第33話 希望
赤い空の不気味さに臆した雲の集団が、足早に逃げていく。
もしオーランドさんが羊を飼えば、あんな光景が見られるのだろうか。
割れた花瓶の破片を拭いた雑巾を洗いながら、もの言いたげな窓の外の風景に、気を取られていた俺。
しばらくぼーっとしていたが、微かな痛みによって、正気を取り戻す。
雑巾に触れた指先から、ぷくっと赤風船。
綺麗に洗い流したつもりになっていたが、まだ欠片が残っていたようだ。
オーランドさん、そしてロビンと家族になる。
その提案を飲んだ先の未来を想像すれば、穏やかな大地の中で自然と共生する、のびのびとした生活が。
それも良いのではないかと、考えてしまう。
しかし、実の息子を失ったオーランドさんに、同じ苦しみをもう一度味わわせる訳にはいかない。
俺の中の怪物がいつ暴走してもおかしくない現状で、無責任に甘える気にはなれなかった。
「ねえ、ロビンはまだ帰ってこないの?」
名残惜しさに再び雲を眺めていた俺に、リリィが問いかけた。
昼間あれだけ甘味を摂取したというのに、既に腹を空かせているらしい。
言われてみれば、もうすぐ晩御飯の時間を迎えるというのに、未だにロビンは姿を見せない。
「…リリィ、さっき花瓶を倒したの、お前じゃないよな?」
「何の話?私は寝室で魔導書を読んでいたけど」
質問に答えずに質問を返すと、リリィはムッと顔を顰める。
花瓶を割ったのが彼女でないのなら、やはりあの時リビングに居たのは、ロビン。
もしかしたら、オーランドさんに叱られるのが嫌で、出てこれなくなってしまったのかも知れない。
「もう一回畜舎を見てくる。オーランドさんにも伝えておいてくれ」
言い残した俺は、テーブルに置かれたライターとランプを拝借する。
小走りで空の下に出ると、寝ぼけた星たちと正対。
まだ夕日の光の失われていない世界に、ぽつぽつと出勤していた。
「…要らなかったな、コレ」
ランプを持ち出したことを後悔し、呟く。
畜舎の方向へと続く足跡が、ハッキリ残っていた。
ロビンの捜索と説得にそれ程時間は掛からないと踏んだ俺は、悠々と出発。
歩きながら目で辿っていくと、足跡は一度畜舎の中に入り、それから放牧地の方へ。
不思議だったが、一先ず中を確認しておこうと考えた俺は、畜舎の扉に手を掛けた。
「ロビン、出て来いよ!オーランドさんも大して気にしてな…」
呼び掛けは、その場に蔓延していた違和感の靄によって中断される。
もう夜が近いのにも拘らず、馬房の扉が開放されており、休んでいるはずの家畜たちが一匹残らず姿を消していたのだ。
その謎を解き明かすための時間的猶予は、ない。
背後に何者かの気配。
共に、刃物が風を切るような鋭い音が迫ってきていた。
首筋が狙われていることに勘付き姿勢を落とした俺の頭上を、殺気が通過。
前転して距離を取った俺は、嫌な予感に苛まれつつも首だけで振り返り、案の定、そこに居た青年を睨んだ。
「遊びにしては度が過ぎねえか…ロビン!」
「流石、オーランドが欲しがるだけのことはあるね」
遠くで焼ける夕日の手前で、義足を高々と上げたロビン。
水色だったはずの角膜に赤い残光が付いて回っており、彼の身に何かが起こっているのは一目瞭然。
瞼を囲うように黒色の硬い組織が浮かび上がった顔には、悪意が顕在していた。
天使の様だった昨日と、対照的な笑みである。
「一体何があった!どうしてそんな姿に…」
言い終える前に、光を連れた鉄の怒りに再び襲われる。
反応した俺が身を躱すと、横を通過した一撃は、背負っていた畜舎の壁に大穴をこさえた。
当たり所が悪ければ、人が死ぬ威力だ。
理由は見当もつかなかったが、ロビンが俺を殺す気である事は認めざるを得ない。
「組手の時も油断して一本取られてるんだから、簡単に口を動かそうとしちゃダメだよ」
「うるせッ…!」
反論しようとした瞬間、また同じように攻撃され、今度は左にあった馬房の柵が壊れた。
心が見透かされているような不気味さに、こめかみを冷や汗が伝う。
対して、ロビンはニヤリ。
「安心して。心までは読めないから。…ただ、どんな些細な悪戯だって、僕は見逃さない!」
ロビンが話す隙に、ポケットの中で握ったライター。
武器代わりに取り出したそれは、見計らったかのような回し蹴りによって、弾き飛ばされてしまった。
あの悪魔の瞳が挙動を漏れなく捕捉し、状況を打破する可能性の芽を摘み取っているのだ。
本来ライターなど頼らずとも、魔法がある。
獣はロビンの力に触発され、檻の中で牙を剝き出しにしながら、解放の時を待ち侘びている。
しかし、オーランドさんが心底愛し、育ててきたロビンの命を奪う選択など、取れる訳がなかった。
「馬は、ホープはどうした!」
「ホープ?殺されたよ…馬共の凶悪な蹄にな!」
「嘘だ…そんなはずないだろ!あれだけ仲が良かったんだ、きっと何かの間違いに決まってる!」
ロビンの足に意識の八割を割き、残りの二割で口を動かす。
鋼鉄の蹴りが嵐のように降ってきたが、致命傷を避けながら、飛び散る木片の奥にいるロビンに訴えかける。
探していたのは、会話の中にあるであろう突破口。
ロビンを説得して落ち着かせる事だけが、共に生き残るための唯一の手段だった。
そんな俺の目論見とは逆に、彼の真っ赤な瞳は更に熱を帯びていく。
「ホープが奪われた怒りを、親友の体温が奪われていくあの絶望を、お前の勝手で嘘にするなァ!」
そう叫んだロビンによる、柔軟な体を活かした打点の高い踵落とし。
俺は後方に飛んで直撃を回避したが、踵が地面を砕いた拍子に発生した、衝撃の波に巻き込まれる。
吹き飛んだ体は穴が開いて脆くなっていた壁を貫通し、畜舎の外へ。
大地に何度もバウンドした俺は、肺から返ってきた酸素を唾液と共に吐き出し、不安定に数回呼吸。
あばら骨が破壊されてしまったせいで、息を整えようと努める度、痛みが邪魔をする。
「理想にのめり込んだせいで、希望は根こそぎもっていかれた。…でも今は、差別に塗れたこの世界を壊すのが、楽しくて仕方がないんだ!」
横たわる俺に向かって、瓦礫と雪を踏む音、そして意味の分からない独り言が近付いてくる。
あれだけ激しく義足を動かしていたというのに、ロビンは息一つ乱していない。
彼はオーランドさんの下で培った戦士としての地力の上に、根源の暴走によって生まれた力を加え、人間離れした能力を手に入れていた。
その表情は、正に幸福の絶頂。
「俺も笑えるのか…?あんな風に」
常識の枠から解放されたロビンが、生き生きとした様に胸を打たれた俺は、迷いを虚空に吐き出した。
思うがままに暴れ、殺し、全ての生命を屈服させる。
そんな未来に、憧れに近い感情を抱きかけたその瞬間、頭に過ったのは、リリィと共に歩んできた旅の記憶。
彼女だけではない。
関わってきた様々な顔ぶれが、人として生きる俺を肯定し、望んでくれていた。
この世界に来て、俺は孤独ではなくなったのである。
この土壇場になるまで忘れていたのは、不幸を嘆きすぎて、既に手中に収めていた幸せが、霞んでしまっていたから。
ロビンのように狂気に身を委ねてしまえば最後、折角手に入れたそれを、捨てる事になる。
もうあんな寂しい人生を送るのは、絶対に嫌だ。
自らの、過剰な被害者意識が馬鹿馬鹿しい。
いい加減に力と、何より過去と折り合いを付けなければ。
逃げることを止めた俺は、悍ましい狂気を封じていた檻の鍵を、捻った。
「『哀れみ』、最後の勝負だ」
互いにニヤリと笑った根源の意思と俺は、もう一度あの頃の記憶に立ち返った。
希望の一つすら見つけられなかった、空っぽな記憶に。
◇
単色で描かれた、面白みのない人生だ。
厳しい訓練を受け、興味のない情報を頭の中に叩き込む。
その単調なサイクルは幼かった俺の精神を確実に蝕み、未来への好奇心に満ちていた瞳は、徐々に曇っていった。
訓練中に胃の中の物を吐き出す姿を、遠巻きに眺めるメイドたちの目に、哀憐の情。
泣き喚く過去の俺を、頬杖を突いて鑑賞する根源の意思。
それに並んで、数々のトラウマを直視する。
決して気持ちの良いものではないが、過去を根こそぎ掘り起こすのは、これが最後だ。
「何度見ても、哀れな姿だねえ」
「…そうだな。言われるがままの、操り人形。誰もが俺の事を見下していた」
「僕を受け入れれば、そいつらだってひれ伏すさ。弱者の人生とはこれでサヨナラ、快楽に満ちた最高の日々が君を待っている!」
俺の諦めたような言葉に興奮した根源の意思が、両手を広げて叫ぶ。
周囲には勝色の炎が渦巻き、そこから発せられるザラザラとした恐ろしい音が、返事を急かしてきた。
根源の意思の声色は確信を得た風で、彼に歯茎があれば、きっと剥き出しになっていただろう。
しかし、そうやってカタルシスに備えるのは、時期尚早。
俺は、彼の望みを叶えるために此処に訪れた訳ではないのだから。
「盛り上がっているところ悪いが、俺は二度と人殺しはしない。それを伝えに来たんだ」
「…は?」
意外だったのか、宣言した俺と目を合わせた根源の意思は、暫く呆然。
開いた口が塞がらない彼の心中を反映するかのように、うねる炎は徐々に力を失い、暫くすると、もう一度燃え盛る。
「な、何を言っているのさ…?僕らの中にある黒い感情は本物だ!もう忘れたなんて言わせないぞ…賢者に心を壊された瞬間を!」
正気を取り戻した根源の意思は、駄々をこねる子供のように手を震わせ、怒りの矛先を俺に向ける。
すると、足元を中心に世界が歪んでいき、景色はじいちゃんに連れられた、あの丸太小屋での記憶に。
必死に笑みを作った彼は、床に捨てられた飴玉に口を近付ける少年の背中を踏んで、叫び散らかした。
揺さぶりを掛けようとする彼の狙いが、今は手に取るように分かる。
これまでは奇妙な存在として、自らと切り離して考えていたが、彼は紛れもなく俺を構成する一部。
いや、一部と言うには大き過ぎる存在だ。
それでも、膨れ上がった意思に振り回される事は、もう無い。
「…埃まみれで最悪の舌触りだったな。もう二度と飴なんて舐めたくない」
「当たり前だ。こんな醜態を二度と晒さないために、僕が生まれた!」
俺がぼやくように言うと、同調した根源の意思は牙を露わにし、唾を飛ばす。
はっきりと認識できる訳ではないが、涙を流しているようにすら見えた。
俺の表層心理に完全に溶け込み、一つになる事で、孤独から解放される瞬間を、彼は夢見ていたのだ。
そんな叶わぬ夢に縋りつく彼の手を、引き剥がす。
寂しく笑い返した俺が出した、あの記憶の結論、解釈によって。
「でもな…この鮮やかな七色と濃い甘さに、確かに俺は知らない世界を夢見たんだ」
余りの惨めさに一度は閉ざした記憶。
だが、過ぎる時間を拷問の様に感じていた俺にとって、それは辛いだけのものではなかった。
あの時知った希望が自らの根底に在り続け、原動力となってくれたおかげで、日々の苦しみを耐えることができたのだ。
屋敷の塀を越えれば、無限に未知が広がっている。
そんな理想通り其処にあった虹色の道を歩き、俺は掛け替えのない存在に出会えた。
「お前は『哀れみ』なんかじゃない。ずっと俺を支えてくれた『希望』だ」
心からの感謝を両腕に込めて、根源の意思の体を優しく抱き締めた俺が、言い切った瞬間。
過去の記憶を映し出していた空間が硝子のように割れ、色とりどりの優しい光が漂う、一面の花畑に変化した。
あの記憶を価値あるものとして再定義した俺の心に、やっと咲いた花だった。
「クソッ、もう少しだったのに…クソォ…!」
根源の意思は俺の服をギュッと掴み、足元の青い花へ無念を零す。
すると、胸の中で肩を震わせる彼の背中から、黒い何かが煙のように溢れ出し、みるみるうちに色や形が別物に。
そうやって最終的に形取ったのは、幼い頃の俺の姿。
声変わり前のあどけない声が、言った。
「もう僕らは、本能のままに暴れて腹を満たす、獣の道には戻れない。他人を傷付ければ自らも同じだけ心に傷を負う、一番過酷な道を選んだんだ」
「ああ、分かってる」
俺が頷くと、今より短い黒髪がゆっくりと持ち上がる。
そこには、鏡でよく目の当たりにする何の変哲もない茶色い瞳。
しかし今は、希望の色が映り込んで、閃々と輝いていた。
「…でも不思議だな。今は何処までだって行けそうな気がしてる」
浮かべた満面の笑みに釣られて、真剣だった彼も破顔一笑。
そうして少しの間、二人一緒に笑い合っていた。
きっと、この一面の花畑が枯れることは無い。
俺の心の中で、永遠に咲き続ける。




