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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第二部
30/47

30.求められる心

 翌日。

 実之は一人、帝と向かい合った。帝は失望まじりの溜め息をつき、手元の扇子を閉じた。

「どういう結果になったのだ」

 実之は硬い表情で目を伏せた。

「西へ帰らせてくれと言われました」

「臆したか。それとも突然ふってわいた名誉に欲でも絡んだか?」

「そうであれば、良かったかもしれません」

「なんだと?」

 眉をひそめる帝に対し、実之はまぶたを上げ、皮肉げに口元をゆがめた。

「慎太郎殿は、時間が欲しいのです」

「時間? なんのための時間だ」

「鍵崎羅山を——許せる心境に至るまでの時間です」

 帝は首をかしげた。むろん、まるっきり想定していない相手の名が出てきたからだ。

「……どういうことだ?」

 それを当然と思いながら、実之は大きく息を吐いた。帝に対して、やっと事の次第を話す決心がついたのだ。昨日、慎太郎へ打ち明けたことで、肩の荷はおりている。もう誰にも隠す必要はなかった。

「慎太郎殿には、紫苑様とお会いになる前に、結納まで済ませた相手がおりました。鍵崎羅山の妻、保倉柴門の娘、保倉マナです」

 帝は目を見開き、わずかに腕を震わせた。

「確かなのか」

「はい。鍵崎羅山はそれを知りながら横恋慕したのです。そして女は、金も地位もあるほうを」

「しかし道場の娘だろう。あれほどの男をふってしまうのは惜しかろうに」

「東の都の者は誰一人として、慎太郎殿の実力を知りません」

「なに?」

「東で屈指の道場とはいえ、みな人並みです。慎太郎殿が本気でかかるのをためらうのは致し方のないこと。この京の存在を知らなければ尚更。田舎では一時期、もののけに憑かれていると中傷されたこともあるそうですから」

 帝は扇子を握りしめて唸った。

「それでどうした」

「騒動の最中に佐兵が声をかけましたので、そのまま。塔主との縁談が持ち上がってからというもの、ずいぶん邪険にされていたようで、どのみち破門される予定だったとか」

「……結納まで済ませていたのなら、気に入っていたのではないのか。保倉の子は娘が一人。嫁にやってしまっては後継者に困るだろう」

「ですから、道場ごと嫁入りさせたのです。娘を塔主にやって、道場を慎太郎殿に継がせるのでは、なにかと不都合です」

「己が引退して、きっぱりとやってしまえば良いではないか」

「保倉柴門にとっては、娘も道場も同じくらい大切だったのでしょう。ですから考えたはずです。塔主との縁談も捨てがたいが、道場も捨てられない。願わくば両方を生かしたい、と。おかげで慎太郎殿がそうとう疎ましく思われたことは間違いありません」

 帝は唖然としたあと、じわじわと煮えるはらわたをかきむしりたい衝動にかられた。想像するに、道場主としてあれ以上の後継者はいない、娘婿としても文句のつけどころがないと、はじめはチヤホヤしていたはずである。それを……

「あの男は黙って引き下がったのか」

「はあ。かなりまで未練を残していたようですが、自分の幸福を願うことは当然であるから責めることはできない、と。慎太郎殿は女を許すことで未練を断ち切り、ようやく紫苑様に……まあ色恋はそれでいいとしても、帝の地位に就くとなると簡単にはいかないようで」

「というと?」

「鍵崎とは会って話したこともないので本心など分からないが、悪意しか感じられない。人を不幸に陥れようとした行動としか思えない、と申しておりました。慎太郎殿の胸には確かに憎しみが残っているのです」

 実之は語りながら、昨日の慎太郎の様子を思い出していた。

 つらい胸の内を必死に隠しながら、笑みを浮かべてみせる顔を……


***


「あの男を許せる境地へ至るには、日が浅すぎる。その時が来るまで、顔を見ることはできない。むろん、マナの顔も、保倉柴門の顔も」

 と慎太郎は言った。新年の挨拶へ来るたび佐兵が寝泊まりしている部屋である。正座して向かい合っていた実之は目を見開いた。

「許す……だと?」

 窓から差し込む薄日が、慎太郎の笑みを寂しげに見せていた。苦しみ抜いてようやく踏み出した足を、また踏みとどまらせてしまったのではないかと、実之の心は揺れた。

「なぜ許す」

 実之の問いに、慎太郎は眉根を寄せた。

「なぜ? 許せないのは間違いだからだ。俺は、自分の幸せを選んだ人間としてのマナを許せる。ならば鍵崎も許せるはずだ。人を不幸に陥れようとする人間こそ不幸なのだから、哀れと思っても憎しみを抱いてはいけない。だが俺の心にはまだ陰が焼きついている。怒りと憎しみに歪んだ陰だ。わだかまりがあって、完全に関係のない世界で生きていきたいという想いにしがみついているせいだ。まったく立ち向かっていないのだ。相手にも、己にも」

 慎太郎の言葉に、実之は返す言葉がなかった。己の幸福を望むことが当たり前であるなら、苦しみから逃げることも決して恥ずべきことではない。しかし実之は、慎太郎が苦しむと分かっている道へわざわざ誘い込んだのだ。関係のない世界で生きさせてやれば良いものを、わざわざ。

「すまん」

 実之は良心の呵責に耐えきれず、頭を下げた。だが慎太郎は、

「よせ」

 と答えた。

「佐兵殿に声をかけられなければ、俺はどうしていいか分からなかったし、西へ置いてもらったことも感謝している」

「しかし、おぬしのためではなかった。すべては真崎家再建のためと思って……」

「いや、誠意は充分に感じられた。見返りは過ぎるほど貰ったと思っている」

 そうして慎太郎は、ゆっくりと窓へ目を向けた。光を求めるように。

「すがすがしい気持ちで向き合えるようになるとは思っていない。だがせめて、少しは許そうという気持ちで冷静に顔を見られるくらいにはなっていたい。そうでなければ俺は、きっと紫苑も自分自身も幸せにはできないだろう」


***


「だから西へ帰りたいというのか?」

 帝は唸りながら手に持っていた扇子を実之に投げつけた。

「慎太郎は阿呆か!」

 実之は焦りつつ、とにかく頭を下げた。

「申し訳ありません」

「なにを謝っている」

「いや。考えてみれば年頃になるのを待たずに縁談を進めても差し支えなかったかもしれません。そうしていれば、こんなことには」

「済んでしまったことを」

「はあ」

「まあとにかく、こちらの事情を話さなかった理由は解した。復讐のために紫苑と一緒になるようなことは避けねばならぬと考えたのであろう」

「はい」

「だが実際は、そんな男ではなかった」

 帝の言葉に反応して、実之は面を上げた。帝は憂いを帯びた表情で、小さな溜め息をついた。

「今日おぬしと向かい合う時は、あやつが下らぬ男だったという結果しかないと思っていた。いい意味で裏切られた」

 実之は神妙な顔で、投げつけられた扇子を帝へ返しつつ言った。

「立派な男です」

 帝は受け取りながら、皮肉げに口の端を上げた。

「そのようだ」

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