39.因果応報
「しかし弱ったな」
「は?」
「聡馬に勝ち目がないとなると……」
さきほどまでの笑みはすっかり消してぼやく帝を、三宅と七伏は首をかしげつつ見やった。
「ご承知だったはずでは」
「いいや」
「ですが、聡馬殿にもそのようにおっしゃっていらしたそうではありませんか」
「そんなもの、けしかけるために決まっているだろう」
「えっ!? し、しかしっ、兵士を五百人斬りしたというのは事実なのでは」
驚いて声を上げたのは聡馬だ。挑発されたのは分かっていたが、勝ち目がないほど強いというのがハッタリとは思わなかったのだ。
「ああ、それはまあな」
「ではやはり」
「いや、そんなものは兵士が油断したり遠慮したりすれば、そういう結果になることもあるだろう」
「そうでしょうか」
「そうだとも。とにかく、策を練り直さねばいかん」
その言葉に、三宅が眉をひそめた。
「慎太郎殿から勝ちを取りたいのですか」
「いや、そんなことではない。取れるに越したことはないが、別に取れなくてもいい。問題は、紫苑がいるということ以外、ここに婿殿を魅了するものが何もないということだ」
「……は?」
「心をとらえて離さないもの、あらがえない運命があること、それらを杭にして婿殿の胸に打ち込まねばならん」
三宅は顔をしかめた。
「つまり?」
なかなか察せない三宅の様子に、帝は舌打ちした。
「わからないのか? 欲のない人間ほど扱いづらいものはない。それでも最低限持っているはずの欲をかき立ててやろうというのだ。そうして、己の剣を生かせるのはどこなのか、はっきりさせてやる。さすれば、しがらみも断ち切れよう」
三宅は唖然とした。
ようするに、慎太郎みずから京にあることを望むよう仕向けるというわけだ。
やっと納得した三宅を見て、帝は溜め息ついた。
「そのためには互角に渡り合える剣士が必要だ。特に東で名をあげた剣士がな」
帝に目を向けられて、聡馬は背筋を伸ばし、息をのんだ。重大なことを告げられる予感に縫い止められたのだ。
「次期宮廷長官が必要だったこともある。だがそれ以上に大切な役割がおぬしにはあるのだ。聡馬よ」
「は、はい」
「剣を極めんとするかぎり、この京より離れられないことを分からせるのだ。次の帝はヤツ以外にいない。失敗すればこの国はいずれ倒れる」
聡馬は青ざめた。それはあまりに重い責任だ。
「ですが、相当強いのでは」
その質問に、帝は即答できず三宅を見た。
「どうなんだ?」
三宅は唸った。
「ううむ。五十ほど打ち合えば勝敗を決してしまうかもしれませぬ。それ以上試合を長引かせようと思うなら、慎太郎殿に手加減してもらうことですな」
「そんなに強いか。いや、神懸かりと言えるくらい強いのは理解しているが……そんなに?」
「圧倒的に。聡馬殿が鬼になっても勝てるとは思えません」
帝はついに声をなくした。「婿殿に勝てる剣士がいるなら人ではない」とハッタリをかましたことが事実だったのだ。衝撃は筆舌につくしがたかった。
そこへおもむろに発言したのは、羅山である。
「塔の上から飛び降りたというのは?」
羅山はまだ、慎太郎が何者なのか把握していない。なにしろ駕籠の中からマナを見初めたときに、一瞥しただけである。面が良かったという印象以外に覚えていることはなかった。
「あれは事実なのですか?」
目線は七伏にあり、七伏はそれを佐兵へ流した。
「事実だろう?」
佐兵は目を泳がせた。
「はあ」
「本当に一番上の屋根から?」
羅山も佐兵へ視線を移して尋ねた。
「命綱くらいはつけていたのでしょう?」
佐兵はチラと羅山を見た。なんとなく感じていたことを、初めて言葉にして質問されたからだ。それは、塔から飛び降りたという話を聞く側の前提に、「命綱」があるということだ。
しかし、たとえ半分でも死ぬ高さである。どのような技を駆使しても重体は免れない。それを「身ひとつで飛び降りた」などと言ったところで信じる者がどこにいるだろうか……と佐兵は悩んだ。
とはいえ、是が非でも明白にしなければいけないことではない。命綱があると思いながらもみなが驚愕しているのは、それだけ塔が高く、飛び降りるには並々ならぬ勇気がいるからだ。
そこで佐兵は、小声で実継に相談した。
「真実を述べるべきでしょうか」
実継は嫌そうな顔をして、ひとつ咳をした。そして帝へ提案した。
「どうでしょう。塔と同じ高さのハシゴなどを用意し、その上から飛び降りさせてみれば……百聞は一見に如かずと申しますし」
帝は目元をしかめた。
「それはつまり、命綱などなかった、ということか?」
実継は、ただ黙って笑みを浮かべるにとどまった。彼も実際に見たわけではなく、実之が言うことを無条件で信じているにすぎなかったからだ。
***
さて、そのさなか——慎太郎が来て去り、塔の高さから飛び降りる云々のやりとりが終了するまでのあいだ。ひたすら焦点が合わず、会話など上の空で汗だくとなり、動悸の止まらない男がいた。保倉柴門である。
なぜ慎太郎が目の前にいるのか。帝の娘婿というのは本当なのか。あの聡馬を越える強さだというのは、でまかせではないのか。これは似て非なる人物ではないのか。
柴門は現実を受け入れられず、記憶にある慎太郎のみを回想して、いま起きていることを全否定しようと必死になった。だが帝の前に堂々と座っているのは誰がどう見てもあの慎太郎である。「道場を継ぐなら、塔の用心棒としても務めねばならない」と言ったとき、穢れのない眼差しで「存じ上げております」とすがすがしく答えた、その日のままの慎太郎なのである。
潔く引いてくれるなどと高をくくっていたが、結局、都を出ていってしまうくらい追いつめた。そのせいで身も心もボロボロになり、憎しみに心を歪ませ、形相さえ変わってしまったかも知れないと思っていた柴門には、信じられなかった。
慎太郎は変わらず、凛としている。自信に満ちた眼差しで、誰にも媚びず、嘲りもせず。
いっそ詰め寄り殴ってくれたなら、と柴門は思った。憎悪に煮えたぎる目で睨み、なじってくれば、ともに奈落の底へ落ちることができる。己一人が罪悪感にさいなまれ、恐怖におののき震えているのは理不尽だ、と。
しかし慎太郎は落ち着いた様子で帝に向かい、淡々と言葉を並べ、とうとう最後まで柴門のほうを見ることはなかった。
言い知れぬ敗北感が柴門を襲い、胸を押しつぶした。一瞬だけ、復讐のために現れたのかと考えたが、それは違うと否定した。慎太郎がそんな男ではないと知っているのは、ほかならぬ柴門だからだ。
陰日向なく暮らし、門弟を熱心に指導し、マナを愛し、柴門を父と慕い尊敬していた男は、顔に似合わず純真で、闘志を燃やすわりに殺生を好まなかった。時に門弟の嫉妬を買っていたが、動じることなく、その者にも分け隔てなく指導し、昇段を助けてやった。
慎太郎は、誠心誠意尽くして努力すれば、誰とでも分かり合えると信じていたのだ。そんなまっすぐな心だからこそ柴門も、マナを預けることに不安を抱かなかった。
にもかかわらず簡単に裏切れたのは、穢れなさに頼ったのか、優しさに甘えたのか。
柴門は自問してみたが、今となっては分からなかった。ただ欲に目がくらみ、良心に従って生きても損をするだけだと言う闇の声に耳を傾けた——それだけが、歴然たる事実だった。
その後、謁見の間を出て宮廷内の宿へ着き、あてがわれた部屋にこもった柴門は、力なく座り込んだ。そして押し寄せる後悔に溺れながら、涙をにじませ、額を畳にこすりつけた。
「……許してくれ。許してくれ、慎太郎」
破談にするときは、本気で頭など下げていなかった柴門だが、今度こそ心の底から許しを請うた。不誠実に働いて築かれる幸福などないと、思い知ったのだ。人に与えた苦痛は必ず返る。それらは人から人の手を渡り、どんなに時をかけても元へ戻って、勝手に復讐を果たすのだと。




