26.十日一万の約束
「私の家は、京与条殿と呼ばれています」
京へ着き、高い丘より屋敷を眺めた慎太郎は舌を巻いた。それは果てしなく広がる盆地の中央に建立されている。朱塗りの屋根で描かれる幾何学的な紋様と、区画整備されている町並みの美しさは、誰もが溜め息をもらす代物だ。慎太郎も例外ではない。
「広大だな」
「たくさんの人を雇っていますから」
「気後れしそうだ」
「大丈夫です」
「そうか?」
「ええ。慎太郎様ですもの」
「……なんの根拠があってそんな」
「信じています」
にこやかに言う紫苑の横顔を、慎太郎は驚いて見つめた。いつかツツジの庭で見たままの美しさである。あのとき心に灯った小さな火を思い出して、慎太郎は胸が熱くなった。つい先日やっと唇を合わせた程度だが、もう強く結びついているようで、気分が高揚した。
慎太郎はそっと、紫苑の肩を抱いた。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
***
さて。屋敷は遠くより眺めても圧倒的だが、近くから眺めても開いた口がふさがらないほど立派なものである。慎太郎は落ち着きなく辺りを見回した。塔に入った時も場違いだと感じたが、ここはそれどころの騒ぎではないと、異様に緊張した。
一方、案内の者やすれ違う者は、慎太郎に目を見張った。紫苑に釣り合う男は他にないと断言できる存在感である。噂はたちまち宮廷内を駆け抜け、ひと目見ようと多くの者が京与条殿前に殺到した。
紫苑は正殿にて父親の前に正座し、頭を下げた。
「お父様。ただいま戻りました」
「おお、よく帰ったな。無事でなりよりだ」
その男を見やって、慎太郎は紫苑のやや斜め後ろに控えながら眉をひそめた。
紫苑と同じ髪と目の色。そして二十代半ばから後半と思われる顔立ちである。
「……兄、の間違いじゃないのか?」
慎太郎は小さな声で紫苑に問いかけた。紫苑は面を上げると、クスクスと笑った。
「いいえ。父です」
それから、また背筋をピンと伸ばした。
「お父様。こちらが慎太郎様です」
紹介された慎太郎は慌てて頭を下げた。
「初めまして。このたび用心棒を務めさせていただきました、慎太郎と申します」
紫苑の父は顔の前で軽く手を振った。
「堅苦しい挨拶など良い。そちらのことは聞き及んでいる。で、どうだ、慎太郎殿」
慎太郎は顔を上げた。
「どう、とは?」
「娘だ。気に入ったか」
率直な問いに、慎太郎は赤面した。
「それは、もちろん」
「ほう? 妻にしたいか」
「は、はい」
すると紫苑の父こと帝はしばらく慎太郎を観察した。それからやがて、
「……こちらとしては、すぐにやるという返事はできない。なにしろ大事な一人娘だ。おぬしが真に相応しいか、この目で確かめねばならぬ」
と言った。
慎太郎は、あまり色よい答えではなかったために、うなだれそうになる頭を必死に支えた。しかし一人娘を持つ父親としては当然だろうと、うなずく気持ちもあった。かつて柴門がそうであったように。
柴門は慎太郎を娘婿として迎えることにさほど抵抗は見せなかったが、やはり塔主に嫁がせたいと願った時点で親の本性らしきものを覗かせた。誰にやれば娘がより幸福でいられるか。そんなことを考えるのは紫苑の父親とて同じだろう。
慎太郎は心の中で自身の背を振り返った。負っているのは道場の看板のみである。ほかに取り立てるところのない己が果たして紫苑に相応しいのかと自問すれば、あまりにお粗末な姿しか浮かばず、恐ろしくなった。
慎太郎が自信喪失していると、誰かが正殿へ上がって来た。その者らは紫苑が父親と対面している空間の側面へと座った。つまり、紫苑の父と彼らと紫苑の順にコの字になるよう腰を下ろしたのである。
見覚えある顔に、慎太郎はポカンとした。三宅と七伏だ。
二人は右斜めにいる帝へ向かって一礼したあと、左斜めにいる慎太郎へ向いた。
「お久しぶりですな、慎太郎殿」
慎太郎はなんと答えていいのか分からず、眉根を寄せた。すると三宅は闊達に笑った。
「そのような顔をなさらなくても。まあ、こちらの素性も明かさず手合いを申し込んだのは、すまないと思っているが」
「……いや、別に」
慎太郎は目をそらした。この瞬間に素性がばれたような口ぶりで言われたものの、慎太郎にはよく分からなかったのだ。五年以上前から紫苑の婿候補だったことも知らなければ、紫苑の父親の職業すら定かではないのだから仕方ない。
だが建物を見るかぎりは神社である。おそらく神職にたずさわっているのだろうということくらいは、漠然と理解した。
「ところで紫苑様。菜々殿の祝言はいかがでしたか」
七伏が問うと、紫苑は嬉しそうに顔の前で手を合わせた。
「つつがなく終わりました。菜々も実之さんも本当に幸せそうだと、佐兵さんが教えてくださいましたわ」
「それはようございました。慎太郎殿もご出席なされましたか?」
急に話を振られた慎太郎は、焦ってうなずいた。
「呼ばれたので」
そこで、紫苑がおかしそうに笑った。
「慎太郎様ったら、お酒に酔って塔のてっぺんに昇ってしまったんですよ」
紫苑は楽しそうだったが、慎太郎は血相を変えた。紫苑の父親がいる手前、化け物だと思われたくないのだ。その前に、酔っぱらって屋根にあがるという行為が人としてどうなんだ、というところもある。
「塔の、てっぺん? というと屋根の上か」
「ええ」
帝は渋い顔をした。
慎太郎は冷や汗をかいた。非常識極まりない話だ。不興を買って屋敷から叩き出されるのではないかと心配した。
「はて。あの塔の屋根には登り口などないはずだが」
「実之さんがおっしゃるには、ひさしを踏み台にして飛び石を渡るように、螺旋状に昇って行ったそうですよ」
「……ばかな。そんな芸当ができるものか」
「あら、でも本当に。そのあと飛び降りたのを、百名近くの方が見ていらっしゃるのよ?」
「飛び降りた!?」
声を上げたのは三宅と七伏である。
「一町もあるのだぞ! いったいどうやって」
慎太郎はこめかみを引きつらせた。
「五間も一町も、たいして差はないんだが」
と、今度は三宅と七伏が眉尻を痙攣させた。
「おおいにあるだろう」
まっとうな突っ込みに、慎太郎は言葉でも忘れたように沈黙した。二度と酒は飲まぬと腹の中でぼやいたとしても、これ以上その話をふくらませる気はないのである。
黙り込んだ慎太郎を、帝は口の端を上げて見やった。
「ずいぶんと、おもしろそうな男だ。よし。それではこうしよう。ここを守る兵と剣を交えよ。全員に勝利すれば紫苑との交際を認めてやる」
慎太郎は紫苑の父をじっと見た。
「そんな簡単なことで?」
「はっ。簡単とは言ってくれるな。国中の精鋭が集まっているのだぞ? 甘く見るな。それに一対一とは言っていない。おぬしの強さは三宅より伝え聞いておる。戦う兵は一万だ。一日に千の兵と十日間、戦い抜け」
帝の言葉に、三宅も七伏も、紫苑も凍りついた。
「お父様……!」
悲痛な声を上げる紫苑の背に、慎太郎は落ち着かせるつもりで軽く手を当てた。すると帝が慎太郎を見据えた。
「受けるか?」
慎太郎も帝の目をまっすぐに見つめ、めずらしく不敵な笑みを浮かべた。
「もちろんです」




