ある日の屋敷
竜安寺貴子の館に着いてから二週間近くが経った。
ようやくハッキリと言える事があるのだが、ここは日本じゃないし、地球ですら無かった。だって月が二個もあるんだもん。
あと、たぶん魔法もある。だって、薪を燃やす時に手から火を出して燃やしたりしてるから。あれは魔法、さもなければ手品。それから、俺がこの館に着いた初日に首の骨が折れていたとかで、バトラーなる老執事が治療したらしいがこれもきっと魔法。このことについては恐ろしいやら、腹が立つやらなのでまた今度考えよう。
それはそれとして、まぁ、あれだ、ここはたぶん異世界(仮)。
前向きに考えれば、元の世界では俺は誰にも必要とされていなかったし、十五歳にして人生を投げてたんだから、リセットついでで良かったのかもしれない。
とはいえ、この世界も楽じゃない。俺も松尾さんも竜安寺貴子の使用人という立場である。で、これら使用人とメイド達をとりまとめているのがバトラーなる老紳士。彼の仕事はいわゆる執事の役割の様だ。執事の仕事ってなんなのか本当は知らないけど。そして、このバトラーは屋敷の使用人から実の父親の様に慕われていた。俺が初対面で親しみを感じたのも彼が滲み出す人徳の効果だったのだろう。この屋敷だけで百人程度が働いていた。さらに牧場や店、鉱山なんていうのも方々に持っているようだから、全部で何人雇っているかなんて想像がつかないレベルだった。
さらに、竜安寺本家(竜安寺貴子の父親の屋敷)があってそこではもっと大勢を雇っているらしい。そこでは家令なんていう偉そうな執事まで雇っているって話だ。
この竜安寺家は、十代半ばの娘(貴子)にまで爵位を得させて独立させている。それは勢力の拡大に信頼できる人材の供給が追いついていないことに起因しているという噂だ。それだけ『勢いがある』のに『信頼できる人材が足りない』ということで、使用人にも出世のチャンスがあるかもしれないという。
以上、松尾さんからの受け売り終了。
そんな『勢いがある』人達の歯車……と言えるほど働いてはいないわけだが、俺もその一員となった。以前の様なニートという訳にもいかず、働かざる者食うべからずといった感じなので仕方がない。とはいえ、やれることは限られていた。
当初は噴水から水を汲んで運ぶ役割を与えられたのだが、ここの使用人は松尾さんのようなプロレスラーもどきばかりだったので、貧弱な坊やである俺が運ぶといかにも効率が悪い。彼らは四人で1000キロ以上の水を運ぶが、俺の場合は精々20キロが限界である。
メイドさん達の仕事もできない。なにせ産まれてこの方15年間、家事らしい家事などやったことがないのだ。料理、掃除に洗濯全部だめ。
力仕事も家事も出来ないとなると仕事は自然と限られてくる。っていうか、なかった。で、バトラーさん曰く「君は貴子様と年齢が近いからお付きをやりなさい」ってことで、お嬢様の周りをうろうろついて行く仕事に回された。
さて、このお嬢様が俺を必要としているかというと、それは断じてない。なぜそう断言できるかというと……
信用度:0
期待度:0
親密度:0
親近感:0
好感度:0
友好度:0
と、例の数値が出てきて教えてくれた。数字は残酷だ。俺を拾った事を憶えているのかさえ怪しいレベルである。
ちなみにこのお嬢様、今飲んでいる紅茶に対しては、
好感度:10
俺は紅茶以下らしい。
まぁ、松尾さんが零した話では、俺の価値は鉄砲玉か身代わり出頭の用の人材らしいので、消費物としてそれでいいのかもしれない。竜安寺家の伝統として、身元不明な人間を何人か抱えているらしい。この俺もその一人である。出頭後にきちんと黙んまりを決め込めば、ちゃんと釈放後に見返りをくれるらしいし、死刑にはならない様に手も回してくれるという話だ。どこの暴力団であろう。やっぱり『勢いがある』連中は色々汚いこともしているのだろう。
俺にとっては『檻』が『自宅』から『竜安寺の館』に変わって、最終的には『刑務所』の文字通り『檻の中』になるってだけの話だ。『檻』の外では生きられないのだから仕方がない。自分自身がそんな諦めの境地に達しているのは、その話を聞いても未だにここに居るのが何よりの証拠である。
「しかし、あの女ったら憎たらしいったらありゃしない」
その日、お嬢様が紅茶を飲みながら荒ぶっていた。
「どこの馬の骨とも知れない癖にリチャード様に馴れ馴れしいわ!」
このリチャードというのはお嬢様の想い人であり婚約者らしい。他の使用人の話によれば、王様の甥、王弟の四男でしかも超絶美男子という話だ。
お嬢様はその生まれながらの不公平の具現者と仲良くしている庶民の女がいるとかで不機嫌なのだ。ちなみに、毎日その女性の家の玄関の前に馬糞を置くのが俺の唯一にして最大の仕事になっている。
これはお嬢さまの発案である。したがって、先ほどはお嬢様から必要とされて無いといったが、そんなことは無いのかもしれない。
使用人は基本的にバトラーさんからの指図で動いているので、お嬢様からの直接の命令というのは滅多にない。松尾さんなんかは思いっきり羨ましがっていた。馬糞を置く仕事にもかかわらずだ。なお、なんで上役でもないのに松尾『さん』なのかというと、一言で言うと怖いからだ。一度、つい呼び捨てにしてしまい胸ぐらを掴まれた。その時にズボンを濡らして以来、心の裡でも『さん』付けにしているのだ。
「良いことを思いつきました。馬の骨には、馬の骨に似つかわしい男をあてがって差し上げればいいのですわ!」
お嬢様はそんな事を言ったかと思うと、品定めをするように近くで待機してる使用人一同を眺める。
俺としてはお嬢様の色恋沙汰よりもお腹が空いた。そのことの方が切実な問題である。行くあてもなかった俺が衣食住付きで月給まで貰える立場にありつけたのは幸運だったのだろうが、ここの飯には不満がある。使用人の食事はライ麦パンっぽい黒いパンにスープのみとかが普通である。要するに貧しくて、不味い。だけど給料が良いらしくて、別途おかずも購入できる様だが俺はまだ給料をもらってないし、手持ちの金もないからそれだけなのだ。
「そこの。年齢が近そうね」
お嬢様の無駄話をBGMに昔を思い出す。昔と言ってもほんの二週間前なのだが。当時は何とも思っていなかった飯が随分と美味しく思い出される。からあげにハンバーグ、オムライス。宅配ピザなんてのも頼んでくれたな。引き籠りの俺に飯を用意してくれた親に申し訳なさがこみ上げてくる。
そんなことを考えていると突然、肘で腕を小突かれた。隣の使用人が注意してきたようだ。
我に返るとお嬢様が椅子に座ったまま、冷たい視線を真っ直ぐに投げかけていた。何か粗相をしただろうか。お嬢様が俺達下っ端使用人に直接声をかけることは滅多にないし、指示自体はバトラーさんがしてくるはずだ。だから、突っ立っておけば良かったはずだ。それが何故見られているのだろうか。激しい不安感に襲われる。
「それでは、あなたは明日から学校に行くように」
お嬢様は俺にそう言うとメイドに紅茶を注がせ一啜り。
「バトラー」
「はい。なんでございましょう」
お嬢様はバトラーさんを呼びつけた。
「あの子の入学手続きをしておいて頂戴」
「畏まりました。名前は如何なさいましょう」
「そうね。適当……いいえ、馬の骨に似つかわしく、『馬野骨造』にして頂戴」
「畏まりました」
お嬢様はそれだけ言うと、立ち上がってどこかに行ってしまった。
学校って……俺が行くのか?
中学卒業以来、数か月引き籠ってた俺が?
高校に行けなかったのに?
それがよりによって異世界で?
そんな混乱と共に異世界での学校生活が始まるのであった。