その視線は果てなき1
しゅるしゅると衣擦れのような気配が十二畳ほどの部屋を乗り越えて、扉の向こうから聞こえてくる。
そいつは器用にドアノブをひねると扉を開けてオレのいる部屋へと入ってきた。
過日、オレのほほをなめていた生物がいたのを覚えているだろうか。
まずは寝床にいたままでその生物がなにか当てろ、と言われたので期待にワクテカしながらがんばった。
毛皮のある動物はだいたいなんでも好きで、特にきつねが好きだ。異世界だし、そういうのがいても良いだろうと思っていた。
蛇だった。
パイソンっていうの? 3メートルくらいある、デカイやつ。こいつはもっとデカイけど。
この部屋はもともとこの蛇のものらしい。この寝床も彼女(メスなのだそうだ)のものだそうだ。寝床というか布団だ。
108個ある来世で叶えたいこと、ナンバー25『女の布団で眠りたい』がまさか転生早々に叶うとはね!(白目
「おはよう、エリザベス」
しゃー、と歯擦音で彼女も答える。知能的には本来の3才児を上回っているそうだ。
器用に背中に載せた盆を、これまた器用に頭の上に載せ替えてオレに差し出す。載っているのは例の薬湯スープで作られた粥だ。
受け取って一口食べる。薬味のおかげでスープよりはるかに旨い。
生きる覚悟を決めてから2日。
オレは徐々に知覚範囲を広げていって半径5メートルくらいなら目でモノを見るように聞こえるようになった。さっきのように壁を超えて聞けるので、ある意味で透視もできるようになったと言えるかもしれない。
ただし色はない。
3Dモデリングのようなイメージかと思っていたが、もっと茫漠としている。シミュレーションゲームの光点で敵が表示されるマップに近い。
あれは小さくともメートル単位の縮尺だけれど、それがもっと小さくセンチ単位でも表示されている感じだ。でないと「エリザベスの頭に載った盆に載った粥」なんてわからない。
「ごちそうさま」
空にした器をエリザベスに返すと、オレは一緒に部屋を出た。
今日からは散歩に出ることになっている。
◇
玄関から出るとオレは後ろを向いてこの家を見上げた。
オレの目の前には2階建てのログハウスがあるはずだ。平らな屋根の四角い家だ。部屋数は1階だけで5つ以上あったからわりと大きい。
もちろん、見ているわけじゃないから振り返る必要なんてない。でも前世で見えていたせいか、背後の知覚はピントの合わない眼鏡をかけたみたいにぼんやりしてしまう。これは今後の課題だった。
もう一度くるりと後ろを向いて飛び石を飛び跳ねていく。
なんで子どもは飛び石でぴょんぴょん跳ねるのか不思議だったけど、3歳に戻って思い出したわ。
自分と同じくらいのサイズの石があるのめっちゃ楽しい! よく考えたら大人になっても河原の岩とかにはとりあえず登るし、そういう意味では子どもの身体のほうが楽しいことは多いのかもしれん。
「いってきまーす」
ぴょんぴょん跳ねるオレの横をエリザベスがしゅるしゅるとついてくる。彼女はオレの目付役というか、もうほとんど乳母だ。
気分はどこぞのボンボンだった。
もっともボンボンが歩くのはクソがつくほどのド田舎だ。
飛び石が接続しているのは、門も塀もない、草が生えてないってだけの土の道だ。もちろん、でこぼこしている。
道があるから村なのかとも思ったけど、他の家らしきものはまったくない。日本の田舎も隣家まで2キロとか普通にあるらしいから、そういう規模の村(?)なのかもしれない。
ラスダン踏破前提と言われたからどんな魔境かと思ったけど、むしろ長閑な雰囲気が漂っている。
本当の田舎こそが魔境だったんだよ! ナンダッテェー!!
と往年の名ルポルタージュのリアクションを取りたくなるほどの田舎だ。風景が見えないから雰囲気だけで判断してるけど間違いないと思う。
だって空気が旨いもの。
その空気が少しだけ湿気た。さらさらと葉擦れの音も聞こえる。雑木林の中に入ったんだろう。
見えない上に3才児の身体のおかげでどれくらい歩いたかわからないけど、少なくとも3才児が家から歩いていける範囲に林があるって時点で田舎は確定だろう。シティボーイのオレにはちょっとつらい。
目が見えなかったのは逆に良かったかもしれん。ネットがほしくなるもの。
今は体力がほしいけど。
旨い空気を醸し出す(物理)雑木林の中でオレはついにすわりこんだ。
「疲れた」
もともと引きこもりで体力がある方ではなかったけど、ここまでひどくはなかったように思う。……断言する自信はない。
それを前提に考えて、子どもであることを差し引いても、負ったダメージがデカかったのだろうと察せられた。
この身体はいったいなにをされたんだろうか。
てしてしと肩を叩かれる。エリザベスのしっぽだ。頭のほうはくいくいと身体を示している。
「乗れって?」
エリザベスはこっくりうなずいた。
オレはしぶしぶ彼女の背に乗った。
駕籠みたいに前後を立ててくれているのですわりやすい。目が見えないと、目の前に障害物があっても関係ないのはちょっとした利点かもしれない。
「なんだよ、もう乗ってんのか」
「ううぉあ!?」
唐突に声がした。
びっくりして落ちそうになった。エリザベスが支えてくれなかったら落ちてるところだ。
「師父か」
「そうだ」
師父というのはオレを拾ったあの男のことだ。
『老師でもいい』
『あんたが老師でオレが盲目だとオレはいずれ脱ぐことになりそうだから却下だ!』
ということがあったのと、今のオレは正真正銘子どもなので師父と呼んでいる。
この男はオレと同系の術者らしいということだったが、今ので確信した。
「耳で聞くのと逆……声を届けてるのか」
「ソード・ワールドで言うウィンドボイスの拡大版」
「せっかくぼかしたんですけど!?」
師父とは前世が同世代と思われた。
「んで、自由に散歩していいって話じゃなかったか?」
エリザベスは勝手にしゅるしゅると先へ進んでいる。
「どこに向かってんの?」
「お前が落ちてた場所。現状把握には最適」
「落ちてた……って」
もう少し言葉があるだろうに。
◇
家を出るときに見上げた首の角度を15度とすると、その6倍ほどの角度で見上げている。
たぶん、目が見えたとしても上の方は見えないだろう、と思える空気が流れている。
連れてこられたのは急勾配の崖だった。
「これは確かに落ちてるわ」
エリザベスの背の上で、オレは口を半開きにしてこの崖に見惚れていた。
中国だったかチベットだったかの、羊だか山羊だかが登ってる、あの崖を思い出す。
パソコンの前で、あんなところでは生きていたくないと思っていたのに。
人生わからんもんだ。
「だろ?」
崖のふもとには、木のうろのような、横に長い洞窟が空いていた。たぶんオレはそこの入口辺りにいたんだろう。
よく生きてたな。いや、肉体的には死んだのか? 結局そこはわからないままだ。
「ここは帝國の児捨て場だ」
「児捨て場?」
「帝國の風習で、貴族の子どもは数えで4歳の春までに父と話せない子どもはここに捨てられる」
数えで4歳ってことは満年齢で3歳くらい? 幼稚園児の年少で父親と話せないとか……。
「そんな奴いるのか?」
「お前とか」
そう言われるとそうなのかもしれんが。
「この身体は帝國の貴族の子ってこと?」
「その上訳ありだろうよ。執拗に目が傷つけられてる」
「ふーん」
てしてしと肩を叩かれた。エリザベスのしっぽだ。頭はじっと一点を見つめている。
オレも気づいた。感知圏内ギリギリに生き物がいる。3匹。
その生物はイヌとネコの間くらいの獣のようだった。大きさは大型犬くらいだろうか。イヌに近いのかもしれない。
「オレはハイエナって呼んでる。サバンナの勇敢なハイエナと違ってマジで屍肉と弱い奴しか狙わない」
師父の解説を聞きながらオレはエリザベスの背中から降りた。
その途端にハイエナは猛烈な勢いでオレたちに迫ってきた。
お前それサバンナでも同じ事言えんの?
って煽りが思い浮かんだ。
オレは言えないわ。
ハイエナすらヤバイ。
それ以上に、目が見えないってのがヤバイ。
感知してたはずの3匹があっという間にどこにいるのかわからなくなった。
ほんの2メートル先でエリザベスが3匹とも押さえていたのに気づいたのは、しゃー、とエリザベスが歯擦音を鳴らしてからだった。
「スゲェ……」
頭は1匹の首筋に噛みついて完全に殺していた。
尾と胴体も残る2匹をそれぞれ押さえつけている。
怪獣大決戦みたいだ。
「夢中だと危ねえぞ」
師父の声に背中のほうからなにかが迫ってきたのを感じた。
振り返るまでもない。
これは4匹目だ!!
交通事故とか起こすとアドレナリンとかの影響で感覚が引き伸ばされて過去の思い出が走馬灯みたいに巡るって言うけど。
オレは限界まで引き伸ばされた世界で、今この瞬間のこの場所を航空カメラみたいに上から覗いていた。
色はモノクロだけど、位置関係がはっきりとわかる。
まずここは3才児が隠れるていどの草がまばらに生えた野原だ。
サバンナほど一面に草が広がっておらず、土に石が転がり、ところどころで草が生えている。
ハイエナどもからすれば、走りやすく身を隠しやすい環境だろう。ちょっと走れば林もある。ときどき子どもが転がっているとなれば、縄張りにする個体がいてもおかしくない。
オレの目の前2メートルにエリザベス。2匹のハイエナを押さえていて、顔はこちらに向いている。歯擦音は警戒を促す声だったらしい。首元でピクピク動くハイエナがまるで未来のオレを暗示しているみたいだ。
なぜならおれのほとんど真後ろに4匹目がいるからだ。
昔テレビで見た、隠しカメラに突っ込んでくるイヌみたいに、まったく手加減なく飛びかかっている。感知圏内より遠い間合いをまさに瞬く間に詰めていた。
たぶん1秒後にはエリザベスが仕留めたハイエナみたいになっているだろう。と思っていた。
時間を引き伸ばした世界でなお、そいつが猛スピードで真上に吹っ飛んでいくのを感知するまでは。
「は?」
どのタイミングで声がもれたのか。
どのタイミングで世界が戻ってきたのか。
ド…………ド…………、と痛いほどに脈打つ心臓だけが今オレが感知できるすべてだ。
「この界隈にいる間はオレが守ってやるけど」
ひゅるるる、と空を切る音を引き連れてハイエナが落ちてきた。原型を留めずに飛び散る。
「あんまり油断はするなよ」
「今の……師父が?」
臨死体験が衝撃すぎたのか、ふらふらしてきた。
「もちろん。オレだって風属性にはそこそこ愛されてる」
これで、“そこそこ”だと……。
「というか、そういうことは早く言え……」
「危険を認識するには事故りかけるのが一番だ」
正論だけども。
残った2匹を始末したらしいエリザベスが戻ってきた。
オレはそれだけで安心して気絶してしまった。




