第205話 外伝・ソレンの姪っ子溺愛日記② この子の行く手を阻むものは、僕が全て排除する!
こうして「留学」という名目で連邦皇国へ舞い戻った僕は、旅装を解くのももどかしく、皇都アクシスの居城へと駆け込んだ。
ミリア宰相からの定期報告によれば、一歳を過ぎたエレノアは、ついに「ハイハイ」を始めたという。
よちよちと床を這う、愛らしい天使の姿。
想像するだけで、強張った表情筋が緩み、鼻の下が伸びるのを止められない。
「ただいま戻りました! ノア、叔父上ですよ!」
執務室やサロンを通り抜け、長い廊下へと足を踏み入れた瞬間だった。
ヒュンッ!
風切り音と共に、視界の端を何かが高速で横切った。
「……なっ!?」
敵襲か?
いや、この皇城のセキュリティは、姉上とイリスが構築した鉄壁の要塞だ。ネズミ一匹、アリ一匹たりとも許可なく入ることはできない。
だとすれば、今の影は――。
「……あー! あー!」
廊下の彼方から、歓喜の声が聞こえる。
僕は目を凝らした。
そこには、四肢で床を捉え、野生の猛獣も裸足で逃げ出すような、超低空・高速移動を行う赤ん坊――エレノアの姿があった。
「は、速い……! あれがハイハイだって言うのか!?」
それはもはや、移動ではない。
四輪駆動のスポーツカーだ。
最高級のふかふかの絨毯を、小さな指先がガッチリとグリップしている。
ムチムチとした手足が、バネのように伸縮して推進力を生んでいる。
一掻きごとに、身体が数メートル前方へ弾き飛ばされている。
姉上譲りの身体強化の才能が、無自覚に発動しているのだ。
しかも、重心移動が完璧だ。空力抵抗すら考慮に入れたフォームである。
「……素晴らしい。さすがは我が姪だ。将来は大陸横断道路を徒歩で制覇できるに違いない」
感心して頷きかけた、その時。
僕の脳内で、現場監督としての「安全管理アラート」が、けたたましく鳴り響いた。
「――いけない!」
大人の目線では安全に見える、この廊下。
だが、時速数十キロで移動する赤ん坊の視点ではどうだ?
テーブルの脚。
置物の台座。
床に落ちたわずかなゴミ。
その全てが、高速移動中には致命的な「凶器」になり得る。
「彼女と同じ目線に立たなければ、彼女が気づかない危険性を検知できない!」
結論が出た瞬間、僕は躊躇なく床に伏せた。
ラノリア製の最高級シルクのシャツが擦れるのも、スラックスの膝が汚れるのも構わず、四つん這いになる。
現場は、会議室ではない。
安全は、泥にまみれて守るものだ。
「待っていろノア! 今、叔父上が並走するぞ!」
身体強化、展開。
出力、安定。四輪駆動モードへ移行。
ダダダダダダダッ!
僕はかつて大陸を走破した脚力と、ヴィータヴェン直伝の身体能力をフル稼働させ、猛然と床を蹴った。
廊下を並んで爆走する、赤ん坊と青年。
客観的に見れば即通報案件だが、今の僕にとっては何よりも重要な「護衛任務」だ。
「あー! きゃぁー!」
横に並んだ僕を見て、ノアが嬉しそうに声を上げる。
競争だと思っているのか、さらに加速する。
「くっ……! 速い! なんて加速力だ!」
ヴィータヴェンの血を引くこの僕が、本気で身体強化を使ってようやく並走できるレベルだと!?
数えで一歳にしてこの身体能力。やはり姉上の娘、化け物だ!
廊下の直角コーナーに差し掛かった瞬間、エレノアは減速するどころか、さらに加速した。
遠心力を利用し、壁をタタタッと駆け上がる。
重力を無視して壁面を走り、天井スレスレを通過して、反対側の床へと着地する。
壁走り。
三角飛び。
三次元機動。
僕はドリフトしながら、目を見開いた。
「バカな……! 一歳児の機動じゃない! 足腰のグリップ性能が違いすぎる!」
床という二次元平面しか走れない僕に対し、彼女は壁と天井を含めた三次元空間を支配している。
速さやスタミナではない。この空間認識能力とセンス。
これが、次世代の覇王の資質か……!
だが、感心している場合ではない。
直線を抜けようとしたその時、エレノアの速度が急激に落ちた。
シュルルル……。
「……?」
急ブレーキではない。エンジンの停止だ。
僕が猛追して横に並ぶと、エレノアの瞳がとろんと濁っているのが見えた。
まぶたが重力に負けて落ちかけ、首がカックンカックンと揺れている。
電池切れだ。
全力の身体強化ハイハイによる急激なエネルギー消費が、強制的なシャットダウンを引き起こそうとしている。
だが、慣性の法則は無慈悲だ。
眠りながらも惰性で滑る彼女の進行方向。
そこには、ミリア宰相が先日購入し、青筋を立てて警告していた「モノ」が鎮座していた。
『いいですかソレン様。これ、旧時代の遺跡から出土した、修復不可能な一点物の白磁の壺ですからね? 国宝級です。もし割ったら……来期の道路予算、わかってますよね?』
あの、氷のような笑顔が脳裏をよぎる。
「……しまっ……!」
このままでは激突する。
頑丈なヴィータヴェンの肉体を持つノアなら無傷だろう。だが、壺は粉々だ。
そして壺が割れれば、ミリアの雷が落ちる。
予算が削られる。
何より、目覚めたノアが、壊れた壺を見て悲しむ(かもしれない)。
それだけは阻止せねばならない!
叔父として! 道路公団の長として!
「おおおおおおッ!」
僕は魔力炉を臨界まで回し、床の大理石を粉砕する勢いで加速した。
限界? そんなものはヴィータヴェンには存在しない!
エレノアを追い越し、壺の手前で急停止。
摩擦熱で靴から白煙を上げながら、身体を反転させる。
スライディング・キャッチ!
ドスンッ。
僕の胸の中に、小さな砲弾が飛び込んできた。
衝撃を受け流し、背中で壺をガードする。
広背筋が壺の硬質な感触を受け止め、上腕二頭筋が姪の柔らかい身体を包み込む。
完璧な防御だ。
「……ぐっ……ふぅ。……セーフ、だね」
背中の痛みなど、小石が当たった程度。
僕は腕の中を覗き込んだ。
「……すー……すー……むにゃ……」
そこには、僕のシャツを小さな手でギュッと握りしめ、幸せそうに寝息を立てる天使がいた。
さっきまでの暴走トラックのような勢いはどこへやら。
今はただ、柔らかくて、温かくて、ミルクの甘い匂いがする、守るべき小さな命の塊だ。
「……はは。なんてことだ」
乱れた呼吸を整えながら、僕はこみ上げてくる感情を抑えきれずに呟いた。
壁を走り、国宝級の壺を割りそうになり、帝国随一のエリートである僕を物理的に振り回しておきながら。
この無防備な寝顔一つで、全てを許させてしまう。
これが、ヴィータヴェンの女たちの強さか。
これが、姉上が命がけで守り抜いた未来の形か。
「……本当に、可愛い!」
僕は床に寝転がったまま、腕の中の宝物を抱きしめた。
頬ずりしたい衝動を、ギリギリの理性で抑え込む。叔父と姪とはいえ過度なスキンシップはよろしくない。
ああ、早くこの子に見せたい。
僕がこれから作る道を。
大陸を繋ぎ、世界を一つにする、果てしない道を。
叔父バカという名の加速装置に、二度目の点火がされた瞬間だった。
僕は誓った。この子のハイハイのために、世界中の床を平らに舗装してやろう、と。




