海の底
最初に戻ってきたのは、湿気だった。
重い。
空気が、ではない。
空間そのものが、濡れているような重さだった。
肺に空気を入れようとしても、うまく入ってこない。
吸っているはずなのに足りない。
呼吸のたびに、喉の奥へ生ぬるい泥を流し込まれているみたいな息苦しさがある。
「……ぅ、ぅ……」
声にならない音が漏れた。
次に来たのは、痛みだった。
全身が痛い。
右肩。
左の脇腹。
背中。
膝。
後頭部。
どこが一番ひどいのか、自分でもわからない。
ただ、少しでも動けば全部がいっせいに悲鳴を上げるのだけはわかった。
深澄はしばらく目を開けられなかった。
開けたくない、という感覚に近かった。
目を開けたら、ここが夢ではないと確定してしまう。
夜勤明けの帰り道で転んで気絶しただけかもしれない。
そうであってほしい。
いや、そんなわけがないと頭のどこかではわかっている。
それでも、現実にするにはまだ早かった。
だが、臭いがそれを許さなかった。
鼻の奥を、じわじわと焼く臭気。
潮。
腐肉。
泥。
錆。
濡れた海藻。
時間の経った血。
それら全部を、長いあいだ蓋をして発酵させたような臭いだった。
「……ぇ、ほっ、げほ……っ」
たまらず咳き込む。
その拍子に脇腹が軋んで、息が止まる。
込み上げてきた吐き気は喉の途中で絡まり、何も出ないまま引っ込んだ。
涙が滲む。
痛みでか、臭いでか、自分でもわからなかった。
深澄は意を決して、薄く目を開けた。
暗い。
だが、真っ暗ではない。
壁とも天井ともつかない場所のあちこちに、青緑色のぼやけた光が滲んでいた。
明かりというより、染みだ。
深海魚の発光器官とか、腐った水の中で光るプランクトンとか、そういう生きたものに近い、嫌な光り方だった。
視界がぼやける。
まばたきをすると、少しだけ輪郭が戻る。
そして戻った輪郭に、ぞっとした。
床が気持ち悪い。
頬の下にある感触が、石ではない。
土でもない。
わずかに弾力があって、湿っていて、ぬめっている。
しかも冷たいはずなのに、表面の奥に微かな体温みたいなものが残っていた。
生き物の上に寝かされている。
そんな錯覚が、一瞬だけ本気で脳を掴んだ。
「っ……!」
反射的に身体を起こそうとして、失敗した。
右肩と脇腹に激痛が走り、手をついた拍子に床がぬちりと滑る。
体勢を崩し、そのまま横向きに倒れ込んだ。
「ぐ、ぁ……っ!」
息がうまく吸えない。
痛い。
視界が白くなる。
深澄は歯を食いしばって、数秒、いや数十秒かもしれない、ただ息を整えることだけに集中した。
ゆっくり。
浅く。
少しずつ。
それでも肺に入る空気は湿っていて、不快で、息をするたびにこの場所を身体の内側へ入れてしまう感じがした。
嫌だった。
とにかく嫌だった。
ここにいたくない。
触れたくない。
吸いたくない。
見たくない。
なのに、そこから逃げるためにまず身体を動かさなければならないのが最悪だった。
深澄は震える指先で床を探る。
ぬめり。
細い糸のようなもの。
ざらつき。
柔らかい膨らみ。
ひとつひとつの感触がいちいち気持ち悪い。
どうにか肘をつき、少しだけ上体を起こす。
頭がくらむ。
吐き気が強くなる。
そのまま前を見る。
通路、だと思った。
幅は二、三メートルほど。
左右の壁は波打っていて、岩肌のようにも、巨大な内臓の襞のようにも見える。
ところどころに裂け目があり、その奥から青緑の光が漏れていた。
天井は高い。
けれど高すぎて、途中から闇に溶けている。
床は緩やかに傾斜していて、奥へ行くほど下っているように見えた。
下っている。
その事実だけで、心が重くなる。
下へ行く。
深くなる。
それだけで、そこに“良くないもの”が待っている気がした。
後ろを見る。
同じような通路が続いているだけだった。
落ちてきた穴も、裂け目も、光もない。
ただ、こちら側の方がほんの少しだけ空気が軽いような気がする。
気がするだけだ。
根拠はない。
「……どこだよ、ここ」
掠れた声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
返事はない。
音が妙に遠くへ吸われていく。
反響しているのに、広さがわからない。
通路の先が大空洞に繋がっているのか、すぐ先で曲がっているのか、それすらも読めなかった。
深澄はポケットを探った。
スマホ。
財布。
コンビニで買った紙パックのコーヒーはどこかで失くしたらしい。
おにぎりは、潰れた感触だけが残っていた。
スマホを取り出す。
画面はひび割れ、端が少し欠けていた。
電源ボタンを押す。
反応はない。
長押ししても、何もつかない。
「……くそ」
吐き捨てるように言って、もう一度押す。
やはりつかない。
圏外でも、時計だけでも、灯りだけでもよかった。
何かひとつでも“普段の世界の道具”として機能してくれれば、それだけでだいぶ違った。
だが、完全に沈黙している。
スマホの画面に映った自分の顔は、ひどかった。
額の横が切れている。
頬が擦れて赤黒い。
髪は汗と湿気で張りつき、目の下には夜勤明けそのままの隈がある。
助かる顔じゃないな、と、場違いなことを思った。
その考えが浮かんだこと自体、自分でも嫌だった。
こんな状況でまだ、他人から見える自分をどこか気にしている。
そういうところが、昔から駄目なのかもしれなかった。
深澄はスマホを握りしめたまま、壁に手をついて立ち上がろうとした。
指先が沈んだ。
「……っ」
慌てて手を離す。
硬いはずの壁の表面が、生ぬるく粘っていた。
糸を引く透明な液体が指にまとわりつく。
それを振り払っても、しつこく肌に残る感じがあった。
気持ち悪い。
気持ち悪くて、泣きそうになる。
それでも、座ったままではいられなかった。
深澄は今度は床へ片手をつき、もう片手は壁の比較的乾いて見える場所を選んで、慎重に膝を立てる。
右膝が痛む。
左足にも上手く力が入らない。
だが、どうにか立ち上がった。
立てた、というより、壁に寄りかかってぶら下がっているに近い。
視界が揺れる。
鼓動が速い。
耳鳴りがする。
全身が汗ばんでいるのに、肌の表面だけは冷えていた。
このまま歩けるのか。
歩けなかったらどうなる。
考えたくなかった。
とにかく、出口を探すしかない。
その時、耳の奥で、ぴち、と音がした。
深澄は固まる。
水滴の音に似ている。
だが、水より柔らかい。
もっと生々しい。
どこか内側の音に近い。
少し間を置いて、もう一度。
ぴち。
今度は右の壁寄りから聞こえた気がした。
深澄はそちらを見る。
青緑色の光が滲む壁。
裂け目。
皺。
ぬめり。
何も動いていないように見える。
でも、見えないだけで、何かがいる気がした。
心臓が早鐘を打つ。
気のせいだ、と言い聞かせる。
水滴かもしれない。
どこかの液が落ちた音かもしれない。
いちいち怯えていたら何もできない。
そう思って、一歩だけ足を出した。
ぬるり、と滑る。
「っ」
咄嗟に壁へしがみつく。
また粘液が手についた。
今度はそれだけでは終わらず、靴底の裏で何か細いものが潰れる感触がした。
深澄は恐る恐る足元を見る。
床に、糸みたいなものが這っていた。
いや、糸ではない。
細い半透明の管のようなものが何本も床に張りつき、ゆっくりと脈を打っている。
「……なんだよ、それ」
言ってから、自分の言葉が震えていることに気づいた。
脈打つたびに、管の内側を黒っぽい何かが少しずつ流れていく。
血管に似ていた。
似ているだけだと否定したかったが、あまりにもそう見えた。
その一本を踏みつけてしまったらしい。
靴底の横に、灰色の液が少し滲んでいた。
深澄は反射的に足をどける。
その拍子にバランスを崩しかけ、また壁へ手をつく。
ぬち。
その感触に、とうとう限界がきた。
「ぅ、え……っ」
えずく。
胃が縮む。
喉が焼ける。
何も出ない。
ただ目の奥だけが熱くなった。
汚い。
気持ち悪い。
意味がわからない。
海の底にいるみたいだと思った。
でも本当の海底を知っているわけじゃない。
テレビや図鑑で見た、暗くて、圧力だけが高くて、まともな生き物が住んでいないような深海。
そこに無理やり人間を落としたら、たぶんこんな感じになるんじゃないか。
湿っていて、重くて、静かで、全部がこちらの存在を拒んでいる。
そしてそのくせ、どこかでこちらを見ている。
深澄は息を呑んだ。
見られている。
不意にそう思った。
視線だ。
誰かの目ではない。
もっと曖昧で、広がったもの。
この通路そのものに、薄く、鈍く、観察されているような感覚がある。
ありえない。
気のせいだ。
そう思っても、背筋を這う寒気は消えなかった。
「……帰りたい」
ふいに、言葉が口をついた。
情けないほど小さい声だった。
「帰りたい……」
家に帰りたいわけじゃなかった。
帰ったところで、狭い部屋があって、洗っていない服が積んであって、電気代を気にしながらシャワーを浴びて、昼まで寝て、また起きて夜勤へ行くだけだ。
それでも、今はそこがいい。
蛍光灯の白さでいい。
レジの電子音でいい。
酔っ払いの愚痴でいい。
あのつまらない日常の方が、何百倍もましだった。
こんな場所にいるくらいなら。
ぴち。
また音がした。
今度は、ひとつではなかった。
ぴち。
ぴち。
……ぴち。
間を置いて、複数。
深澄はゆっくり顔を上げる。
通路の先。
青緑色の薄光の境目。
そのあたりの闇が、ほんの少しだけ濃く見えた。
目を凝らす。
何もない。
ただの影にしか見えない。
だが、影が少しずつ位置を変えている気がした。
気のせいではない。
気のせいではない、と理解した瞬間、足がすくんだ。
逃げなければならない。
でも、どこへ。
後ろか。
前か。
そもそも、走れるのか。
考えているうちに、影のひとつが、壁際へぬるりと寄った。
そこだけ、ぬめりの光り方が変わる。
まるで壁の一部が、壁から剥がれかけたみたいだった。
「……やめろ」
無意識に呟く。
影は答えない。
ただ、こちらを窺うように、動きだけを止めた。
深澄は喉を鳴らす。
飲み込もうにも、唾がなかった。
空腹に気づいたのは、その時だった。
ぐう、と腹が鳴る。
場違いなほど生々しい音だった。
「は……」
自分でも、間の抜けた声が出た。
こんな状況で腹が減るのか。
減るらしい。
夜勤明けで、まともに何も食っていない。
落ちる前に買ったおにぎりは、ポケットの中でたぶん潰れている。
空腹なのは当然だ。
だが、その当然さがこの場所ではひどく異様だった。
痛い。
怖い。
吐きそう。
なのに腹は減る。
身体が普通のままでいるのが、妙に腹立たしかった。
「なんで……」
怒りなのか、泣き言なのか、自分でもわからない声が漏れる。
「なんで、俺が、こんな……」
何もしていない、とは言わない。
立派に生きてきたとも言えない。
でも、だからって、こんなわけのわからない場所で一人で消えるような罪があるとも思えなかった。
理不尽だ。
あまりにも。
その時、耳の奥で、ざわ、と何かが揺れた。
深澄は顔を上げる。
音ではない。
でも音に近い。
言葉ではない。
でも意味があるような気がする。
海の底の、さらにその下。
泥の底から、何か大きなものが寝返りを打つような、重く濁った感覚。
頭痛がした。
こめかみの裏側を、冷たい針でつつかれているみたいだった。
「……ぅ」
額を押さえる。
その指先が汗で濡れていることに気づく。
ざわめきは、消えなかった。
聞こえるわけではない。
けれど、頭の奥にじわじわと染みてくる。
沈め。
そう聞こえた気がした。
違う、と深澄は思う。
今のは自分の考えだ。
恐怖が見せた錯覚だ。
言葉なんて聞こえていない。
だが、次のざわめきは、もっと近かった。
深く。
意味として、それだけが沈んでくる。
「……やめろ」
今度ははっきり言った。
「やめろ、気持ち悪い……」
自分の声にすがるように、深澄はその場から一歩後ろへ下がった。
その瞬間、右の壁が、ぬるりと動いた。
深澄は凍りつく。
裂け目だと思っていた場所が、ゆっくりと開いていた。
そこから半透明のなにかが押し出されてくる。
細い脚。
脚。
また脚。
拳大ほどの胴。
頭の代わりに黒い穴。
その周囲を、小さな白い粒がぐるぐると回っている。
異形だった。
「……っ」
声が出ない。
もうひとつ、別の裂け目から同じものが這い出る。
通路の先の影も、ひとつ、またひとつと増えていく。
囲まれる。
その理解だけが、異様に鮮明だった。
深澄は咄嗟に後ずさる。
だが足元は滑る。
背中が反対側の壁にぶつかる。
逃げ場がない。
異形たちはすぐには飛びかかってこなかった。
ただ、じっと見ていた。
黒い穴が、呼吸しているみたいにゆっくり開閉する。
白い粒がこちらを一斉に向いている。
品定めされている。
獲物かどうか、確かめられている。
そう思った瞬間、胃の底が冷え切った。
深澄は震える手で、壊れたスマホを握り直す。
武器になるわけがない。
石ころ以下だ。
それでも、何も持っていないよりはましだった。
「来るなよ……」
掠れた声だった。
「来るな……」
異形の一匹が、ぴち、と床を鳴らした。
次の瞬間、それが跳んだ。




