第8話 魂の決断、新たな誓い
エルドランが示した、二つの過酷な選択。洋介とエリアーナは、夜が明けるまで、語り合った。どちらの道を選ぶべきか、答えは、簡単には出なかった。洋介が人間としての生を捨て森で暮らす。それは、エリアーナと共にいられるという甘美な響きを持っていた。しかし、それは同時に、彼が築き上げてきた全てを、捨てることを意味していた。愛する妻、リリア。生まれたばかりの息子。そして、彼を信頼し、慕ってくれる、村の人々。彼らを、裏切ることなど、できるはずがなかった。
「俺にはできない。リリアと息子を見捨てることなんてできない。彼らにも俺に対する愛情と信頼がある。それを踏みにじることは俺の良心が許さない」
洋介は苦渋の表情でそう言った。エリアーナも黙って頷いた。彼女も彼に、そんな非情な選択をしてほしくなかった。
では、エリアーナがエルフであることをやめ、人間になるのか。悠久の時を生きる力と奇跡の魔法を全て手放し、人間として老い、死ぬ運命を受け入れる。それは彼女が、エリアーナとして生きてきた百数十年という歳月を、全て否定することに等しかった。しかし、エリアーナの心は決まっていた。
「私、人間になるわ」
彼女の言葉に、洋介は驚いて顔を上げた。
「エリアーナ、本気か!? 君は、エルフとしての、全てを失うんだぞ! それは、君にとって、死ぬことよりも、辛いことかもしれないんだぞ!」
「いいえ、辛くないわ。私は、あなたと一緒に、同じ時間を、生きたいの。あなたと同じように、歳をとり、同じように、シワを刻み、そして、いつか、あなたの腕の中で、静かに、眠りたい。それが、私の、たった一つの、望みなの」
エリアーナの瞳は、固い決意に満ちていた。彼女は、百数年という孤独な時間の中で、ずっと、それを、望んできたのだ。洋介と、同じ時を、生きることを。
「でも、そしたら、君は⋯⋯」
「分かっているわ。私は、あなたよりも、早く、死ぬかもしれない。病気になるかもしれない。でも、それでもいいの。あなたと一緒にいられる、限られた時間の方が、あなたと離れて過ごす、永遠の時間よりも、ずっと、価値があるわ」
エリアーナの言葉に、洋介は、涙を止めることができなかった。自分のために、彼女が、どれほど大きな犠牲を、払おうとしているのか。その愛の深さに、胸が、締め付けられた。
「本当に、いいのか? 俺は、君を、幸せにできるだろうか⋯⋯」
「あなたが、そばにいてくれる。それだけで、私は、世界一、幸せよ」
二人は、強く、抱きしめ合った。そして、新たな誓いを、立てた。エリアーナは、エルドランの元を訪れ、自分の決意を告げた。エルドランは、何も言わず、ただ、悲しそうな目で、彼女を見つめていた。
「⋯⋯それが、お前の魂の決断なのだな」
「はい。私は、彼と、人間として生きていきます」
「よかろう。ならば、この泉の水を飲むがよい。この水を飲めば、お前はエルフの力を全て失い、ただの人間の女になるだろう。二度とエルフには戻れぬぞ」
エルドランが指差した泉は、森の最も神聖な場所にあり、月光を浴びて、神秘的な輝きを放っていた。
エリアーナは、ためらうことなく泉の水を両手ですくい口に含んだ。その瞬間、彼女の体から金色の光がふわりと抜け出ていくのが見えた。長く尖っていた耳は丸みを帯び、陽の光に透けるようだった白い肌も健康的な人間の肌の色へと変わっていった。
彼女はもう、エルフのエリアーナではなかった。ただの人間の女、春音だった。
力を失った春音は、急に疲労感を覚え、その場に崩れ落ちそうになった。洋介が慌てて彼女の体を支えた。
「春音! 大丈夫か!?」
「ええ、大丈夫⋯⋯。ただ、少し眠いだけ⋯⋯」
春音は洋介の腕の中で、安らかな表情で眠りについた。洋介は眠る春音を抱きかかえ、エルドランに深く頭を下げた。
「ありがとうございました。彼女のことは俺が命に代えても守ります」
「うむ。行け。そして二度とこの森に足を踏み入れるな」
エルドランはそう言うと背を向けた。その背中はどこか寂しげだった。
洋介は、春音を抱きかかえたまま人間の村へと帰っていった。彼の心の中には、春音と共に生きられる喜びと、そして、これからリリアに全てを話さなければならないという重い責任が混じり合っていた。
穏やかではない未来が待っていることは分かっていた。しかし、それでも、彼は、春音の手を決して離さないと、心に誓っていた。




