ChapterⅨ
第1話 日本海 豪華客船「セレニティ号」
真昼の日本海は、絵画のように穏やかだった。
陽光は水面にきらめきを散らし、波の揺れはまるで眠る獣の呼吸のようにゆったりとしたリズムを刻んでいる。
全長三百メートルを誇る豪華客船「セレニティ号」は、その波間を悠然と進んでいた。
白亜の船体は太陽光を反射し、甲板の上では乗客たちが日光浴を楽しみ、プールサイドではシャンパンの栓が軽やかな音を立てる。
デッキでは子供たちが笑い声をあげ、家族連れや老夫婦が海風を楽しんでいた。
だが、その平和な光景の奥底には、目に見えぬ緊張が静かに忍び寄っていた。
船内ロビー。
天井まで届く大きなシャンデリアが、きらきらと輝きを放っている。
ピアノの生演奏が流れ、タキシード姿の客がグラスを傾け、ウエイトレスが笑顔でカクテルを運ぶ。
しかし、ロビーの片隅――カジノへと続く廊下の影に、数人の黒服が立っていた。
彼らの視線は常に周囲を警戒しており、その眼光は乗客のそれではなかった。
船尾の喫煙所では、無骨な体格の男たちが小声で言葉を交わしている。
「もうすぐだな」
「合図があれば一斉に動く」
その会話は海風にかき消されたが、彼らの腰には明らかに場違いな膨らみ――隠し持たれた武器の輪郭があった。
エンジンルーム近く。
整備士の制服を着た二人組が、工具箱を開く。だがその中身はスパナではなく、分解された小銃や短機関銃。
一人が笑みを浮かべ、もう一人が船内通信機に短く囁いた。
「全員、配置につけ」
その声と同時に、甲板上の空気が変わった。
まるで晴天の空に、遠く黒雲が滲み出してくるような――言葉にできぬ不穏な気配。
乗客たちはまだそれを知らない。
しかし、セレニティ号という舞台は、今まさに平和から戦場へと姿を変えようとしていた。
甲板のスピーカーから、軽快なBGMが流れ続けていた。
それは何も知らない乗客たちの耳を安心させる音だったが、その裏で――船の心臓部では、別の指令が飛び交っていた。
「――全班、開始しろ」
その一言が、全ての引き金だった。
船首の展望デッキ。
カメラマンのふりをして立っていた男が、突如カメラを放り投げ、ジャケットの内側から短機関銃を引き抜いた。
隣で写真に笑顔を見せていた観光客たちは、何が起こったのか理解する間もなく、地面に伏せるよう怒鳴りつけられた。
ロビー階では、黒服の集団がカジノへと雪崩れ込む。
一瞬でテーブルを蹴り倒し、ディーラーも客も床に押さえつけられ、チップやカードが宙を舞った。
「動くな!全員その場に伏せろ!」
怒号と同時に、グラスが割れ、悲鳴が重なった。
船尾の喫煙所。
そこにいた偽整備士たちは、エンジンルームへ突入すると、制御パネルを破壊し、航路を停止させた。
「機関停止、制御権確保」
無線の向こうで短く笑い声が響く。
客室フロアでは、廊下の両端から武装した男たちが現れ、各部屋のドアを次々と蹴破っていく。
寝巻姿の老人も、泣き叫ぶ子供も容赦なく床に座らせ、両手を頭の後ろに組ませた。
そして――最上大介が姿を現す。
艶のない黒のロングコート、無表情の眼差し。その周囲には数名の屈強な護衛。
「全員、落ち着け。これからこの船は我々が預かる」
その声は決して大きくはなかったが、場の空気を一瞬で凍らせた。
最上の指示で、制圧はさらに加速する。
通信機から流れる声は寸分の狂いもなく連携し、まるでこの瞬間のために何度も訓練してきたかのような動き。
十分も経たぬうちに、セレニティ号は完全に最上組の手に落ちた。
船は海上に停止し、甲板には監視役の武装兵が並び、船内のあらゆる出入口には見張りが立った。
海はまだ穏やかだ。
しかし、その静けさは、これから訪れる嵐の序章でしかなかった。
東京都・霞が関、内閣府地下。
大型スクリーンには、日本海上に停止したセレニティ号の衛星映像が映し出されていた。
その周囲を巡視船が慎重に取り囲むが、未だ突入の許可は下りていない。
「現時点で確認できている乗客はおよそ七百名。武装集団は最低でも四十名以上、全員が自動小銃を所持しています」
防衛省の幹部が冷静に報告するが、その声の奥に緊張が滲む。
官房長官が重く口を開いた。
「映像を拡大」
ズームされた映像に映るのは――甲板で仁王立ちする最上大介と最上圭介。
その横顔は、幾度となく捜査資料で見た冷徹な笑みを浮かべている。
「この男が“最上圭介”。先日の異世界関連事件でも暗躍していた人物だな」
国家公安委員長の言葉に、会議室の空気がさらに冷え込む。
そこへ公安の担当官が立ち上がった。
「彼の逮捕経験があり、今回の作戦にも適任な人材がいます。浪野悠、そして警視庁組対の釜野警部。さらに機動部隊を指揮する山田警部補を加えた三名です」
防衛大臣がすぐに反応する。
「例の“特殊任務チーム”か……異世界勢力とも交戦経験があると聞く。現場判断での行動を許可しよう」
官房長官が短く頷いた。
「――派遣を決定する。作戦名は『セレニティ奪還』。現場指揮は浪野悠に一任」
都内の警察庁地下射撃場。
悠は最新型の突入用カービンライフルを手に取り、マガジンを装填する。
「……あのクソ野郎、また目の前に現れやがったか」
低く呟く声に、隣で装備を点検していた釜野が笑みを見せる。
「まあ、お前の因縁ってやつだな。ここでケリつけようぜ」
山田はヘルメットを被りながら、短く指示を飛ばす。
「目標は最上組の全員拘束。人質は一人も死なせない」
廊下の奥から、防衛省の兵士たちが追加装備を運んでくる。
フラッシュバン、耐弾シールド、そして海上突入用のワイヤー射出銃。
悠はアーマーのジッパーを上げ、静かに深呼吸をした。
「行くぞ」
ヘリのローター音が夜空を切り裂く。
東京湾を飛び立った特別部隊のヘリが日本海へ向けて加速する。
その機内で、悠は最後の弾薬チェックを終え、窓越しに闇の海を睨みつけた。
遠く、月明かりに照らされた巨影――セレニティ号が見える。
甲板には無数の武装兵。
海は静かだが、その静寂は暴風雨の前触れのように重かった。
悠の視線が鋭く細まる。
「最上……もう逃がさねぇ」
第2話 拉致
冬の冷たい風が吹き抜ける中、街灯の下を雪とルイが並んで歩いていた。
二人は悠から頼まれた荷物を届けるため、近所のカフェから帰宅する途中だった。
「ルイ、寒くない?」
「うん、大丈夫…」
その瞬間、背後からタイヤがアスファルトを擦る音。
黒塗りのワンボックスがゆっくりと彼女たちの横に並んだ。
ルイが首を傾げた次の瞬間、
「動くな」
低い声と共に、スライドドアが開き、全身黒ずくめの男たちが飛び出してくる。
雪は咄嗟にルイを庇った。
「あなたたち、誰──!」
男の一人が雪の首筋に冷たい金属を押し当てる。
「静かにしろ。俺たちは“最上組”だ」
ルイの目が大きく見開かれる。
「おじさん…!」
涙声で叫びかけたその口を、すぐに布で塞がれた。
雪は必死に抵抗しようと腕を振るうが、後ろからもう一人が羽交い締めにし、
手早く結束バンドで両手を縛る。
「積め」
短い命令と共に、二人は車内へと乱暴に押し込まれた。
車内
暗闇と揺れの中、雪は目だけでルイの無事を確認する。
ルイは震えていたが、しっかりと雪を見返し、唇を噛んで耐えていた。
運転席から男の声が響く。
「セレニティ号まで直行だ。人質は二人、VIP扱いだぞ。最上さんのご命令だ」
後部座席の別の男が笑った。
「これで奴らも手出しできねぇ。悠って野郎も、あの探偵事務所もな」
雪はその名前を聞いた瞬間、怒りで全身が震えた。
(悠…来ないで、なんて言えない。お願い、来て…!)
日本海・港湾施設
午前2時、人気のない港にワンボックスが滑り込む。
そこには巨大なクレーンで荷物を積み込む豪華客船「セレニティ号」の影が浮かび上がっていた。
桟橋には最上組の武装した構成員がずらりと並び、
雪とルイが車から引きずり出されるのを無言で見守る。
「この二人、最上さんの船室に直行だ」
構成員のリーダー格が指示を飛ばすと、
二人は縄で繋がれたままタラップを引きずられていく。
暗い海風が吹き付ける中、雪は必死に振り返り、遠ざかる陸地を見つめた。
その瞳には、怒りと恐怖、そして悠への信頼が入り混じっていた。
第3話 巨大魚
銃声と怒号が入り乱れる中、悠と釜野、山田率いる警察突入部隊は、
甲板から船内へ押し込もうと構成員たちをじりじりと追い詰めていた。
「最上!観念しろ!」
悠の怒声が響く。
手すりの向こう、海風に髪を揺らしながら最上圭介がゆっくりと振り返った。
その顔には焦りも恐怖もなく、むしろ余裕を漂わせた笑みが浮かんでいる。
「逃げ場がない? 誰がそんなこと言った?」
最上は懐から、見たことのない黒い宝珠を取り出した。
表面には異世界の文字が蠢くように刻まれている。
「お前ら、異世界の本当の恐怖ってやつを知らないらしいな」
最上が宝珠を高く掲げ、異様な響きの呪文を唱え始める。
「――来たれ、“深淵の暴喰”!」
瞬間、甲板全体を不気味な低周波のような音が包み込んだ。
海面が渦を巻き、巨大な影がゆっくりと浮上してくる。
「な、なんだあれは……!」
釜野が目を見開く。
やがて海面を突き破り、
常識を逸した大きさの魚――いや、魚とは呼べないほどの怪物が姿を現した。
鋭い歯が幾重にも並び、その口は小型船すら丸呑みできるほどの大きさ。
眼窩は赤く光り、海水を滴らせながら甲板を見上げる。
その存在感は圧倒的で、甲板上の全員が一瞬動きを止めた。
「クソッ、全員後退だ!落ちたら一発で終わりだぞ!」
山田が叫ぶが、すぐに遅かった。
巨大魚が海面から跳ね上がり、
近くの最上組の構成員ごと、巡視船の一部を丸呑みにして海中へ沈んだ。
水しぶきが数十メートルの高さまで上がり、
甲板は一瞬にしてびしょ濡れになる。
悠はライフルを構えたまま最上を睨みつける。
「こんなもん呼び出して、自分の首も締めるつもりか!?」
「俺はいいんだよ。お前らが死ねばな」
最上は嘲笑いながら、後退を始める。
巨大魚は何度も海面を割り、船縁に近づく者を片っ端から喰らい尽くしていく。
逃げ場はなく、甲板は戦場から恐怖の檻へと変貌した。
悠たちの決断
釜野が歯を食いしばって言う。
「悠、このままじゃ全員やられる。あいつを止めないと!」
悠は濡れた髪を払って頷く。
「分かってる。あの魚が本格的に暴れる前に、最上を仕留めるぞ!」
その言葉と同時に、最上は船尾へと走り去る。
巨大魚の咆哮と水柱が夜空に響き、
セレニティ号は暗黒の海の中で揺れ続けていた。
日本海の夜は、月明かりさえ飲み込む黒い波で覆われていた。
セレニティ号の甲板で、最上圭介は血走った目をして両腕を広げる。掌に刻まれた複雑な魔法陣が紅く脈動し、海面全体に禍々しい光が走った。
「――来い、深淵の飢餓王ども」
次の瞬間、海が裂けた。泡と共に現れたのは、艦艇ほどの巨体を持つ人食い魚。牙はサメの数倍、眼は血のように赤く光り、鱗は鋼の鎧のように硬質だった。
一匹ではない。二匹、三匹……いや、十匹を超える影が船を囲み、渦を巻きながら回遊を始める。
「うわああああ!!」
「船が、食われるぞ!!」
客たちの悲鳴が甲板から溢れ、乗務員たちは救命ボートを下ろそうとするが、海面に近づく前に巨大魚が喰らいつき、木っ端みじんに砕いた。
悠は甲板後方でその光景を見て、舌打ちした。
「最悪だ……これじゃ逃げ場がねぇ」
釜野が無線で叫ぶ。
「山田さん!非常階段から客を上層へ避難させろ!悠、俺たちは最上を潰す!」
山田は短く「了解!」と返すと、部下たちを率いて客室エリアへ突入した。悲鳴と泣き声が通路を満たし、海獣の咆哮が壁を震わせる。
最上は舳先で狂気じみた笑みを浮かべたまま、さらに詠唱を続ける。
「足りぬ、足りぬ……もっと飢えた顎を寄越せ……!」
海面から新たな影が現れ、甲板にまで飛び上がる。床板を砕く衝撃音と共に、全長二十メートル級の巨魚が悠たちの前に立ちはだかった。
「来やがったな!」
悠はショットガンを構え、釜野はアサルトライフルを肩にかけた。
二人同時に引き金を引く。銃声と閃光が夜を裂き、弾丸が巨魚の目と口に集中して叩き込まれる。
だが、鱗を貫くには至らない。巨魚は怒りの咆哮を上げ、尾で甲板を薙ぎ払った。
悠と釜野は同時に飛び退き、壁に叩きつけられながらも態勢を立て直す。
そこへ山田の声が無線から響いた。
『客の避難は半分終わった!だが残りは中央ホールで足止めされてる、急げ!』
「釜野、二手に分かるぞ!」
「ああ……だが、あいつは絶対逃がすなよ!」
悠は最上へ一直線に走り出す。足元で巨魚が甲板を割り、海水が噴き上がる中、銃声と怒号が夜の海にこだました。
日本海の夜は、月明かりさえ飲み込む黒い波で覆われていた。
セレニティ号の甲板で、最上圭介は血走った目をして両腕を広げる。掌に刻まれた複雑な魔法陣が紅く脈動し、海面全体に禍々しい光が走った。
「――来い、深淵の飢餓王ども」
次の瞬間、海が裂けた。泡と共に現れたのは、艦艇ほどの巨体を持つ人食い魚。牙はサメの数倍、眼は血のように赤く光り、鱗は鋼の鎧のように硬質だった。
一匹ではない。二匹、三匹……いや、十匹を超える影が船を囲み、渦を巻きながら回遊を始める。
「うわああああ!!」
「船が、食われるぞ!!」
客たちの悲鳴が甲板から溢れ、乗務員たちは救命ボートを下ろそうとするが、海面に近づく前に巨大魚が喰らいつき、木っ端みじんに砕いた。
悠は甲板後方でその光景を見て、舌打ちした。
「最悪だ……これじゃ逃げ場がねぇ」
釜野が無線で叫ぶ。
「山田さん!非常階段から客を上層へ避難させろ!悠、俺たちは最上を潰す!」
山田は短く「了解した!」と返すと、部下たちを率いて客室エリアへ突入した。悲鳴と泣き声が通路を満たし、海獣の咆哮が壁を震わせる。
最上は舳先で狂気じみた笑みを浮かべたまま、さらに詠唱を続ける。
「足りぬ、足りぬ……もっと飢えた顎を寄越せ……!」
海面から新たな影が現れ、甲板にまで飛び上がる。床板を砕く衝撃音と共に、全長二十メートル級の巨魚が悠たちの前に立ちはだかった。
「来やがったな!」
悠はショットガンを構え、釜野はアサルトライフルを肩にかけた。
二人同時に引き金を引く。銃声と閃光が夜を裂き、弾丸が巨魚の目と口に集中して叩き込まれる。
だが、鱗を貫くには至らない。巨魚は怒りの咆哮を上げ、尾で甲板を薙ぎ払った。
悠と釜野は同時に飛び退き、壁に叩きつけられながらも態勢を立て直す。
そこへ山田の声が無線から響いた。
『客の避難は半分終わった!だが残りは中央ホールで足止めされてる、急げ!』
「釜野、二手に分かるぞ!」
「ああ……だが、あいつは絶対逃がすなよ!」
悠は最上へ一直線に走り出す。足元で巨魚が甲板を割り、海水が噴き上がる中、銃声と怒号が夜の海にこだました。
悠が舳先へ向かって突き進む一方、船中央の右舷側では、釜野が残って巨大魚の群れを引きつけていた。
そこへ、重低音の連射音が海風を震わせる。
甲板の影から現れたのは、分厚い防弾ベストに身を包み、腰だめにガトリングガンを構えた男――最上大介だった。
その狂気じみた笑顔のまま、回転する銃身が火花を散らし、鉛の雨が釜野たち警察隊を容赦なく襲う。
「警察どもがァ!兄貴の邪魔すんじゃねぇ!!」
大介の叫びと共に、弾丸が鉄柵をへし折り、床板を穴だらけにする。火薬の匂いが一気に広がり、隊員たちは次々と盾の後ろへ身を隠した。
釜野は低く構え、遮蔽物の影から叫ぶ。
「撃ち返せ!奴は動きが鈍い、弾を切らせろ!」
部下たちの制圧射撃がガトリングの射線を逸らし、その隙に釜野は影から飛び出した。
大介のガトリングが唸りを上げて釜野を追うが――
「くっそ!」
弾帯の残量が尽き、回転音が鈍る。
その瞬間、釜野は一直線に間合いを詰め、ショルダータックルで大介を甲板に叩きつけた。
「ぐはっ!」
大介の手からガトリングが転がり落ちる。
「お前の負けだ、大介!」
釜野は容赦なく手錠を取り出し、大介の両手を甲板にねじつける。
「離せ!兄貴がやってくれる!俺はまだ――!」
「黙れ!」
釜野は膝で押さえ込み、そのままカチリと手錠を締めた。
海の向こうでは依然として巨大魚が暴れ、セレニティ号は悲鳴と衝撃に包まれている。だが、釜野は一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
彼の目は、舳先で兄・最上圭介と向き合う悠の背中を見据えていた。
ついに最上圭介は船の甲板で悠と対峙していた。
だが、視線の端に動く影を捉える。ルイだ。悠の側にいるその少女を狙い、圭介の目に冷たい光が宿る。
「これ以上、邪魔はさせん――」
突然、圭介は素早くルイの腕を掴み、強引に引き寄せる。ルイは必死に抵抗するが、力及ばず。
「離して!」叫び声を上げるルイ。悠の目にその光景が映る。
「ルイ!」悠が咄嗟に駆け寄ろうとした瞬間、圭介はルイを高く持ち上げ、力任せに船の手すりから海へと叩き落とした。
ルイの悲鳴が荒れ狂う波にかき消され、白いしぶきが飛び散る。
悠の顔が激しい怒りに歪む。
「ルイ!」叫びながら、悠は海に飛び込もうとした。
「ルイ! ルイー!!」
悠の喉が裂けそうな叫びが荒れ狂う海に響く。
最上は甲板の向こうで嗤っていた。
「あぁっははは!!」
次の瞬間、その姿は転移魔法の光と共に消える。
「救護班!」
新田の怒鳴り声が飛ぶ。
「釜野! 俺をロープで括り付けろ!」
悠の声は切羽詰まっていた。
「おまえ、まさか行く気か!?」
釜野の目が見開かれる。それでも悠は一歩も引かない。
新田が素早くロープを腹に回し、結び目を固く締める。
「俺が死んだら、あとは頼む」
悠はそれだけ告げ、ためらいなく海へ身を投じた。
海水の冷たさが全身を刺す。視界はすぐに暗く濁り、下から押し上げるような水圧が体を包み込む。
ばしゃばしゃと必死に水をかくルイが沈みかけていた。悠は一気に潜り、伸ばした腕でその手を掴む。
「もう大丈夫だ! 釜野! 引き上げろ!」
「よっしゃ! 新田! おまえら、ロープ引っ張れ!」
複数の刑事が力を合わせ、ロープがきしむ音が響く。
その瞬間、悠の真下を巨大な魚影が横切った。
水中に漂うぬめりのある気配、ギラリと光る無数の目――。
全身が硬直し、冷や汗が滲む。
「か、釜野……! どこでもいいから撃て……!」
「くそっ!」
釜野が甲板から海面へハンドガンを乱射する。しかし弾は虚しく水飛沫を上げるだけ。
やがて悠たちは引き上げられ、甲板に転がり込んだ。
「ルイ! 平気か!?」
ルイは青ざめ、呼吸を荒げていたが、かすかに笑った。
「大丈夫……おじさんが助けてくれたから……。雪さんが……最上に捕まっちゃった……ごめんなさい……」
「なんでルイが謝るんだよ。大丈夫だ、雪も絶対助ける。三人でうちに帰ろうな」
釜野が新田に指示する。
「ルイちゃんを保護しろ」
新田と刑事たちがルイを抱えてヘリへと運ぶ。
「釜野、お前もヘリに戻れ。救助した乗客のフォローを頼む」
「……わかった。必ず戻って来いよ」
悠は笑みを浮かべ、ライフルの弾倉を確認した。
「誰に言ってんだ」
そして濡れたブーツのまま、最上のいる船長室へ駆け出した。
船長室の扉を蹴り破ると、そこには荒い息をつく最上圭介の姿があった。
その足元には、両手を縛られた雪が倒れている。
「……おまえ、まだ来るか……」
最上の額には汗が滲み、魔力の残滓が青白い霧のように揺らめいていた。もう力は尽きかけている。
「終わりだ、最上」
悠はライフルを構えたまま、ゆっくりと間合いを詰める。
「ふざけるな……俺は……俺はまだ――!」
最上は震える手で短剣を抜き、雪を盾に取ろうとした。
その瞬間、悠の銃声が轟く。
弾丸は最上の手元をかすめ、短剣を床に弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
最上が怯んだ隙を逃さず、悠は飛び込んでその胸倉を掴む。
「もうテメェの好きにはさせねぇ!」
力任せに殴り飛ばすと、最上の体は後方の扉を突き破り、甲板へと転がり出た。
夜風が吹き荒れ、船の先端に追い詰められた最上の背後には、暗く荒れた海が広がっている。
遠くで雷鳴が鳴り、波が船腹に叩きつけられた。
「……ここで終わるのか、俺が……」
最上は力なく笑い、膝をついた。
悠は振り返り、雪のもとへ駆け寄る。
「雪!」
縄を切り、抱き起こす。
「悠……」
雪は弱々しくも笑みを浮かべ、彼の胸に身を預けた。
その背後で、最上が最後の力を振り絞り海へ飛び込もうとした瞬間――
釜野の声が響いた。
「動くな!」
数名の刑事が飛び出し、最上を甲板へ押さえつける。手錠の金属音が夜空に鳴り響いた。
悠は雪を抱きしめながら、荒い呼吸を整える。
「……これで終わった」
しかし、暗い日本海の向こうには、まだ何かが潜んでいるような不穏な気配が漂っていた。
嵐は去ったわけではない――そう、悠は直感していた。
第4話 一刀両断
波が荒れ狂い、船体が不気味に軋んだ。
そのとき――暗黒の海面が盛り上がり、まるで海そのものが形を変えたかのように、巨大な影が浮かび上がる。
「……まさか……」
悠が息を呑む。
黒々とした鱗に覆われた、目玉のような赤い光が水面に現れた。
全長百メートルを超えるであろう、人食い巨大魚。
海を割るようにその巨体が迫り、口を開けば無数の牙が鋼鉄のように輝き、船全体を飲み込もうとしていた。
「全員、しがみつけぇ!!」
釜野の怒鳴り声が響くが、もはや銃火器ではどうにもならない距離だった。
轟音と共に巨大魚の口が迫る――その瞬間。
空間が一筋、白く裂けた。
次の瞬間、甲板の中央に着物姿の男が立っていた。
顔には無表情のひょっとこの面。
静かな海風が彼の裾を揺らし、その場の全員が言葉を失った。
男は無言のまま、腰の刀をわずかに持ち上げ――
光が走ったと思った刹那、巨大魚の顎から尾までが一閃で裂け、巨体は海上で二つに割れた。
爆発のような海水が吹き上がり、血の匂いが風に混じる。
「……あれを、一刀……だと……?」
悠は信じられない光景に言葉を失った。
侍は刀を鞘に収めると、ゆっくりと悠の方へ顔を向けた。
面の下の表情は読めない。だが、その視線だけは鋭く突き刺さる。
悠は反射的にライフルを構える。
互いの間に、張り詰めた空気が流れた。
しかし侍は何も言わず、指先をひらりと動かす。
その瞬間、足元の空間が歪み、淡い光に包まれる。
「待て!」
悠が叫ぶも、侍の姿は光の中へ溶けるように消えていった。
残されたのは、血に染まる海と、激しく揺れる豪華客船――そして、悠の胸に残る不可解な感覚だけだった。
第5話 そして、アメリカへ
東京都内・警視庁捜査本部。
夜明け前の薄暗い会議室に、蛍光灯の白い光だけが差し込んでいた。
豪華客船での死闘から数時間。
悠は椅子に深く腰を下ろし、書類の山と報告モニターを前に、疲労を隠しもせずに煙草へ火をつけた。
「……最上は逮捕。雪も保護できたが、まだ終わっちゃいねえ」
低い声で呟く悠に、釜野がコーヒーを差し出す。
「悠、これを見ろ」
釜野が机に置いたのは、国際捜査部から送られてきた極秘ファイルだった。
表紙には、赤字で《BLAZE》の文字。
ページをめくると、銃器、麻薬、そして異世界から流れ着いたと思しき武装品の写真が並んでいる。
「……アメリカの麻薬組織だ。
連中が最上組に武器を横流ししてたって情報が、ようやく裏が取れた」
悠の目が細くなる。
ページの一枚に映るのは、見たこともない形状のライフル――そして、最上組のアジトにあった弾薬と一致する刻印。
「つまり、奴らは日本だけじゃなく……」
「――アメリカ本土で、もっとでけぇことをやらかしてる」
釜野の声は重かった。
会議室の隅では、国際捜査部の担当官が電話で英語を交わしている。
その断片的な会話の中に、「ロサンゼルス」「港湾都市」「異世界由来兵器」という言葉が聞き取れた。
悠は煙を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
「……決まりだな。次は、太平洋の向こうだ」
窓の外、夜明け前の街がまだ眠る中、遠くからサイレンの音が響いていた。
その音はまるで、新たな戦場への号砲のようだった――。
第6話 明晰夢
二週間後、岡山県某所――山間にひっそりと佇むキャンプ場。
雪やルイを救い出したあの日から、すでに二週間が経っていた。
悠は久しぶりに趣味のキャンプへと繰り出し、澄んだ空気と静寂の中で心を解きほぐしていた。焚き火の残り香が夜気に溶け、虫の声が遠くで響く。
「……ふぅ、やっぱりこういう時間だよな」
独りごちて、再びマットに寝転がる。まぶたがじわりと重くなり、意識が水底へ沈んでいく感覚。悠はテントの外を軽く片づけ、ランタンを消すと、静かに目を閉じた。
――チュン、チュン。
小鳥のさえずりが耳に触れる。
「……ま、まぶしい……」
まぶたを開けた瞬間、息を呑む。そこには、一面の花畑が広がっていた。風に揺れる花々が視界いっぱいに広がり、淡い香りが鼻をくすぐる。
「ここは……どこだ? 何が起きた……?」
戸惑いながら辺りを見渡すと、自分以外にも大勢の人々が立ち尽くしていた。ざわめきと困惑が空気を満たしている。
「おい、探偵。気がついたみたいだな」
低く響く声に振り返る。そこに立っていたのは、二週間ぶりに見るクライス王の姿だった。
「えっ……なんであんたがここに……!」
「理由はわからん。ただ、どうやらここにいる者は皆、眠るとこの花畑に飛ばされるらしい」
――キィィーン。
突如、耳の奥を裂くような耳鳴りが走った。
「うっ……!」
「お前もか?」
「……あんたも?」
次の瞬間、脳内に直接、澄んだが不気味な声が響く。
『おはようございます。皆様には、ここで犯した罪を償っていただきます』
「は……?」
――ドン、ドン、ドン!
大地を打つ衝撃音が立て続けに響き、空から何かが降ってきた。見上げた悠は息を呑む。
それは、人骨で形作られた怪物だった。
骸骨の群れが、花畑のあちこちに叩きつけられるように降下し、カタカタと顎を鳴らしながら立ち上がる。
「骨が……歩いてやがる……!?」
「市民が巻き込まれる……私は市民の救助に向かう。君は――なんとか生き延びてくれ」
「……無茶を言うなよ」
ポケットを探ると、拳銃とポケットナイフが手に触れた。拳銃には弾が六発、予備はない。
「案外もろそうな骨だ……ナイフでもいけるか」
「じゃあな。生き延びろよ、探偵」
クライスはそう言い残し、剣を抜いて駆け出していった。
骸骨たちが剣を振りかざし、迫ってくる。顎の骨がカタカタと不気味な音を立てた。
「……骨共が。バラバラにしてやるよ!」
悠はナイフを握り直し、低く構えて骸骨の群れに向き合った。
「キャーッ!」「うわああっ!」
骸骨の急襲に巻き込まれた市民たちが、花畑の中を必死に逃げ惑っていた。
「こっちだぁ! 化け物ども!」
クライスが剣を振り抜き、迫る骸骨の頭蓋を粉砕していく。その姿に市民たちの歓声が上がった。
「クライス王が来たぞ!」
「我らが陛下だ!」
「私の後ろに下がれ!」
声を張り上げながら、クライスは人々を背後に庇う。その背へ、俺は骸骨の頭を片手にぶら下げて駆け寄った。
「おい、王様。無事か?」
「ああ……だが、全員を守りきれるかはわからん」
「同感だな」
――ドゥンッ!
空気を裂くような衝撃音。見上げた空から、影が落ちてきた。
「……なんだ、今度は」
降ってきたのは巨大な鳥――いや、アヒルだった。だがその大きさは馬を優に超え、異様な鳴き声を上げながら羽を広げる。
「おいおい、今度はアヒルかよ!?」
「なんなんだこの世界は……」
その時、鋭い声が響く。
「ふぅんッ!」
――ぼじゅん!
竜のような鱗を持ち、全身が筋肉で覆われた男が、拳一つで巨大アヒルを吹き飛ばした。
「……フロストか?」とクライス。
「話はあとだ。まだ来るぞ」
フロストは両手を構え、クライスは剣を再び握り直す。
「竜が……喋ってる?」
よく見れば、竜というより巨大なタツノオトシゴのような奇妙な姿だった。
再び、羽音。
「がぁぁあああああっ!」
別の巨大アヒルがバタバタと地面を蹴りながら突進してくる。
「く、来る……!」
反射的に拳銃を構え――ポトリ、と手から滑り落ちた。
「……っ!」
やばい、拾う時間はない。迫る影に、膝から力が抜けた。
――死ぬ。そう思った瞬間。
「諦めんなぁ!」
バシィン! 鋭い音と共に、別の男――ギャバットがアヒルの首を断ち切っていた。
「おい、立て!」
差し伸べられた左手を掴み、俺は立ち上がる。
「……助かった」
「いいって。無事で何よりだ」
クライスとフロストが市民を連れて戻ってくる。
「おそらく、今ので最後のアヒルだろう」
「それで? どうやって出るんだ、王様」
見渡す限り続く花畑。空も地平も、同じ景色が延々と続く。
――キィィーン。
「……っ」
「また耳鳴りか」フロストが眉をひそめた。
脳内に、女の声が響く。
『百人中、生存者三十名。ここがどこか、気になっている方もいるようですね。いいでしょう、少しだけ教えて差し上げます』
「誰だ、貴様は。さっさと解放しろ!」フロストが怒声を上げる。
『落ち着いてくださいな、フロスト国王。ここは私の――明晰夢の世界』
「明晰夢……?」クライスがつぶやく。
明晰夢。夢を夢だと自覚し、その内容を自在に操れる能力。
『私はこの夢を支配する力で、現実で眠っていたあなたたちをこの世界へ連れてきたのです』
「そんなことが……」ギャバットが絶句する。
『次の償いです――最後の一人になるまで、全員で殺し合いをしてください。魔法でも、武器でも、方法は問いません』
「誰がそんなこと……」
「そうだ、できるもんか!」市民たちが声を荒げる。
だがその瞬間――。
市民の一人、妊婦の体が赤く光を帯びた。
「あ、あれ……?」
意思とは無関係に右拳を握りしめ――ドゴッ!
「ぎゃあああああっ!」
自らの腹部を殴りつけた。
「はぁ……はぁ……な、なんで……」
崩れ落ち、跪く。その顔は涙と苦痛で歪んでいた。
――ドゴ、ドゴ、ドゴ。
何発も、何発も。血と羊水が混じった液が地面を濡らしていく。
『こうなりたくなければ、私の命令に従いなさい』
「外道が……貴様、何が目的だ!」クライスが怒声を放つ。
俺は拳銃を拾い上げ、妊婦の腹へ向けた。
――バァンッ!
妊婦は悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちた。
「おい、何やってんだよ!」ギャバットが俺の首を締め上げる。
「……離せ」
「子供はもう死んでいた。女も……じきに死ぬ運命だった」
「だから――俺が楽にしてやった」
妊婦が崩れ落ち、花畑の空気は凍りついていた。誰もが言葉を失い、ただ血の匂いと、耳鳴りの残響だけが場を支配する。
フロストが低く呟いた。
「……ああなりたくなければ、我々は殺し合う他ないようだな」
「待て」クライスが声を鋭くする。「生き残った一人はどうなる? 聞いているんだろう、女」
脳内に、冷ややかな女の声が返る。
『もちろん――永遠の眠りからの解放よ』
その言葉に、場の空気がさらに重く沈んだ。
「も、もう待ってられない! 俺は逃げる!」
恐怖に耐え切れず、ひとりの男が駆け出した。
「わ、私も……! 行く!」
赤ん坊を抱えた女性がその背を追う。
『……警告はしたからね』
「あ、あれ……?」男の頭部がぐにぐにと凹み、次の瞬間――バシュン!
全身が破裂し、後ろを走っていた女性の顔と衣服に血飛沫が降りかかった。
「きゃあああああっ!」
腰を抜かして倒れ込む女性。その頭部が、今度はゆっくりと歪み始める。
「いや……いやだ! クライス王、この子を……守って……!」
赤ん坊を差し出した瞬間――バシュン!
泣き声を上げる間もなく、赤ん坊の小さな身体が弾け飛んだ。
「きゃあああああ!! 誰か! 助け――」
その悲鳴も、爆ぜる音にかき消される。
地獄の光景に、市民たちは我先にと四方へ駆け出した。
「まずくないですか、これ……?」ギャバットが顔を引きつらせる。
「落ち着け! 皆、落ち着くんだ!」クライスが必死に叫ぶ。
だが――。
――ボジュン!
逃げ出した全員が、花畑のあちこちで一斉に破裂した。
「いい加減にしろ、この外道……どこにいる!」クライスの怒声が空に響く。
「落ち着けよ、王様」悠が低く諭す。「逆らえば、俺たちもああなる。死にたくねぇだろ」
クライスは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……いいか、俺はやるぞ」フロストが構えを取る。「国王として、務めを果たす」
「分かった」クライスは剣を握り直す。「だが、このギャバットと悠には手を出すな」
「!?」ギャバットが驚きの声を漏らす。
「私が一人で貴公の相手をする」
「……クライス、貴様を殺せば、次はこいつらだ」
「それでいい」
――ガギィン!
鋼と鋼がぶつかるような衝撃音。クライスの剣と、フロストの拳が激突した。
「来い……ダイス!」
「ダイス?」悠が眉をひそめる。
「陛下の光魔法で創られた無機物だ」ギャバットが答えた。
空を仰ぎ、悠は息を呑む。巨大なサイコロが、花畑に影を落としていた。
「……でかいな」フロストが呟く。
「奴を一掃しろ、ダイス!」
サイコロの一の面がぐにりと歪み、中央に巨大な眼球が出現する。
――ビーッ!
眼から放たれた光線が大地を貫き、爆発が巻き起こった。
――ボカァン!!
花畑が吹き飛び、爆風が全身を叩く。
「おいおいっ!?」悠は衝撃に押し倒され、視界が白く染まった。
――PM16時 アルタイル城・緊急医務室
バタバタバタッ!
足音が廊下を駆け抜ける。
「……あーあ、また倒れた」
ハンドルは散乱した医学書の山をかき分け、ベッド脇に身を屈めた。
三日間――クライスは一度も目を覚ましていない。
点滴を繋ぎ、呼吸と脈を確かめながら、ハンドルは原因を探るために何十冊もの医学書と魔法理論書をひっくり返していた。
眠りから覚めないのはクライスだけではない。
世界各地で同様の症状が報告され、アルタイル王国内だけでも五十名の市民や兵士が昏睡状態に陥り、病院に収容されている。まさに国家規模のパニックだった。
「原因が……わからん」
頬杖をつき、疲れた目をこする。
「何らかの魔法なのは確かだが……」
重い身体を引きずるように立ち上がり、医務室の奥にある小さなキッチンへ向かう。
「コーヒーでも淹れるか」
といっても、インスタントしかない。
熱いカップを片手に戻ると、眠るクライスの顔をじっと覗き込んだ。
眉間に皺を寄せ、険しい表情――まるで何かに抗うような寝顔だった。
……夢を見ている?
脳裏に、ある単語がよぎる。
――夢の魔法。
明晰夢の能力で有名な、ひとりの人物の顔が浮かんだ。
「……いや、まさか」
記憶が、大魔術学校時代へと遡る。
――図書室。
『明晰夢で他人を呼び込む?』と問いかけた自分に、彼女は笑顔で答えた。
『あぁ! 私の明晰夢と、思考操作魔法を組み合わせれば可能なんだ!』
『莫大な鍛錬と実験が必要だけど、いつか必ずその光景を見るんだ!』
……まさかな。
だが、もしも――。
友人として知っている。彼女は本来、心優しい人間だ。だが、ただの好奇心であっても、その力を使ったとしたら……。
ハンドルは、唇をきつく結んだ。
「……話を聞きに行く価値は、ある」
――スモーク山・山頂 カール墓地。
冷たい風が吹き抜け、黒いコートの裾を揺らす。
カイラは静かに膝をつき、ひとつの墓石に花を手向けた。
そこには――かつて若きクライスと共に魔王を討った、人類最強の女勇者、ルーシェの名が刻まれている。
彼女はカイラの母だった。
「……それじゃあ、行ってきます、母さん」
小さく呟き、カイラは背を向けた。
足取りは迷いなく、次の戦いの場へ向かっていた。
――コツ、コツ。
真夜中の下町に、足音だけが響いていた。
リール王国・カイロ下町。
街灯に照らされた石畳の道を、コート姿のカイラが歩く。人影はなく、冬の夜気が白い息を宙に漂わせた。
「……はぁ」
吐息混じりのため息が、静けさに吸い込まれていく。
やがて足を止めた先には、月明かりに浮かび上がる古びた屋敷があった。
「ここが……魔女サマナの家か」
門を押し開け、庭に足を踏み入れる。
「この騒ぎを起こしたのが、この女に違いない」
視線を巡らせた時、違和感に気づく。
「……結界が張られてない? 冗談だろ」
世界的に名の知れた魔法使いの家とは思えない無防備さ。
「じゃあ、遠慮なく――」
右拳を握り込む。
――バタン!
二階の小窓が開き、ぼさぼさの長髪に丸眼鏡、裸同然の女が顔を覗かせた。
「ちょっと待ちなよ、世界最強戦力者さん?」
――ドゴォン!
壁をぶち破り、屋敷の一角が崩れ落ちた。
「悪いな、もう壊しちまった」
軽口を叩きながら、カイラは女を見据える。「真夜中まで研究か?」
サマナは慌ててカーテンで身体を隠す。
「あんまり見ないでくれたまえよ……」
「どうでもいい。あんたの夢の能力を解除しろ。仕組みは知らんが、俺の仲間と王様が巻き込まれてる。何のことか、わかるよな?」
「君が来ることは、わかっていたよ」
腰の剣に手をかけるカイラ。
「……投降するか?」
「君がもう帰れないことも、わかってる」
――ゴゴゴゴゴ。
屋敷の壁がうねり、木造の手足が生える。
「服着ろよ。風邪ひくぞ」
「君が眠ってくれたら、着るよ」
ドンッ! 家の腕がカイラを掴み上げた。
「やっぱり俺も夢の世界に引きずり込む気か。いいぜ、中に入れよ」
「話が早くて助かるね。でも、私の屋敷ではどんな魔術も武器も使えない。オートの加護で守られているから」
「そうかよ。じゃあ、お前が死ねば夢も解除されるってことでいいんだな?」
「その通り。でも、君にはできない」
窓辺へと引き寄せられ、カイラは汚れた部屋に足を踏み入れた。
「ようこそ、私のアトリエへ!」
サマナの右手が緑色に輝く。
「おやすみなさい、最強さん……ドリーム・オン」
……何も起きない。
「……は?」
「不思議そうな顔だな。教えてやる。俺は生まれつき、どんな魔法も呪いも加護も通じない」
「ああ……そうか。じゃあ、ダメか」
――カチャリ。
銃口が向けられる。
「終わりだ、魔女」
――バァン!
乾いた銃声が、薄暗い部屋に響き渡る。
サマナは後方へ崩れ落ちた。血を吐きながら、弱々しく言葉を紡ぐ。
「……あなたのお母さんのこと、調べたの……あの人、本当は勇者なんてやりたくなかった……」
「あなたはどう? 悪人を殺して……楽しい?」
「まだ生きてたか」
銃を構え直し――バァン!
「悪人を殺すことが……俺たちの生きがいなんだよ」
ドアを押し開け、夜気の中へ出る。
その瞬間――夢の効力が解け、現実世界で目を覚ました。
――キンッ! キンッ!
花畑に、鋼のぶつかり合う音が響き渡る。
「ふぅんッ!」
フロストの拳がクライスの頬を打ち抜いた。
バコンッ!!
衝撃に、クライスの身体が後方へと弾き飛ばされる。
「……なかなかやるな」
「貴様もな」
次の瞬間、クライスの姿が掻き消える。
「速い!」フロストが振り返った時には、背後に剣を構えたクライスがいた。
「光よ――剣に纏え!」
白光を放つ刃が、横一文字に振るわれる。
フロストの身体が、上半身と下半身に分かれた。
「……ふぅ、ふぅ……なかなか骨が折れるな」
剣を収め、静かに告げる。
「俺の勝ちだ」
フロストは唇の端をわずかに上げた。
「感服したぞ、真の王よ。このような強者と巡り会えたこと……光栄に思う」
そう言い残し、瞼を閉じる。
――ピキ……ピキピキ……。
「……なんだ、この音は?」悠が呟く。
「み、見ろ! 空が!」ギャバットが指差す。
青空一面に、亀裂が走っていた。
「……現実で誰かが元凶を殺したか、魔法を解除させたのだ」クライスが呟く。
やがて、世界が白光に包まれた。
「まぶしっ……」
――ヒュンッ!
目を開けると、悠は病室のベッドで横たわっていた。
「……はっ!」
「よかった……本当によかった……!」姫野の顔が視界に飛び込んできた。
「姫野? ここは……病院か?」
「ちょ、ちょっと待っててください! 先生呼んできます!」
医師によれば、悠は五日間眠り続けていたという。栄養失調と衰弱で意識を失っていたらしい。
数日後、退院した悠は、ふと呟く。
「あいつらは……どうなったんだろう」
――翌日 AM11時 アルタイル王国・医務室。
「……ん、んん……ここは……医務室か」
「目が覚めましたか、クライス」ベッド脇のハンドルが微笑む。
「カイラ君が、サマナという魔女を始末して、この事態を収束させました」
「……そうか」
扉が開き、鎧姿のカイラが現れた。
「起きたな、父さん」
ハンドルが問いかける。
「カイラ君……彼女、最後に何か言っていませんでしたか?」
「いや、特には」
「……そうですか。なら、いいです」
「いや……夢の中で殺し合いをさせられた時、あいつは“償い”をしてもらうと言っていたな」クライスが思い出したように言う。
「……!」ハンドルの目が見開かれる。
「彼女は昔から、自分の明晰夢と魔術を組み合わせ、世界中のエルフが夢の世界に自由に出入りできるようにしたいと願っていました。しかし、その才能は危険すぎて、世界に認められなかった」
「それでも彼女は諦めなかった。魔女としてポーションや薬を売りながら、明晰夢の研究を続けた……」
ハンドルは握った拳を見つめる。
「せめて、友人である私が止められていれば……彼女は死なずに済んだかもしれない。そう思うと……胸が苦しい」
静まり返った医務室に、彼の悔恨だけが重く響いていた。
――世界的昏睡事件。
それは、サマナの死によってようやく終焉を迎えた。
五日間、世界各地の都市や村では突如として人々が倒れ、眠りから目覚めないという現象が連鎖的に発生。
農村では畑仕事をしていた農夫がそのまま畝に倒れ、王都の市場では露店の商人や客が通りに崩れ落ち、馬車の御者が眠り込んだことで幾つもの衝突事故が起きた。
兵士が眠りについたままの城壁では、防衛が崩壊し、一部の辺境都市が魔物の襲撃を受けた。
各国の指導者までもが昏睡状態に陥った例もあり、一時は国政が完全に麻痺。
民衆は「世界の終わり」だと恐れ、教会や神殿に避難し祈りを捧げる者が後を絶たなかった。
――そして、全員が一斉に目を覚ました瞬間、各地で歓声と涙があふれた。
だが同時に、眠っていた間に命を落とした者も多く、その数は決して少なくなかった。
アルタイル王国は今回の被害と死者数を公表せず、事件の詳細も「不明の魔法による災厄」とだけ発表。
民衆の間では「夢の中で何があったのか」という噂が絶えず、各国の情報機関も裏で真相の調査を始めている。
だが、真実――夢の世界での殺し合いと、魔女サマナの存在――を知る者は、ごく限られた者たちだけだった。
第7話 帰ってきた太郎
北海道。某ビル。
夕刻。
静まり返った通路を、一人の男が歩いていた。
無駄のない足取り。
靴底が床を打つ規則的な音だけが、廊下に響く。
男は腕時計に視線を落とす。
かつて姉を探すため、異世界へ足を踏み入れた少年。
幾度もの戦いを生き延び、数えきれない喪失を経験してきた。
壮絶な年月の果てに、今はある組織の一員として働いている。
「……そろそろか」
目的の扉の前で足を止める。
軽く拳を上げ、静かに扉を叩いた。
「入れ」
冷たい声が、内側から短く返ってくる。
ドアを開ける。
室内には重厚なデスク。
その向こう側に、カイゼル髭を蓄えた男が座っていた。
スーツ姿のまま、爪を整えている。
「浪野悠に関する調査報告書です」
鞄から書類を取り出し、差し出す。
「ふぅん」
男は書類を受け取ると、葉巻を咥えた。
火を灯し、ゆっくりと煙を吐き出す。
「苦労しましたよ……で、どうするんですか?」
男はページをめくりながら答える。
「彼に会う。近いうちに警察へスカウトする」
一瞬の沈黙。
「正気ですか。彼には問題が多すぎると思いますが」
男は興味を失ったように書類を机へ放った。
「ご苦労だった。君はもう帰りたまえ」
葉巻の煙が天井へと昇っていく。
「お疲れさまでした」
男は一礼し、部屋を後にした。
地下駐車場。
黒いクラウンのドアを開け、運転席へ乗り込む。
エンジンをかけ、静かにビルを後にした。
札幌。
加瀬太郎の自宅。
落ち着いた佇まいの平屋。
鍵を開け、室内へ入る。
「おかえりなさい、あなた」
妻がコートを受け取る。
「ただいま、璃々。風呂に入ってくるよ」
そう言い残し、書斎へ向かう。
扉を閉める。
机の上に置かれた一冊のファイル。
浪野悠の資料。
ページを開く。
そこに記された経歴、戦闘記録、関係人物。
読み進めながら、ゆっくりとベッドへ身を預けた。
かつて異世界を渡った者が、
今度は別の“危険な人物”を見つめている。
物語は、まだ交差していない。
だが、時間の問題だった。




