第三話 『噂は、善意の顔をして広がる』
第三話です。
噂というものは、音を立てない。
誰かが叫ぶわけでも、声を張り上げるわけでもない。
ただ、隣の人に少しだけ近づいて、
「実はね」と囁かれる。
その声は、たいていとても優しい。
私は、その優しさがいちばん厄介だと知っていた。
朝の食堂は、いつもより少しだけ静かだった。
人の数は変わらない。
食器の音も、足音も、いつも通り。
違うのは、視線の動きだ。
私が入った瞬間、
視線が一度こちらに集まり、
すぐに逸らされる。
(来た)
(あの人…)
(可哀想よね)
(でも、深入りはしない方が…)
視線の上に、そんな文字が揺れる。
誰も私を悪く言っていない。
それが、余計に苦しい。
悪意なら、怒れる。
善意は、怒る場所を奪う。
席に着くと、
向かいに座った貴族の夫人が、
少しだけ声を落として話しかけてきた。
「……大丈夫?」
その言葉は、
本当に心配している人の声だった。
(何かしてあげたい)
(でも、何が正解か分からない)
(とりあえず、声をかけよう)
「お気遣いありがとうございます」
私は、そう答える。
その瞬間、
彼女の本音が、ふわりと形を変える。
(やっぱり強い人ね)
(私だったら、もっと取り乱してる)
(だから、きっと大丈夫)
……違う。
私は強くない。
取り乱さないだけだ。
だが、
「強い」という言葉は、
周囲を安心させる。
安心は、
噂を走らせる燃料になる。
食堂の端で、
二人の令嬢がひそひそと話している。
(泣かなかったらしいわ)
(気丈よね)
(きっと、何か裏があるのよ)
――来た。
噂は、
「可哀想」から始まり、
「不思議」になり、
やがて「疑念」に変わる。
私は、パンを一口かじった。
味がしない。
噂は、
誰かを貶めるためだけに生まれるわけではない。
(同情したい)
(理解したい)
(納得したい)
そういう感情が、
勝手に物語を作り始める。
「聞いた?」
「何?」
「実は――」
その繰り返し。
誰も嘘は言っていない。
でも、
誰も真実も知らない。
庭に出ると、
噂はさらに形を変える。
(王子が冷酷だったらしい)
(いや、彼女が冷たかったとか)
(どっちにしても、うまくいってなかったのよ)
噂は、
必ず“どちらも悪い”に着地する。
そうすれば、
誰も責任を負わなくていい。
私は、噴水のそばに立ち、
水音を聞いた。
水は、
形を変えながら流れていく。
噂も同じだ。
止めようとすると、
指の隙間からこぼれる。
背後から声がした。
「……大変でしたね」
振り返ると、
以前から顔見知りの令嬢が立っていた。
彼女は、人当たりがよく、
いつも噂の中心にいる人だ。
(ここで情報を得たい)
(でも、善意の顔で)
(味方ですよ、という顔で)
「そうですね」
私は、曖昧に答える。
「皆さん、心配していらっしゃいますよ」
(心配、という名の好奇心)
(でも、それを言うのは無粋)
「ありがたいことです」
その瞬間、
彼女の本音が、少しだけ尖る。
(何も教えてくれないのね)
(やっぱり、掴みどころがない)
噂好きな人ほど、
「何も言わない人」を怖がる。
彼女は微笑み、
それ以上は踏み込まなかった。
(これ以上は逆効果)
賢い人だ。
彼女が去った後、
私は気づいた。
噂は、
私から生まれているのではない。
“私が何も言わない”ことから、
勝手に育っている。
弁明すれば、
「言い訳」になる。
泣けば、
「同情」が加速する。
怒れば、
「やっぱり問題のある人」になる。
私は、
どれも選ばなかった。
その結果、
噂は、
善意の顔をしたまま、
自由に歩き回っている。
夕方、部屋に戻ると、
机の上に小さな手紙が置かれていた。
差出人はない。
(励ましたい)
(でも、名前を出す勇気はない)
短い言葉だけが書かれている。
――あなたは、何も悪くない。
私は、しばらくその文字を見つめた。
(これで少しでも楽になってくれたら)
……ありがとう。
でも同時に、
胸の奥に、別の感情が湧く。
――「悪くない」と言われるほど、
私は「裁かれている側」なのだ。
私は手紙を畳み、
そっと引き出しにしまった。
噂は、
今日もどこかで形を変えている。
止めることはできない。
消すこともできない。
できるのは、
巻き込まれすぎないこと。
私は窓を開け、
夜風を吸い込んだ。
冷たい空気が、
頭を少しだけ冷やしてくれる。
噂は、善意の顔をして広がる。
だからこそ、
いちばん厄介で、
いちばん長く残る。
――私は、
噂の中心に立つつもりはない。
立たないことで、
誰かを安心させ、
誰かを苛立たせ、
誰かを困らせる。
それでいい。
私は、
私の速度で歩く。
噂が追いつく前に、
一歩ずつ。
それが、
この城で生きるための、
もう一つの選択なのだから。
誤字脱字はお許しください。




