第30話 凍り付いた時計
リリィも、オーランドさんも、ロビンが居たはずの場所に舞った土でさえも。
万物がコマ送りになり、もしや、というマイナスの想像を搔き立てる。
この間、実際に消化された時間は数秒。
だが、人を殺めたかどうか、その事実が鮮明になるまでのたった数秒間は、永遠にすら感じられた。
「大丈夫か、ロビン!」
時間感覚が狂ってしまった俺の頭が、オーランドさんの急いた声に叩き起こされる。
ハッとした俺は、定点でフリーズしていた視線を、おっかなびっくり足音が向かった方へ。
そこでは目を回したホープとロビンが、泥だらけで団子になっていた。
「ホープ!?急にどうしたのさ!」
驚いたロビンが問いかけたところで、牛はただモウと鳴くだけ。
そうなると分かってはいても、問い質さずにはいられないような、おかしな事象が発生していた。
いまいち状況を理解できずその場で呆然としていると、ザッ、ザッ、という草を踏む足音が俺のすぐ後ろで止まる。
「あの牛、柵の向こうから全速力で突っ込んできて、ロビンをふっ飛ばしたのよ」
簡潔に説明したリリィは、ロビンに顔を擦り付けるホープの姿を、優しい瞳で、穏やかな笑みで眺めていた。
動物の心の中を証明する術など無いが、懸命な鳴き声は明らかに無事を喜んでおり、彼らの間には平和な空気が流れている。
先程までの緊迫感が、嘘のようだ。
「ユータも無事で良かった。…でも、もう戦いからは離れるべきよ。たとえそれが、命のやり取りでなくとも」
最低限の声量でそう促された俺は、すぐに手足、指先、最後に背中を確認する。
水を差され、根源の意思の興が冷めたか。
乗っ取られていた体は俺の制御下に戻っており、背に生えた真っ黒な翼も、綺麗さっぱり消滅していた。
そうやって状況を把握していく内に実感が湧いてきた俺は、思わず頭を抱える。
再び血濡れにならずに済んだ代わりに、汗だくとなった、この両の手で。
「また、人を殺すところだった…!」
恐怖を口にすると、自覚が加速した俺の体は、小刻みに震え出す。
優秀な家畜が飼い主の危機を嗅ぎ取ってくれなければ、人生二度目の殺人行為は、間違いなく達成されていた。
既に殺人者だからといって、人の命を、それも恩人の息子の命を奪う事など、俺には到底受け入れられない。
精神が痩せ細り、呼吸が困難になってしまった俺がその場でえずいていると、丸まった背中にぷにぷにとした何かが。
未経験な感触の正体は、馬の鼻。
騒ぎを知った数頭の馬が、ぞろぞろと集まってきたのである。
彼らは心を壊した俺を案じ、太い首を下げて寄り添う。
「俺は、お前らの飼い主を殺しかけた。慰められる権利なんてない…!」
自責の止まらない俺は馬の頭を何度か押し返したが、それでもしつこく近付かれ、数回目で引き剥がすのを諦めた。
馬体の影で涙を流す度、煩い心の波が段々と静まり、安定していく。
言葉が通じないからこそ生じる愛の表現が、罪を犯しかけた俺を許せるだけ許す。
やがて、発作のような症状が落ち着いた頃、自然と馬群は散り散りになった。
極寒の牧場に俺だけが取り残されないよう、黙って側で待っていてくれたリリィ。
彼女がふと、空を見上げた。
「また降ってきたわね、雪」
馬たちに与えられた熱が、余程温かかったのだろう。
俺は、離れていく馬の毛が濡れているのを見てようやく、空から雪が降っていたことに気が付いたのだった。
◇
暖炉の炎が配った熱のおかげで、手先に血流が巡ってくる。
俺の隣で温めたミルクに口を付けているリリィも、ローブの袖の中に指を仕舞ったまま。
氷点下の酷寒は、人類から平等に体温を奪っていた。
窓の外では緩やかだった雪が寒風を吸い込んで膨らみ、肥えた体を重ねる。
辺り一帯は白に染め上げられ、あんなにも広大な牧場の緑ですら、もう顔が見えない。
「今年は冷えるのが早いな。もう放牧も限界か」
疲れ切ってしまい、ソファでぐっすりと眠るロビン。
その肩に、分厚いタオルケットを掛けたオーランドさんが呟いた。
彼はロビンから少し離れて腰を下ろすと、敢えて誰とも目を合わせずに、指を組む。
「動物は、人間の深い部分を嗅ぎ分ける。人同士では気付けないような変化を察して、一方的に愛を配る。…あいつらと生きていると、優しくなれるのが良い。愛は伝播するからな」
常のちょっとした子供っぽさを何処かへやってそう語ったオーランドさんは、砂糖の入っていない珈琲を啜る。
彼の話は興味深いが、内容が肝心な訳ではない。
切り出す役割を、負ってくれただけだ。
俺は空気を読んで会話のラリーをするべきか考えたが、最終的には自らの若さに甘え、率直に質問することにした。
手合わせの中抱いた違和感の、正体について。
「聞いてもいいですか?…ロビンの足の事」
眠るロビンの下半身は殆どがタオルケットに隠れていたが、靴下とデニムの隙間からは、人体とは正反対の鈍色が覗いている。
勿論、触れ辛さもあった。
だが、思いつめた俺を気遣って動物と触れ合わせてくれた彼らの事を、何も知らずにこの家を後にするのは、嫌だ。
「五年前、此処で魔獣の集団暴走が起こったのは知っているか?」
「…メドエストの酒場で、アシュガルド出身の戦士から聞いたことがあるわ」
問いには、リリィが答える。
ソファの上で頬杖を突く彼女の、細まった瞳に憂鬱。
メドエストの地下室で燃え尽きたあの男を思い出せば、愉快という訳にいかないのは、俺も同じ。
そんな事など知る由もないオーランドさんは、リリィの声色の変化を気にせずに、続けた。
「タイミングが悪かった。ロビンが転移してきたのは、狂暴化した魔獣のど真ん中だったんだ。助けを求める声に気付いた俺は、魔獣に喰われかけていたこいつを、左目を代償に取り返した。くたばってもおかしくない大怪我だったが、何とか生き残ってくれたよ」
「成る程、それであんな重苦しい義足を…」
「何せ、俺とドクはアシュガルド軍の義肢装具士…まあ、戦争で嫌気が差した俺は、ロビンの足を手掛けたのを最後に引退したから、元、だがな」
「戦争、それって…」
「きっとガルダさんが言ってた、ルーライトとの戦争よね」
深刻さの中に、懐かしさを交えて言ったリリィが頷いた瞬間、ゴトッという悲しい音。
驚愕に塗れたオーランドさんが、手に持っていたマグカップを床に落としたのである。
オフホワイトの絨毯が黒く汚れると、温厚な大人は一変、攻撃的な感情が見え隠れ。
暴れ出しそうな憤怒を前に、思わず身構えた俺とリリィに差し向けられたのは、まさかの問いだった。
「ガルダ・ベイリー…妻と息子の命を奪った化物の名が、何故お前等の口から出てくる…!」
並んで目を見開き、悔悟する。
俺たち二人にとってどれだけ被害者であろうと、アシュガルドの民から見れば、ガルダ・ベイリーは殺戮者。
居心地が良過ぎたからか、そんな当たり前を忘れてしまっていた。
「まさか…我楽多と繋がりがあるのか?」
同じ調子で問いを更に具体化するオーランドさんの、短い黒髪が震える。
追い詰められた俺の頭にはその場凌ぎの嘘が過ったが、心の目が発達した彼に、通用するとは考え辛い。
そもそも悪事を働いた訳でもないのだから、観念して正直に話すのが吉であり、誠意。
ロビンの事情を聞いておいて、此方だけひた隠しにするのでは、ダブルスタンダードだ。
「俺たちはベイリーの名を継いでいます。メドエストのスラムに身を置いて孤児を育てていた彼女に、命を救われました」
「下らない嘘を吐くな!あの冷酷な魔女が、善意など持ち合わせているはずがない!」
「過去に犯した罪を忘れず、苦しみ続けていました。冷酷だなんて思った事は、一度もない。…俺にとっては、大切な母です」
喚くオーランドさんの激情に応えるよう、真っすぐ目を逸らさない。
他人である俺を気にかけてくれたオーランドさんも、命懸けで共闘した強い母も、何方に対しても誠実で居たかった。
甲斐あってか、感情の濁流はゆっくりと鳴りを潜める。
大きく息を吐いた彼がドスンとソファに座り直した頃には、いつも通りの雰囲気を取り戻してくれていた。
「…数奇な運命だ。気まぐれで家族の敵の息子を家に迎え入れていたとはな。いつまでも引き摺っているなと、あいつに叱られている気分になる」
「…オーランド」
寂し気に言ったオーランドさんのライターが煙草の先に火をつける寸前、ロビンが寝言を零す。
肩でピクリと反応した彼は少しの間躊躇ったが、結局それらをポケットに戻した。
「…ロビンを寝室に連れていく。すまないが、マグカップを片付けておいてくれないか」
オーランドさんは俺たちの返事を聞く前に、ロビンの体を両手で抱き、揺らさないように気を配りながら寝室へと消えていく。
きっとその後ろ姿は、血の繋がった誰かよりも親の形をしていた。
◇
「今日の世話は全てロビンに任せてある。お前たちは俺と一緒に来い」
翌朝、食事を終えた俺とリリィは、オーランドさんに引き留められた。
気まずさが後を引いてはいたものの、恩返しの約束をしていた以上、家主である彼への反抗などあり得ない。
素直に従った俺たちは、鞄を肩に掛けた広い背について、外へ。
連れ出された先は、一面の銀世界。
何処もかしこも一様に、真っ白に化粧され、日の光を浴びて輝いている。
人生で初めて積もった雪を踏むと、体がだんだんと沈んでいく面白さが俺の心をくすぐった。
そんな北国らしい景観を味わいながら数十分、ようやく目的地に到着。
大量の墓石が立ち並ぶ霊園に、到着した。
雪を被って見分けの付き辛くなった墓石の間を、迷わず一直線に歩いたオーランドさんは、二つ並んだ墓石の前で足を止め、それらに積もった雪をどかす。
「妻と息子の墓だ。二人とも、戦士として国境で死んだ。国で仕事をしていた俺だけが、むざむざと生き残った」
「…ガルダさんがこの国でどんな存在なのか、もう少し考えるべきでした」
「いいさ。お前等に悪意も罪も無い事は分かってる」
鞄から花を取り出して墓石に添えたオーランドさんは、人差し指で頭をぽりぽり。
謝罪する側とされる側で真逆の立場だったが、彼は彼でばつが悪そうだ。
そんな気まずさから逃げるように、彼は昔の話をすぐに再開する。
大切な家族を失った、戦争についての話を。
「…ルーライトとの戦争は悲惨なものだった。特に序盤戦は一方的さ。魔法という対人兵器によって、アシュガルド軍は蹂躙された」
「意外ね。国土の差を考えたら、アシュガルドの兵力は無限にも思えるけれど」
「国土の広さも人口もアシュガルドの方が遥か上。そんな優位性を吹き飛ばす程、魔法という力は人殺しのために進化していた。勝利どころか、均衡を保つ事すら夢物語に思えたもんだ。…兵士の再利用と強化。それを可能とした、あの日まではな」
「本物の手足のように動く鉄の義肢…他の国で扱っているのを見た事がないわ」
両足に義足を装着したロビンは、畜舎での作業中も俺とリリィに違和感を抱かせなかった。
組手の時のような激しい動きをすれば別だが、日常生活では鉄が擦れる微かな音ですら聞こえてこないのだから、造りは精密である。
その上、義肢による蹴りの威力は常人のそれとはかけ離れており、軍事利用前提の技術だという話も、あっさり腑に落ちてしまった。
「人の尊厳を奪うとされて、戦後すぐに禁じられた技術だからな。他所の国に漏洩させる訳にはいかない」
「尊厳を奪う?人を救える技術じゃないですか」
「…ユータ、俺はな、もう戦いたくないと心を閉ざした兵士に義肢を取り付けて、無理やり戦地へと送り返した事がある。そいつは死んだよ。首を吊ってな。終いには、戦争の長期化に焦った軍部が、親から貰った四肢を切り落とし、義肢を取り付ける事を兵士たちに強要していた。この国は、力に取り憑かれていたんだ」
力に取り憑かれていた、というオーランドさんの言葉に、ステナの禍々しい姿が脳裏を過った俺は、黙って俯いた。
時に人間は目的に前のめりになり過ぎて、才能の使い道を誤ってしまう。
それは決して他人事ではなく、根源の力に操られてしまえば、俺も何をしでかすか分かったものではない。
俺が考え込み、会話が途切れる。
そんな少しの静寂を打ち破ったのは、雪を豪快に踏む足音と、男の冷めた声。
「まだこの村にいたのか、ガキ共」
後ろで立ち止まり、開口一番悪態を吐いたのは、村の酒場で俺を殴った男、ドクラン。
巨体を揺らしながら、一つ隣の墓石に積もった雪を払った彼は、手に持っている白い花を添えた。
「ロビン以外の人間を、それも魔法使いを此処に連れてくるとはな。一体どういう風の吹き回しだ、オーリー」
そう言ったドクランの声には静かな圧があり、部外者が口を挟める雰囲気ではない。
酒場で俺に絡んだ時の酔いに任せたものとは違う、腹の底から来る怒りが、小さなサングラスから漏れ出していた。
指名されたオーランドさんは、一呼吸。
墓石の奥に見える幻想を頼り、覚悟を決めた彼が、語り出す。
「なあ、ドク。ガルダ・ベイリーはあの部隊から降りて、孤児を育てていたらしい。彼らが教えてくれたよ。きっと、真実だ」
「…それが何だ!仮に事実だとして、奪われた命は戻らねえ!今更奴がどれだけの善行を重ねようと、戻ってこねえんだよ!」
「それでも!止まった時の中で蹲っているのは俺たちだけだ!あの化物でさえ罪を背負い、変わろうとしている!」
酒場の時と似た構図になるかと予想された二人のやり取りは、更に荒々しいものへと発展。
感情を露わにしたオーランドさんが、クッションの様な額に向かって、自らの額を強くぶつけ合わせたのである。
先日と違うのは、彼も同じ。
親友の恨みに対し真っ向から勝負する瞳には魂が宿っており、あのドクランですらも怯んでいた。
「恨むべきは魔法使いか?転移者か?それともあの化物か?本当はそうではないと、お前も分かっているはずだ。…いや、俺もお前も、いい加減受け入れるべきなんだ」
訴えたオーランドさんは、手袋をした左手を強く握る。
腰が砕ける程に重たい言葉の剣は、両者の心を一度に貫き、痛みを与えた。
やがて耐え切れなくなったドクランが、真っ白な地面へ、力無くどさり。
「争いを恨み、人を許す。それができる程、俺の中身はシンプルじゃねえ…!何百と組んできた鉄の義肢とは、作りが違えんだ…」
雪を握りつぶしたドクランによる、嘆くような言い訳は、敗北宣言と同義。
刺された心から溢れた血が、雪を溶かしていた。
この喧嘩だけではなく、様々なものとの決着をつけたオーランドさんは、慰めも、何も言わずにその場を後にする。
少し迷ってから、足跡を追いかけようとした俺とリリィの背中に、弱弱しい声が。
「…何もない村だがな、美味い物だけは肉以外にも幾つかある。忘れずに食っていけ」
声を掛けられた俺たちは、僅かに口元を歪めるだけ。
返事をせずに、霊園を立ち去った。
わざわざ言葉を交わさずとも、あれ程敵対心を剥き出しにしていたドクランが、歩み寄ってくれた事実だけで、十分だった。
数年間雪上で凍り付いていた時計の針は、こうして再び動き出したのだ。




