29.帝の想い
とはいえ、取り込まなくては具合が良くないことも承知だ。慎太郎のような強者を敵には回せない。それに人間であれば誰でも欲はある。こだわっていては紫苑の相手など永遠に見つからないだろうし、地位や財産に目がくらまないほうが扱いづらいという場合もある。権力者から見て最も恐ろしいのは、金や地位などでは動かない人間だ。
帝は内心、紫苑さえ裏切らないと誓えるなら、なんでも与えてやる覚悟はできていた。どうせ結婚するとなれば否が応でもやらねばならないのだ。求められるのは、一人の女に対してその男がどれだけ誠実か、という点に尽きる。
「さて……極端な野心を抱くか、世間並みの欲で止まるか」
帝は閉じた扇子で軽く肩を叩きながら、宙を見据えて呟いた。
***
手合い初日から一夜明けた慎太郎は、朝から紫苑に誘われ庭を見て回った。そこで、残り九日の手合いがなくなったことを告げられ、ガッカリした。
「久しぶりに暴れられると思ったのにな」
紫苑は顔をしかめた。
「うれしくないのですか?」
「存分に剣を振るえる機会というのは、めったにない」
「うれしくないのですね」
「あ、すまん。別にその、今の状況に不満があるというわけではない」
紫苑としては、慎太郎が怪我をする心配もなくなり、父親の態度も軟化してきたと感じているので、彼の無念さが分からなかった。ようやく訪れたこの時を楽しみにしていた分、余計である。
二人きりで過ごす平和な時だ。西の都でも度々そのような時間はあったのだが、恋仲ではなかったので訳が違う。
紫苑は慎太郎の腕に絡みついて歩いた。安心して寄りかかれる腕があることに、庭の説明など結構おろそかにしてしまうほど浮き立った。考えるのは慎太郎のことばかり。ほかのことは、どうでも良かった。
鯉が泳ぐ池へ来て慎太郎がなにか尋ねると、紫苑は、
「魚のことはよく分からないの」
と答える。それからしばらくして、また慎太郎が、
「ずいぶんあちこちに東屋を見かけるが、いくつあるんだ?」
と聞いても、
「数えたことがないわ」
と答えた。なかなか収穫のない案内だ。しかし、紫苑と寄り添って歩くことは慎太郎としても幸せなことなので、たいした問題にはならなかった。
それでも、現実的な話になると事情は変わる。
「君の父上は、俺のことをどう言っているんだ?」
紫苑は楽しそうな顔から一転して、瞳に憂いを満たした。
「お父様はお話にならないの。私の口から伝わることを避けていらっしゃるんだわ」
「ずいぶん警戒されているんだな」
「しかたないわ。だって……」
「……だって?」
「だって、お父様は——」
国を統べる人ですから、とは言えず、紫苑はうつむいた。気がかりなのは、未だに残っているはずの慎太郎の傷である。こうしているのだから、それとは関わりなく好いてくれているのだということは分かる。だが知ってしまったあとに、同じ気持ちでいてくれるだろうかということに対しては、大きな不安があった。
「慎太郎様は、そんなに戦うことがお好きなの?」
紫苑は急に話を元へ戻し、答えることを避けた。慎太郎も特に疑問に思わず、すんなりと話題に乗った。
「いや、戦うことが好きというよりは、身体を動かすのが好きだな。まあ結局、それが戦うことに直結してしまうんだが」
「本当に十日間戦える自信がおありだった?」
「ん、まあ……最終日はそれなりにキツイだろうと思ってはいたが。特に、三宅殿に入られるとツライ。実際に百人の束より、百人分の力を持った一人のほうがやりづらいのだ」
それを聞いて、紫苑はクスリと笑った。
「慎太郎様でも苦手な相手がいらっしゃるのね」
慎太郎は苦笑いしてそっぽを向いた。しかしそんなことも、恋人同士のたわむれに過ぎぬことを知っているので、嫌な気持ちには少しもならなかった。
***
それから一週間が過ぎた日のこと。
京与条殿の西十町にある屋敷——正門をまっすぐ行ったところにある謁見の間を備えた屋敷へ、訪問者があった。
実之と菜々である。
二人は結婚後の報告をするために参ったのだ。
「このたび無事に挙式を終え、夫婦となりました。これも帝や皆様の温かいご支援があればこそ。誠に感謝いたしております」
実之が言って菜々とともに頭を下げると、帝は一段高い場所で機嫌良く扇子を広げた。
「なに。二人の努力の賜物だ。本当におめでとう」
「はっ。ありがとうございます」
「菜々は幸せか?」
帝が尋ねると、菜々は驚いたように頭を起こしてから顔を赤くし、また下げた。
「は、はい!」
「ふむ。それは良かった」
帝は心から言い、満足げに笑った。
「大事にしろよ? 実之」
「はい! もちろん」
二人は同時に面を上げると、視線を交わし合って微笑んだ。そこへ、帝が声をかけた。
「ところで、あの慎太郎という剣士だが」
実之は菜々から視線を外し、帝へ向き直った。
「はい?」
「こちらへ寄越したということは、そちらから見て合格だったということでいいのか?」
「はっ、はい」
「しかし聞くところによると、こちらの事情は少しも理解しておらぬようだが」
「そ、それは」
実之は額に汗を浮かべながら視線をさまよわせた。
「知らせないほうが、純粋な気持ちで紫苑様と向き合えるのではないかと」
「ほう? 気を利かせたというわけか」
「は、はあ」
「だがもう心は決まっているようだ。このあたりで明かしても問題ないだろう」
「——!」
実之は身を固くして背筋を伸ばした。その一瞬の動作を、帝は見逃さなかった。
「……なにか隠しているな。言え」
実之は握った拳を膝に置いたまま、目を合わせることなくジッとした。結ばれた口は開きそうもない。おかげで帝は思わぬ不信の念を抱いた。慎太郎は女が言い寄らぬはずがない男である。実は派手に遊んでいるとか、金遣いが荒いのでは、と想像した。しかしそれがあさっての方向の話だと理解するのに、時間はかからなかった。
「言わないのであれば、あの話は白紙に戻すが、それでも良いのか」
と言うと、実之は不意に目を見開いた。そして、やや青ざめていた顔に血の気を戻した。
「慎太郎殿を京へ置かないのであれば、西がいただきます」
帝は思わず呆気にとられて扇子を落とした。
「なんだと?」
「真崎家再建は帝のお力か慎太郎殿の力のどちらかがあれば成し遂げられます」
「ほう? つまり今となってはどちらに転んでも、そちらに分があるというわけか」
「はい」
潔い返事に帝は溜め息をつき、扇子を拾った。
「では質問を変えよう。おぬしが隠している内容を紫苑は知っているのか」
「……はい」
「ふん。なるほど。俺に言えぬような後ろめたいことを差し置いてもなお、手中に収めておいたほうがいい、と?」
「後ろめたいなどと、そのようなことは。慎太郎殿に非はありません」
帝は顔をしかめた。言えない事情は後ろめたい事情にほかならない。それが違うと言うのだから、訳が分からなかった。
「なんなのだ、一体。まるで話が見えぬ。遅かれ早かれ、俺の立場は知らせねばならぬのだぞ?」
帝の言葉に、実之は再び黙った。
確かに、いつまでも隠してはおけない。いつか知る時が来る。ならば今、話しておくべきことではないのか。本人が引き返せなくなってから知らせるのもまた、残酷である。今なら——いや、引き返そうが突き進もうが、ここまで引っ張ってきたのは己たちだ。この先の慎太郎の運命にも責任を持つべきだろう、と。
実之は顎を上げ、覚悟を決めて帝を見据えた。
「話はこちらから致します。どのような結果になっても、始末はきちんとつけさせていただきますので、ご安心を」
そうして頭を下げる実之の姿を、帝はしっかりと目に焼きつけた。次期塔主という立場にある人間に責任を取らせるほどの男ならば、明日は間違いなく、ここで向き合っているだろうと思いながら。




