25.二人の旅路
それからまもなくして、梅雨が明けた。
若い男女が二人きりで旅をすれば、過ちが起きても不思議ではない。
佐兵は、慎太郎たちが京へ向かう道中でそうなれば良いと思っていた。今回の旅は馬を使わない。使うとすれば二人乗りか、慎太郎が並列して誘導しながらになるが、もともと歩き旅を楽しんでいた紫苑は、それを拒否した。となると、二月三月の道のりである。男女が情を深めるには充分ではなかろうかと、期待を込めた。
そのような思惑など知らない慎太郎は責任感を胸に、紫苑を連れて出立した。しかし佐兵にもらった地図を見ながら首をかしげていた。みんなが「京」と言っている場所が、いまいち分からなかったのだ。
地図通りに行けば辿り着くのだろうがなあ……
なんとも心もとないことを胸の内で呟きながら、地図を懐にしまい、前を見る。慎太郎は「別れるための道を行かねばならないのは苦痛だが、わがままを言って紫苑を困らせてもならない」と考えていた。恋愛において、この真面目さが仇になるというのに相変わらずなのは、やはり生まれ持った性格なのだろう。手を貸さねばならない場面以外では決して紫苑に触れないという、徹底ぶりである。
そこには当然、気のない異性から必要以上に触られたくないだろうという配慮と、考えうる衝動を自制する目的もあるのだが。
ともかく「みなの信頼があればこそ旅の伴に選ばれたのだろうから、裏切ってはならない」という一心である。
対して、紫苑は幸せな誤解をしていた。否。まったくの誤解ではないが、少なくとも慎太郎のような破局的な考えではなかった。
遠慮がちに手を貸すのも、一定の距離感を崩さないのも、大切に思ってくれているからだ。菜々の言う通り、異性として意識しているからだ、と。
むろんその通りだ。意識するからこそ距離を置いているのは間違いない。だがすべては別れる時のための予防線である。無傷でいられることはまずないが、深手を負わないくらいの用心はしたいのだ。
慎太郎は紫苑に歩調を合わせながら、ふと、実之に「臆病だ」と言われたことを思い出した。反論の余地もなく自嘲の笑みが浮かぶ。しかし当たって砕ける勇気は出なかった。本気で砕けてしまったら、ほかに頼る者のない長旅で、ただでさえ目の見えない紫苑はどうすればいいのか分からなくなってしまうだろう、と慮るからだ。
別れ際にぎくしゃくするのも何であるし、彼女の旅や西の都での思い出を台無しにする権利は誰にもない。なにより、つらい幕引きだった初恋を味わっている慎太郎が、二度目の恋は淡く美しいままで終わらせたいと思っても、しかたないことだった。
***
手を貸す場所でも、寝起きを共にする部屋においても、二人の距離は一向に縮まる気配を見せなかった。意図的にそうしている慎太郎も、素直な感情しかない紫苑も、もちろん切なかった。だが、どちらも行動を起こすことはできなかった。
紫苑にはその気がないのだと思っている慎太郎と、気持ちに気付いてくれたのなら最後の一押しは慎太郎からしてほしいと思っている紫苑である。
そんな、互いに悶々とする日々が続いたある日のこと。
慎太郎は昼間の宿屋であぐらをかき、地図を広げてみた。過ぎた道を辿り、次に向かう場所を確かめるためだ。
「やっと半分まで来た。疲れていないか?」
やや離れたところで座布団の上に正座している紫苑は、じっとしたまま黙った。言いたいことは色々あるのだが、言ってしまって後悔しないかという迷いがあるのだ。しかし胸は、後悔してもいいと感じるほど、いっぱいだった。
目が見えなくとも、いや、見えないからこそ、紫苑には分かることがある。慎太郎のためらいや、溢れ出す感情が、どこへ向かっているのか。出逢った頃は遠くにあった声が、今は絶え間なく近い。それが何を意味するのか。
紫苑がこの半年ひそかに感じ続けたことは、菜々に言われて確信へと変わった。慎太郎は振り向いたのだ。通い続けた甲斐はあったのだ、と。それゆえ「二人きりの旅をすれば、互いに想っている者同士。進展しないわけがない」と言う菜々の言葉を信じてここまで来たのである。
ところがひと月半も経つというのに、想い描くような雰囲気には少しもならず、紫苑は京へ近づくほど焦る想いで、どうにもやるせなかった。実は思い込みで、慎太郎の心はどこへも向いていないのではないかと疑いもした。
「紫苑殿?」
あまりに返事をしない紫苑へ、慎太郎が今一度、声をかけた。紫苑はその声に震え、膝の上でギュッと拳を握った。
「慎太郎様は、私のことをどうお思いなの?」
「——え?」
「どうお思いなの?」
か細い声には何故か怒りが込められていて、慎太郎は唖然とした。気に障ることでもしただろうかと。何もしないから気に障っているのだが、そこが分かるようなら苦労はない。
「どう……とは?」
紫苑は深く息を吸った。
「私は、慎太郎様が好きです。京へ着いたらお父様にご挨拶してくださると、嬉しいと思います。ご迷惑かしら」
やや長い沈黙が漂った。思わぬ告白に慎太郎が絶句してしまったからだが、様子の分からない紫苑は不安になった。なんとも思っていない少女からの申し出に困っているのではないかと、羞恥で顔から火が吹き出そうだった。
が、慎太郎の手が一瞬だけ頬に触れ、紫苑はハッとした。
「俺でいいんだろうか」
戸惑う声に、紫苑の鼓動は高鳴った。
「も、もちろんです」
「育ちは良くないぞ? 金もないし」
「重要なことではありません」
紫苑がキッパリ言うと、慎太郎は大きく息を吐いた。緊張の糸が切れたのである。惚れた女と二人の旅路。心が通い合っているものならいいが、そうでなければ、ただの地獄だ。その地獄を現実に歩いた彼にとって、紫苑の告白は大きな救いになったと同時に、脱力をともなう真相を明らかにさせたのだ。
真相とは、紫苑が帰るというのに旅の伴が慎太郎一人しかいないという理由である。これまでの実之らを見る限り、なにを差し置いても旅のお伴を優先するのが自然だ。ことに菜々は。
慎太郎は苦笑した。
「始めからそういうつもりで、この旅を?」
「……気がつきませんでした? やっぱり回りくどかったかしら。でも、そういうつもりがなければ二人きりの旅なんて」
言いかけた紫苑は、急に顔を赤くした。
「も、も、もちろん、お父様へご挨拶をしていただこうというつもりの旅ですわ。誤解なさらないでね。あ、だけど、手を繋ぐくらいは咎められないと思います」
早口に述べる紫苑を見て、慎太郎は思わず吹き出しそうになった。が、咳払いして堪え、見えていないのは承知で真向かいに正座すると、真摯な眼差しで紫苑を見つめた。
「ずっと惹かれていた。だが俺は、そういう感情から目を背けていた。傷つきたくないからだ」
「はい」
紫苑は背筋を伸ばした。慎太郎の告白を聞く覚悟の表れである。それを察した慎太郎も改めて気持ちを引き締めた。
「家柄が合わないのは一目瞭然であるし、君の父親には気に入られないかもしれない。俺はそんなことを気にするような臆病者だ」
「はい」
「しかし一緒に旅をして、君を守れる自信はついた。それだけは誰にも負けない」
神妙だった紫苑の顔が、パッと明るくなった。慎太郎の口から、やっと前向きな台詞がこぼれたからだ。
「ついでに常人ではないという自覚もある。たぶん、まったく世間並みの暮らしをするというわけにはいかないだろう。それでも良ければ、俺のものになってくれ」
「はい……! 覚悟はできております」
「決してよそ見はしないか?」
「よそ見なんて、できませんわ。だって見えないんですもの」
肩をすくめて笑うと、紫苑は慎太郎に強く抱き寄せられた。そのまま胸に頬を当て、そっと手を添える。何度も夢見た瞬間に出逢って、彼女は幸福だった。
「慎太郎様も、よそ見なさらないでね」
「あいにく、それができるほど器用ではない」
***
その数日後。
「てっきり、そういう意味で好いてくれているのではないと思っていた」
休憩所で一服しているところ、急に慎太郎が言ったので、紫苑は少しビックリした。
「そういう意味で好意を抱いていない殿方の家に、通ったりしませんわ」
「うむ。それは俺も考えた。しかし菊殿や菜々殿と一緒だったし、こうして用心棒をしているから、その礼のつもりかと」
紫苑は内心で呆れた。剣士としてのみならず、男としても引く手あまたの慎太郎が、どうしてそう自信がないのか不思議だった。昔、たった一人の女にふられただけである。しかも自分に落ち度があったわけではない。
でも、そうなってしまうほどに傷ついたのかもしれないわ。それほど愛していたのかもしれない。
紫苑は胸の内で呟き、自分もそれほどに愛されたいと思った。それ以上に愛されたいと願った。そうしてゆっくりと、慎太郎に寄り添った。




