第8話 溶ける心
不安定な足取りではありながらも、ユータは立ち上がった。
魔力不足と出血で今にも離れていきそうな意識を必死に繋ぎ止めた私も、膝と杖を頼り体を支える。
生を一度諦めた彼を叩き起こしておいて、私だけ先に寝てしまう訳にはいかなかった。
「何もできない無能のくせに、一丁前に立ち上がりやがった!」
「言わせておけば…!」
口を突いた反抗心は、虫の羽音程度の声量にしかならない。
もっと具体的で生々しい暴言を浴びせてやりたかったが、もう私の腹にその余力は残っていなかった。
反対に生気に満ち満ちているルークは、立つのがやっとであるユータの姿に笑いが溢れて止まらないと言った様子だ。
しかし、何のきっかけも無くその表情は覆る。
剥き出しになったのは、誤魔化されていた敵意。
「…ヘタレ野郎が、さっさと死ね!」
ルークが強い言葉を吐いた、その直後。
黙りこくっていたユータは、青い炎を自らの右腕に纏わせた。
一回り大きくなった肩から空へと燃え盛る炎は、蝶がはためく様に揺れ、吐き出される火の粉は鱗粉のように舞っている。
その姿は神々しく、向かい合う化け物が僅かに怯えたようにも見えた。
「グオオオ」
唸った化け物は荒々しく右腕を振るったが、ユータは正面から拳を突き合わせただけ。
それだけで、丸太のように太い腕が轟音と共に消滅した。
瞬きもできない刹那の間に、大量の筋肉と骨が塵と化したのだ。
「……は?」
ルークは何が起こったか分からないといった様子で、ただ目を見開いたまま呆然としていた。
先程まで無力に喚くだけだった青年が、窮地に追い込まれた途端、この場の力関係を逆転させてしまったのだから、無理はない。
「ぶっ飛ばす」
呟かれたユータの気合は、その掌の中に。
今度は痛みに騒ぐ化け物の胴体へ青い腕を突き刺すと、拳から吹き出した炎が化け物を貫通。
胸部にはぽっかりと大穴が開いた。
何とあっさりした決着か。
更に燃え広がる炎に、残った筋肉もゆっくり焼かれ、段々と無へ近付いていく。
悪夢から救済された命は、青い火の粉と共に。
顎を突き上げた化け物の断末魔は、安らかにも聞こえた。
教会で救ってくれた時と同じ、底抜けに優しい炎の輝きに、私はただただ見惚れてしまっていた。
「ア、が、と、オ。アリ、が、と、オ」
死に際の化け物の、枯れた声。
呻く事しかできなかった化け物が、何とか感謝を伝えようと、足搔いていたのだ。
それは余りにも哀れで、美しい光景だった。
予想外の事に肩をピクッと動かしたユータは、やがて悲しい笑顔を作る。
「悪いな、墓までは作ってやれない」
「ガハ、ガハ、ガハ」
最期の冗談も豪快に笑う彼は、塵も残らずに消え失せ、一生を終えた。
見送ったユータが静かに拳を握り締めたのと同時に、取り囲む青い炎は気高く跳ねる。
「なあ、さっきみたいに笑ってみろよ、下種野郎」
肩に手を添え首筋を伸ばしたユータは、鋭い瞳で啖呵を切る。
奥で戦いの一部始終を見ていた悪魔の表情が、炎よりも青ざめていた。
◇
罪人を殴れないような、腑抜けた炎はもう存在しない。
再び得た初めての友達を守るために、目の前の悪魔とどう蹴りをつけるか。
俺はそれだけを考えていた。
「なあ、さっきみたいに笑ってみろよ、下種野郎」
怯えて真っ青になったルークを煽り、今度は此方から歩み寄っていく。
彼が俺の心を甚振るために行ったように、大胆に一歩ずつ、隙を晒しながら。
「来るな!化け物が!」
ルークは破れかぶれに炎の玉を乱射してくるが、それは胸の前まで持ち上げた右腕に触れた瞬間、ジュッという虚しい音と共に消滅してしまう。
赤い炎を飲み込んだ青い腕は更に膨らみ、満足気にゆらり、ゆらり。
必死の形相で生に縋っていたルークだったが、とうとう俺が目前に辿り着いてしまうと、失禁しながらその場に崩れ落ち、そして、喚き出す。
「待ってくれ!君の目的に全面的に協力する!賢者様にだって紹介する!…僕たち、友達じゃないか!」
五月蝿い顎を、渾身の右アッパーが容赦なくかち上げる。
拳面には、骨や歯を粉砕した感覚。
シンプルな暴力に襲われた細い体は、高々と宙を舞った。
青い炎は肌に触れる直前に引っ込めたため、致命傷にはなっていない。
しかし、化け物と同様に消し飛ばされる恐怖を味わったルークは、無様に気絶してしまった。
「ビビって喧嘩もできないような奴が、俺の友達語ってんじゃねえ」
「めそめそ泣いてたやつが良く言うわ」
「…断じて泣いてねえ」
安心感を求め下らないやり取りを交わした俺とリリィは、お互いの悲惨な姿を見て、笑い合った。
どれだけボロボロになろうとも、俺が生き残り、そして友達である彼女が生き残った。
その事実だけで十分だと、今は心の底から思える。
「…で、暴れすぎちゃったけどまた逃げる?それともこいつを警察に突き出す?」
一笑いしたリリィは、地下室を見渡し、提案した。
今回は残った証拠も多く、俺たちが被害者であることを証明するのは容易だろう。
しかし、ルークが捕まって世の中が一歩平和になるだけでは、襲われ損だ。
「もっと良い方法がある」
そう言って俺がニヤつくと、リリィは不安気に目を細めた。
◇
「第二王子を返却しに来ましたァ!」
清々しい笑顔で叫んだ俺は、見るからに高級そうな赤いカーペットの上に、薄汚れたずた袋を放り捨てた。
ずた袋から声が漏れたのを見た第一王子のパトリックは、広い額に冷や汗をかきながら、丸々と肥えた腹を擦る。
メドエストでの戦闘後、俺たちは拘束したルークを抱えて王城へ。
ただ事態を通報しに来た訳ではない。
国家が転覆しかねない大スクープを人質に、パトリックを強請るためにやってきたのである。
王城の門番に『メドエストの地下室について王子に話がある』と伝えたところ、簡単に謁見を許された。
あの地下室の存在をパトリックが知っていた証拠だ。
「まさか第二王子がここまで非人道的な行いをしているなんてビックリです!どうやらお兄様からは、黙認されていたようですが…」
わざとらしく振舞う俺を見てリリィが冷めた顔をしているが、気にする必要などない。
俺はもう、ぎらつく太陽の下を歩いて移動するのは絶対に嫌なのだ。
この大陸の主要な移動手段である馬車を借りるためには、持ち合わせが必要。
国一番の金持ちの財布を振ったら幾ら出てくるのか、見ものではないか。
「…何が目的だ」
「国の脅威を摘み、それを内密にしておいた事へのお気持ちが頂きたく」
「内密?一階は重症患者用の医療施設だったんだぞ。患者共にはバレていないのか?」
「事を上手く処理できるかは、あなた方の努力次第。我々の知った所ではございません」
「ぐぬぬ…」
メドエストの惨状を見れば、何かが起こった事は間違いなく気付かれるだろう。
しかし、噂段階の不完全な情報など、握り潰そうと思えばどうにでもなるはずだ。
研究用の生物を監禁していた地下室に関する証拠が民間人に渡ってしまえば、王族は信用問題に襲われ、革命一直線。
王となる予定の男が、その恐怖に耐えられる訳がなかった。
「…良いだろう。金貨三百枚だ」
渋い表情で折れたパトリック。
無傷で事を済ますのは無理だと理解した彼はふてくされ、鼻で溜め息を吐いた。
さて、この国やグランシア大陸において、金貨がどれだけの価値を持つのか、俺はさっぱりだ。
だからこそ、兎に角強気に吹っ掛けられる。
「よし、この国を終わらせに行こう、リリィ!」
満面の笑みでそう言い切った俺が振り返った途端、ガタっという音。
首だけを捻ると、権高な椅子から飛び降りたパトリックが、膝と手を床に突いて懇願していた。
「金貨五百枚!これが俺の出せる限界だ、頼む!」
「…全く、しょうがないなあ」
困ったことに、壊れた蛇口の様に感情が駄々洩れになってしまい、口元の緩みが収まらない。
様子を見ていたリリィは呆れかえってしまい、細まり続けた彼女の目は、限りなく線に近い形状にまで到達していた。
パトリックが命じてから一分少々、大慌てで戻ってきた部下が差し出した重たい袋を、丁重に受け取る。
その際、失礼にも俺を訝しんでいたが、水に流してやった。
貰う物さえ貰ってしまえば、もうこんな場所に用などない。
俺が踵を返すと、徐に立ち上がったパトリックが、中にルークが入っているずた袋を蹴り始めた。
「クソ、こんなゴミを拾ったばっかりに!貴様はどれだけ、どれだけ足を引っ張れば気が済むんだ!」
「帰るわよ」
足を止めた俺の気を察したリリィが、冷静に促す。
彼女の言う通り、これはもう俺たちの介入すべき問題ではない。
他所の家庭の、どうでもいい事情だ。
「死にたくなっても殺してやらんぞ。また拷問にかけてやる!お前は一生、俺様の玩具だ!」
俺は耐えようと試みた。
それなのに、見て見ぬ振りをして数歩ばかり離れた俺の耳に、袋を蹴りつける不快な音が何度も何度も聞こえてくるせいで、怒りがピークに達してしまった。
ぐるりと振り返った俺は早足で歩み寄り、パトリックの首根っこを掴む。
柔らかい脂肪に包まれた彼の額を引き寄せ自らの石頭を擦り付けると、無意識に湧き出た炎がずた袋と絨毯だけを燃やし、痛みに震えて丸くなっていたルークに寄り添った。
「お前が今やるべきは憂さ晴らしじゃない。コイツへの謝罪と、被害者への罪滅ぼしだ」
「俺は何もやってない!何もかもこの悪魔がやった事じゃないか!貴様は悪魔を庇うのか!?」
「理不尽が生んだ悪魔だ。守ってやる人間が居れば、結果は違ったかも知れない。豊かな日々を満喫してぶくぶく太ったお前に、コイツの孤独が理解できるか?」
この世界に来たその時から、ルークも独りだったのだ。
あの頃の俺と同じか、それ以上に。
捨て切れなかった同情は、最後の最後に、爆ぜた。
「お前だって、十分に悪魔じゃないか…!」
言いたい事だけを押し付けて、俺はパトリックを投げ捨てる。
やっと事態を重く受け止めたのか、絨毯の燃えカスの上にへたり込んだ彼の表情は、暗くなっていた。
「公にしたくないのなら、そいつは監獄で一生懸けて償わせろ。今度拷問なんてしようものなら、俺は絶対にお前を許さない」
「分かりました…」
大人しくなったパトリックは、力無くそう言った。
唾を吐き、目を切った俺は出口の方へ。
何か、背中を引き留められるような気配がしたが、気付かないふりをして王城を後にする。
想いを振り払うように歩幅を広げて前へ進めば、その決断を受け入れたのか、後ろ髪を引く感情の糸は解けて消えた。
正門を越えた俺たちの頭上に、満天の星空。
足取りの重い若者を嘲笑うかのように、星々がチラチラと煌めいていた。
夜空に白いペンキでも塗ってやろうかとムッとしていた俺だけではなく、後ろを歩くリリィはリリィで、面白くなさそうだ。
「あれだけの事をされたのに、本当にお人好しよね」
「一緒に笑ってたのが、全部嘘だとは思えないんだ。奪われた人生を取り戻そうとしていたのかも知れない。…俺と同じように」
「それでも、間違いなく悪魔だったわ」
駆け足で俺を追い越したリリィは、真っすぐに俺の目を見据えた。
眼力に負け、仕方なく俺もその場に留まる。
彼女の主張する通り、どれだけの事をされてきたからといって、ルークの犯した罪が正当化される訳ではない。
そんな事は、俺だって分かってはいるのだ。
「…伝説の賢者様なら、悪魔を人間に戻してくれたりもするのかねえ」
俺は見透かされそうな青い瞳から目を逸らし、その先にある美麗な星空を眺めながら、白い息を吐いた。
◇
青年は夢を見ていた。
幼かった頃の彼が、友人と青い空の下を駆ける夢を。
優しい夢はすぐに覚めてしまったが、それでも十分だった。
獄中。
独房には小さな椅子と、テーブル。
月光に照らされたそのテーブルの上には、彼の研究を纏めた手書きの資料が置かれていた。
正しい使い方をすれば、いつか難病の治療すら叶うかも知れない、貴重な資料だ。
これまで何度も罪を重ねてきた青年は、今更何をしても取り返しがつかない事は分かっていたが、できる限りのことをしようと、あの青い炎に触れた日に誓っていた。
彼は傲慢にも、夢を見つけていたのだ。
青年が寝ずにぼんやりとしていると、この時間には絶対に開かない通路の扉が、甲高い音を立てた。
固い足音はコツコツと響きながら、徐々に、確実に近付いてくる。
鳴り止んだのは、独房の前。
「あの方の理想のために…迎えに来たわよ。子犬ちゃん」
独房を独房たらしめる堅牢な扉は、いとも簡単に真っ二つに。
バタンと倒れた扉の奥で、紫色の長髪を靡かせた妖艶な女が、此方を見下ろしていた。
背丈よりも大きな鎌をしなやかな手に握る彼女は、虫を見るような冷ややかな眼で、格の違いを示している。
青年は答えた。
あくまで対等な立場で、堂々と。
「ごめんなさい。僕はもう他人を手に掛ける事はできません」
「今更何を言ってるのよ。笑わせないでくれるかしら」
女は馬鹿にするように声を上擦らせたが、それでも青年の瞳に宿った覚悟は、揺るがない。
冷たい表情の女とは対照的に、青年は困ったような笑顔を浮かべ、言った。
「これだけの罪を背負っても、それでも僕を想ってくれる人が居たんです。…何処までもお人好しな炎に、心が溶けてしまった」
「…そう」
刹那、女が鎌を一振りすると、格子越しの夜空を背に、青年の首が飛ぶ。
床に落下した鮮黄色の首飾りは、粉々に割れた。