第55話 天使の迎え
バルカンという名前の後ろに背負っていたものが、マフィアの家名だとも知らなかった、幼少期。
憧れたのは、画面の向こうで八面六臂の活躍を見せ付ける、正義のヒーローだった。
酒や煙草など一切口にしない彼の、綺麗に並んだ真っ白な歯。
絶対に手が届かない距離で見ていたって、眩しい。
どんな不幸が降り注ごうと文句の一つも言わず、鍛え上げた太い両足で立ち上がり、見ず知らずの人々の命を救い出す。
彼が悪を討ち、勝利の宣言をすれば、俺も両手を上げて叫んだものだ。
そんなテンプレートな偶像に首ったけだったはずの俺も、歳を重ね、血を血で洗う日常に足を踏み入れれば、現実の外側などには見向きもしなくなってしまった。
忙殺されることもあったが、娯楽に触れる時間が全く無かった訳ではない。
理想を諦め、マフィアの後継ぎとして罪を犯す側になる運命に従った、自らの意志の弱さと向き合うのを嫌ったのだ。
残虐行為を生き甲斐にするような、腐った人間の集合体を率いる、悪逆非道の暴君。
その役は、ヒーローに憧れていた俺にとって、苦痛だった。
しかし、悪名が轟けば轟く程に、両親や祖父母は満面の笑みで喜び、手下の信用は深まっていく。
思えば、一度手を汚した時点で、引くに引けなくなっていたのだろう。
断じて、名声を求めた事はない。
根っからの悪を演じることで、一番に騙したかったのは、俺自身。
そうでもしないと、首の骨を圧し折られた女の悲鳴や、子供の脳天に向けた引き金の冷たさが、脳味噌の一本一本を騒がせて、眠りにつかせてくれないのである。
とある日。
気付けば俺は、我が屋敷に火を放っていた。
きっかけが何だったか、今では思い出すこともできないが、それはきっと、忘れてしまうくらいに些細な事。
ただ、積み上がったゴミの山が、ちょっとした風に吹かれて崩れたような、そのきっかけ自体には、何の意味もない話だった、そんな気がする。
悪行に、嫌気が差した。
魔が差した。
善人としても悪人としても生きる覚悟のなかった半端者は、逃げ続け、逃げ続け、行き着いた先に、黄金の扉が。
こうして世界を移った俺は、酸素を求めて藻掻く家族の声を忘れるために、家名を捨てた。
犯した罪に向き合わず、逃げたのだ。
心機一転と意気込んだのも束の間。
一々食い繋ぐ方法を考えるのが面倒になった俺は、愛されし者に所属し、またも悪事を生業としていた。
生き方が嫌で逃げてきたが、生き方をコレしか知らなかった。
海月の如く、運命の波に流されるまま。
自分らしくあろうとする努力など、続いた試しがない。
この頃には、殺しへの抵抗感も無くなっていた。
心に巣食った化け物に中身を吸われて、無色透明になった心は、もはや何も感じなくなっていた。
そんな空虚な人生に、最後の転機が訪れる。
忘れもしない。
奴隷商へと強盗に入った、四年と三百四十日前、血生臭い夜。
檻の中で腑抜けていた褐色肌の少年の、ルビーとサファイアに見紛うような瞳が、光を宿したあの瞬間を。
檻を破壊した俺へ向けられた希望に満ちた表情は、テレビの向こうで、正義のヒーローに救出された人々のそれと似ていた。
◇
「その反抗的な目、どうやら躾がなっていないようだ」
怒りを込めた眉の下で、赤い瞳が細まる。
グレイドは、叫び狂う俺をさて置き、背後で敵意を研ぎ澄ますシャッツの方に、差別的な視線を送っていた。
物言いに、腹が立つ。
自らが重ねてきたシャッツに対する過去の言動、考え、態度、全部棚に上げて、心からそう思った。
何故なら、主人である俺は特別。
あの男は、そうでないから。
俺に罵られ、暴力を振るわれるシャッツが不満を口にした事など、一度たりともない。
今の険しい表情とは違い、常に痛みの奥には幸福感が溢れていた。
むしろシャッツは、不幸な俺を置き去りにするという、不義理を働いていたのだ。
そんな彼の罪と俺の罪で打ち消し合い、俺の方に残った分を、数十年かけて償うのだから、何の文句がある。
そう、俺は起こした間違いの責任を取り、残りの人生全てを誠意として、シャッツに捧げる用意があった。
エルデ帝国という、大陸一過ごしやすい国の永住権を欲したのも、そのためだ。
あの豊かな土地であれば、長く苦難の中を歩んできたシャッツに、ごく普通の幸せを与える事ができる。
もうこれ以上、俺のふざけた生き方に、彼を付き合わせたくなかった。
そんな夢の生活を前に、奴は、またもシャッツを殺そうとしている。
俺の残りの人生の使い道を、どうしてくれる。
もうこれ以上、馬鹿な頭で生き方を考えるのは、真っ平御免だ。
「躾…?それが必要なのは、顔を合わせるや否や噛み付く馬鹿犬…つまり、手前の方だグレイド!」
両手を広げ、爪は天に。
声を荒げれば荒げる程に感情が昂り、それに伴ってぐつぐつと煮え滾った魔力は、俺の中で腹を鳴らしている居候の、大好物。
その消化が済めば、神が平等に与えし枷を操作する権限が、我が手中。
「いつの間に此処までの力を…かはッ!」
刹那的に降り注いだ、衝撃。
見えない力によって床へと叩き付けられたグレイドの体が、壊れた。
骨と床が砕ける音、心臓が破裂する音、そして、彼の苦痛が至上のハーモニーを奏で、俺の耳をもてなした。
こんな事に悦楽を感じてしまうのは、腹の中で涎を垂らす何かのせいであり、俺自身の醜さではない。
そう考えるように努めているのは、力が意識を呑み込もうとする恐怖への、抵抗だった。
これが、正真正銘俺の欲求であると認めてしまえば、すぐにでも闇に陥落するという、確信があるのだ。
ただ何方にせよ、リミッターを超える力を望んだ俺に、興奮に浸っている余裕はない。
アイツがすぐにやってくる。
多量の魔力を一気に消費した、反動が。
転移者の心臓の力で間も無く蘇生したグレイド。
その手の平が、無防備にふらついた俺を捉えていた。
「クッ、熟面倒な男だ…!」
「同感だな」
銃口、即ちグレイドの腕が、無慈悲に斬り落とされる。
奴に同調しながらも、反撃を許さなかったのは、一度、ルーライトのバーで半殺しにした女、ジェシカ・グリーンウッドだった。
赤い髪が引き連れてきた風の残滓が、まだ消えない。
彼女は、その身に一つしかない命を奪おうとした極悪人を救うために、戦場を駆けたのだ。
そして、既に動いていた、もう一人。
「…リリィ!」
「大地よ、星よ、全ての命よ。至上の剛腕で咎人を救え、衆生済度」
神聖な祈りのような、聞き慣れない言葉の羅列。
その美しい声に振り返った俺とジェシカ、グレイドに影を落としたのは、パズルのように組み上がった、巨大な岩の拳だった。
俺とは違い、魔素を純粋に輝かせる魔法使い、リリィ・ベイリー。
彼女が放った、これまで対峙してきた魔法とはまるで別物の神々しさに、驚いている暇はない。
鉄槌の巻き添えにならないよう、俺は急いで屈み、ジェシカは横へと飛んだ。
治療中の隻腕を抑え、迫りくる神の一部を睨みつけたグレイドは、炎の防壁を建築。
その燃料は、高過ぎるプライドだった。
「私を見下ろす不敬、万死に値する!」
「残念、宇宙の元では皆平等よ」
有難い説教通り、拳は拒絶などものともせず、紫の壁を突破。
そのまま押し潰され、崩壊した床と共に落下したグレイドに、悲鳴すらも上げさせなかった。
もしかしたら、木材が粉砕される音で上書きされただけかも知れないが、同じことである。
意外だった。
ジェシカとリリィが、この殺し合いに参じるとは。
強い言葉で吠えた俺の姿に怯え、固まっていた若者たちは、己の中に走る恐怖に打ち克ち、事が始まれば援護に動いた。
ルーライトのバーで、クソガキに忠告したのを覚えている。
正義の味方を気取った奴の生き方に苛ついたのもあり、無能な仲間は不要だと、俺は脅すように言った。
蓋を開けてみれば、ただの人間の、それも若い娘が中々の戦力になっているではないか。
シャッツ以外の人間と共闘したのは、前回が思い出せない程に久しぶりで、むず痒い事この上無い。
「…チッ、黙って見ておけばいいものを。最近のガキは、どんな教育受けてんだ、あァ?」
「この状況で、良くそんな事言えたもんだな。尊敬の念すら覚えるぜ」
「バルカン様に敬意を持つとは、良い心掛けです」
俺は褒めたつもりだったのだが上手く伝わらず、身を起こしたジェシカが皮肉を言う。
それを言葉通りの意味で受け取ったシャッツは、上機嫌に目を閉じて頷いていた。
会話は見事に嚙み合わなかったが、そんな失敗も含め、心地良い。
生温かい感情が、俺の捻くれた心を包んだ。
もう数秒で良いから、この緩んだ空気を味わっていたかったが、それは望み過ぎというもの。
ジェシカの髪の先端が、ジュッと焦げるような音を立てたのをきっかけに、全員が集中力を取り戻し、身構える。
揺れる赤髪を焼いたのは、蛍の如く宙を舞う、紫色の火の粉。
気付かぬ間に空気中に広がっていた、大量の光の出処を追っていくと、崩壊した舞踏場に生まれた奈落から、片翼の天使が浮かび上がってくるのが見えた。
血に染まった黒髪の上を平行に付き纏う光の輪も、コートの破けた背中から生えた翼も、何方も同じ至極色に燃えている。
右腕は、無い。
どうやら、飲み込んだ心臓の在庫が切れており、岩の拳に引き千切られた左脚も、そのままだ。
その姿の禍々しさに、神の使いらしさは微塵も感じられなかったが、片翼片足であっても、体を浮遊させて移動している。
そして何より、グレイドの頭に飾ってあるアレは、まごうことなき、天使の輪。
「可愛い輪っか…お似合いじゃねえかよ」
平然を装った俺は、馬鹿にしているのが伝わるよう、くいと顎で指した。
これは、鷹どころか、竜が隠していた爪。
何が始まるのか、どれだけの力に襲われるのか、想像も付かない。
ただ、人生最大の危機であるという一点だけは、阿呆な俺にでも、理解できた。




