落ちた先は海の底
ダンジョンには、当たり外れがあるらしい。
そんな話を聞いたことがある。
別に興味があったわけじゃない。
夜勤の休憩中、コンビニのバックヤードで、スマホを見ていた大学生のバイトが、探索者の配信動画を眺めながら適当なことを喋っていただけだ。
「やっぱ見映えいいと伸びるんすよね。炎とか雷とか。逆に地味な系統だと人気出ないし、素材もショボいと夢ないじゃないですか」
へえ、と適当に返した覚えがある。
その時の俺にとって、ダンジョンなんてその程度のものだった。
危険ではある。
ニュースにもなる。
ときどき有名な探索者が配信で、素材やスキルやレア装備を見せびらかしている。
死ぬやつもいれば、一攫千金を掴むやつもいるらしい。
でも結局、それはどこか別の世界の話だった。
画面の向こう。
選ばれた人間。
才能のあるやつ。
死ぬ覚悟を持てるやつ。
そういう連中の話だ。
少なくとも、伏見深澄には関係がない。
関係があるとしたら、せいぜい深夜帯にエナジードリンクをまとめ買いしていく若い探索者たちや、酒臭い息を吐きながら「昔は俺も潜っててさ」と同じ話を繰り返す中年男の相手をするくらいだった。
伏見深澄、二十二歳。
高校を出てから職をいくつか転々として、今は海沿いの町にあるコンビニで夜勤をしている。
胸を張れる経歴はない。
資格もない。
友人も多くない。
家族との関係も薄い。
悪い人間ではないと思う。
たぶん。
でも、うまく生きられる人間でもなかった。
怒鳴られるのは苦手だった。
愛想笑いはもっと苦手だった。
理不尽を理不尽と飲み込んで、何事もない顔をするのが最後まで下手だった。
だから色んな場所に馴染めなかった。
続かない。
残れない。
無理に馴染もうとすると、先に自分の中身が擦り減っていく。
気づいた時には、いつも少しずつ居場所を失っていた。
だから今の夜勤は、ある意味では気楽だった。
深夜は人が少ない。
最低限の会話だけで済む。
冷たい蛍光灯の下で、賞味期限を確認して、品出しをして、酔っ払いの相手をしていれば朝になる。
誰かに期待されることもない。
だから失望されることも少ない。
その日のシフトが終わったのは、午前四時三十八分だった。
バックヤードで制服を脱ぎ、黒いパーカーを羽織る。
スマホの充電は十八パーセント。
財布の中には千円札が二枚と、小銭が少し。
値引きされたおにぎりと紙パックのコーヒーを買って、店を出た。
外はまだ暗かった。
三月の終わりのはずなのに、風は妙に冷たい。
潮の匂いがした。
空は浅く濁っていて、東の端だけがかろうじて白み始めている。
国道沿いにはほとんど車がなく、遠くで波の砕ける音だけが繰り返し聞こえていた。
この時間の町は嫌いじゃない。
人が少ないからだ。
人が多い場所にいると、自分の輪郭が少しだけずれる。
誰もそんな目で見ていないとわかっていても、
「お前はここにいていいのか」
と無言で問われているような感覚がある。
だから、朝になる前の町は楽だった。
誰の視界にも入らずに歩ける。
コンビニを出て、深澄は海沿いの細い道を歩く。
まっすぐ帰る道ではない。
少し遠回りになる。
でも夜勤明けはいつもそうだった。
住宅地を抜けるより、海沿いを歩く方が楽だからだ。
人がいない。
朝の漁師と、犬の散歩をしている老人くらいしかいない。
それに、海を見ていると、自分の中の余計なものが少しだけ薄まる気がした。
別に癒やされるわけじゃない。
前向きになるわけでもない。
ただ、頭の中が空っぽになる。
防波堤沿いの道を抜ける。
錆びたガードレール。
塩で白くなったコンクリート。
立入禁止の柵。
波打ち際に並ぶ消波ブロック。
その向こうで、黒い海がゆっくりとうねっていた。
この辺りには、昔使われていた海底観測施設の跡がある。
もう何年も前に閉鎖され、今は管理も曖昧になっているらしい。
海中トンネルだの、観測井戸だの、研究棟だの、色々噂はあるが、本当のところはよく知らない。
深澄にとっては、せいぜい「古くて気味の悪い立入禁止区域」くらいの認識だった。
海霧が薄く出ていた。
濃くはない。
だが、視界の端が少しずつ白くぼやけて見える程度には漂っている。
街灯の光も、灯台の明かりも、輪郭をなくして滲んでいた。
深澄はおにぎりの袋を破りながら、防波堤の切れ目へ視線をやる。
その先に、古いコンクリートの斜路があった。
海の方へ下っていく、使われなくなった搬入口のようなものだ。
途中には太い鎖が渡してあり、立入禁止の札もぶら下がっている。
普段なら見もしない場所だった。
だがその朝だけは、どういうわけか、そちらが妙に気になった。
霧のせいかもしれない。
徹夜明けで頭がぼんやりしていたせいかもしれない。
あるいは、もっと別の理由だったのかもしれない。
斜路の先。
海に近い低い場所だけ、景色が歪んで見えた。
最初は、ただの蜃気楼かと思った。
冷えた朝方の海辺では、たまに遠くの景色が揺れることがある。
空気の層がどうとか、気温差がどうとか、そういう現象だと聞いたことがある。
でも、それとは違った。
海面が揺れているのではない。
空気が滲んでいるのでもない。
そこだけ、世界が薄くなっているように見えた。
膜。
あるいは水面。
いや、もっと生々しい、半透明の皮膚みたいな何か。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
本能的に、近づいてはいけないものだとわかった。
一歩、下がる。
その瞬間だった。
耳の奥で、ぴち、と湿った音が鳴った。
水音に似ている。
だが水より柔らかく、生き物の内側みたいな音だった。
「……なんだよ」
掠れた声が漏れる。
返事はない。
ただ、斜路の先の歪みだけが、ゆっくりと広がっていく。
世界の継ぎ目が、ほどけるみたいに。
霧の白さが、その一点へ吸い込まれていく。
潮の匂いが急に濃くなる。
腐った魚と、古い貝殻と、海底の泥を掻き混ぜたような臭いがした。
深澄は眉を顰める。
その臭いには覚えがなかった。
海沿いの町に住んでいれば、潮臭さにも、魚の腐った臭いにも慣れる。
だがこれは違う。
海ではある。
確かに海の気配だ。
でも、自分の知っている海ではない。
もっと深い。
もっと暗い。
光の届かない場所の臭いだった。
ぴち。
ぴち。
ぴち。
耳の奥で音が増えていく。
風が止んだ。
波の音も、遠のいた気がした。
世界から海辺の朝が剥がれ落ちて、そこだけ別の何かに差し替わっていくような感覚があった。
怖い。
はっきりとそう思った。
でも、身体がすぐには動かなかった。
視線がそこへ縫い止められていた。
歪みの奥に、なにか暗いものがあるような気がした。
穴ではない。
ただの闇でもない。
見てはいけない深さそのものが、向こう側に口を開けている。
「……っ」
ようやく身体が引ける。
だが遅かった。
足元のコンクリートが、ぬるりと沈んだ。
「は?」
声を上げる間もなく、片足が呑まれる。
慌てて踏ん張ろうとした反対の足まで滑る。
斜面が崩れたのではない。
硬いはずの地面そのものが、柔らかく裂けていた。
手をつく。
その手首まで沈む。
冷たい。
いや、冷たいだけじゃない。
ぬめっている。
海水のようで、泥のようで、巨大な何かの内側のようでもある。
「――ッ、な、んだ、これ……!」
腕に力を入れる。
引き抜こうとする。
だが、下から強く掴まれているみたいに抜けない。
足首。
膝。
腰。
ずるり、ずるりと身体が沈んでいく。
パニックになった。
後ろへ這い戻ろうとする。
指がコンクリートを掻く。
爪が割れる。
だが、指先に触れるはずの地面の感触まで、少しずつ曖昧になっていく。
世界の境目が溶けていた。
ここだけ現実じゃなくなっている。
「やめろ……!」
誰に向けた言葉かもわからないまま、深澄は叫ぶ。
だが声は霧の中に吸われ、ひどく遠くへ消えた。
耳の奥で、ざわざわと何かが鳴っている。
言葉ではない。
意味もわからない。
ただ、深いところから濁ったものがゆっくり浮かんでくるような、不快な響きだった。
胸まで沈む。
息が荒くなる。
心臓が暴れる。
視界の端から暗くなっていく。
助けを呼ぶべきだと思った。
でも誰を呼ぶ。
こんな朝方の海辺で。
こんなわけのわからないものに足を取られて。
誰も来ない。
来たとして、間に合わない。
その理解だけが妙に冷静に頭に浮かんだ。
「ふざけ……んな……」
通らない声で呟く。
こんな終わり方があるか。
ただ夜勤が終わって、帰る途中だった。
値引きのおにぎりを食って、昼まで寝て、また出勤するだけの一日だったはずだ。
それが、なんで。
腰から下の感覚が消えていく。
冷たさも、重さも、曖昧になる。
その代わり、身体の中心へ向かって別の感触が這い上がってきた。
沈んでいる。
海の底へ。
そう思った。
実際には息はできている。
水の中ではない。
だが感覚だけは、確かに深海へ引きずり込まれるそれに近かった。
光が遠い。
音が鈍い。
世界が重い。
ぴち。
ぴち。
ぴち。
もう耳のすぐそばで鳴っている気がした。
首まで沈む。
冷たい膜が顎を越え、頬を撫でる。
それが皮膚ではない場所まで入り込んでくるような錯覚に、全身が粟立った。
「――ッ」
叫ぼうとした瞬間、最後に見えたのは海だった。
霧の向こうで、黒い水面がわずかにうねっている。
朝の海。
見慣れたはずの景色。
なのにその時だけは、海そのものがこちらを見返しているように思えた。
次の瞬間、地面が消えた。
身体が一気に真下へ引きずり込まれる。
落ちる、と思うより先に、視界がねじれた。
空気が消える。
胃が浮く。
肩をどこかへぶつけた。
次に背中。
膝。
頭。
硬い斜面を転がり落ちるみたいに、何度も何度も何かへ叩きつけられる。
暗闇と湿気と痛みの中を、身体だけが一方的に引きずられていく。
最後に顔面から何かへ激突したところで、意識が途切れた。
◇
最初に戻ってきたのは、湿気だった。




