男を信頼していた。その父もまた——彼らを歪めてしまったのは欲だ。ささやかな幸福で足ることを知っていたはずなのに、思わぬ話に夢を見てしまったのだ。
慎太郎は静かにまぶたを閉じた。
「俺は百姓出で後ろ盾のないただの男だ。この腕以外、失って困るものはない。だから捨てられた。利用価値がないと判断されたのだ」
そしてゆっくりと目を開き、紫苑と、その周りを固める四人の男女を眺めやった。
「そんな男でも利用してやろうというなら、好きにするがいい」
***
慎太郎は結局、依頼主の素性など詳しく確かめもせずに旅支度を整えた。彼らが欲しいのは腕の立つ用心棒であり、給料も払ってくれるというのなら悪い話ではない。役に立つあいだは重宝してくれるだろうという想いだけだ。それこそ、だまし取られるような身分も財産もない者が、他人の出所を気にするのも妙な話だ、と。
夕刻。
慎太郎が改めて宿へ向かうと、玄関先に一行が待ち構えていた。紫苑は薄い布を巻いた市女笠を被っており、四人から守られるようにして立っている。異様に目立つ容姿のため、周囲から見られないよう配慮してあるのだ。これから日が暮れるというのに出立するのも、人目をさけるためである。
「では参りましょう」
合流すると紫苑が言い、一行は歩き出した。慎太郎も後に続いたが、五〜六歩行ったところで足を止め、ふと振り返ってみた。
誰にも何も言わずに出てきたが、ひょっとしたらマナが気づいて引き止めに来てくれないだろうかと、詮無いことを思った。マナは幸せになるだろう。親孝行をし、身分にも金にも不自由ない暮らしをするのだから。慎太郎を追いかけて無闇に不幸になることもない。
慎太郎は前を向いた。先を行く一行がかすんで見えるのは、女々しく別れを悲しんでいるからだ。
贅沢はできなかったが、一緒にいて互いに幸せだったはずだ。
と胸の内で、今はそばにいない者を相手に叱責してみる。その限りない虚しさに狂おしくなった。穢れなき少女はいつのまにか世間並みの考えを持つ女になっていて、少年だけが置いて行かれた。そんなことに気づいた時はもう手の届かないところにいて、目の前から消える道しか選べなくなっている。
変わらなかったことが罪なのか、変わっていくのが罪なのか。
慎太郎はままならぬ人の心に苛立ち、不条理に苦しんだ。が、いま結果として開かれた道に対しては、わずかばかり感謝した。
ここへは二度と戻らない。
慎太郎はそう決意して、新しい人生への一歩を踏み出したのである。
***
旅の発端というのは、視力をなくしつつあった紫苑たっての願いからだ。
と慎太郎に話したのは菜々だった。
おとなしめで地味な娘は口を開くと意外にサバサバとして男っぽい。薄化粧をしているが、好きでしているというよりは、やむなくしているというふうだった。先日も、
「少しは化粧気でもないと、地味な顔がよけい地味になる」
などと、自分を揶揄しながら笑っていた。
人間、多少は腹を割って話してみなければ分からないものだ。特に菊と菜々はその典型である。
何事にもいい加減で自堕落な印象の強い菊は、実は非常に面倒見がよくて几帳面だ。紫苑からも「姉さん」と呼ばれて親しまれている。料理はうまいし要領もいい。そして菜々は、肝心な場面で言うべきことをバシッと言えるたくましい娘である。普段が無口なだけに、効果は絶大だ。慎太郎は意外なことの連続に舌を巻きっぱなしだった。
その日、四時間ほど睡眠をとる目的で野宿していた場所は、山中の岩場である。今は紫苑と菊、実之と佐兵が熟睡中で、慎太郎と菜々が見張りをしている最中だ。
「お嬢様は、完全に目が見えなくなる前にできるだけ多くのものを見ておきたいとおっしゃいました」
菜々は言った。慎太郎は少し驚いた。
「生まれつきではないのか」
「はい。しかし失明なされてからも旅は続きました。場所によって変わる匂いや音を感じたいと……」
「わがままに付き合わされているのか?」
「そんな、まさか。お嬢様のお役に立てることがなによりの喜びですから、わがままだなどと思ったことは一度も」
「そうか」
慎太郎は軽くうなずいて、沈黙した。そこまで紫苑に惚れ込んでいる理由をあえて聞こうとは思わなかったのだ。これから行動をともにする四人が愛してやまない紫苑。その訳を知れば、自分も引き寄せられないとはかぎらない、と危惧するからだ。
深入りは厳禁である。すっかり家族のような気持ちでいる時に裏切られるのはもうゴメンだと、慎太郎は心を閉ざした。
しかし焚き火のそばで寝息を立てる美しい少女は、なぜか幸福そうにしている。慎太郎の顔かたちを確かめた時のような表情で、ほんのり頬をそめているのだ。
新しく用心棒を雇ったことで旅路が軽快になると思うと嬉しいのだろうか。
そんなことを考えた慎太郎だったが、なんとなく腑に落ちないところもあった。用心棒など腕っ節が強くて、そこそこに誠実ならいい。風貌など気にする必要はない。まして目が見えないのであれば、どうでもいいことだ。だが本題に入る前の紫苑は、そればかりを気にしている様子だった。
考えすぎか……
慎太郎は溜め息とともに目をそらした。
いつまでかは分からぬが、旅の終着地点は必ずある。それまでのことだ。それきりの縁だ。
そう何度も心の中で呟いた。




