閑話 先輩の連絡先を手に入れた日
作倉伸二という先輩は、たぶん自分が思っているよりずっと目立つ。
少なくとも、秋元雄哉にとってはそうだった。
最初にちゃんと認識したのは、雨の日の昇降口だ。
ほどけた靴紐を見て、呆れたような顔をしながら、それでも放っておかずに声をかけてきた。
だいたいの人間は、雄哉に対して二種類に分かれる。
ひとつは、フィギュアスケートの秋元雄哉として見る人間。
試合の結果やジャンプの種類や今後の期待を勝手に語る。
雄哉本人より、雄哉の演技や成績に興味がある目だ。
もう一つは、学校での見た目だけを見て遠巻きにする人間。
綺麗だとか、感じが悪そうだとか、話しかけにくいとか、そういうどうでもいいことを勝手に決める。
――先輩は、そのどちらでもなかった。
靴紐がほどけていることを見て、知ってるなら結べよと言った。
傘を忘れていることを見て、呆れた。
ネクタイが曲がっていれば直した。昼休みに弁当がなければ眉をひそめた。
多分、そういうところからだった。
秋元雄哉が何者かではなく、今ここで何を困っているかだけを見る人間はあまりいない。
だから、少しだけ気になった。
少しだけ、のつもりだった。
▽
連絡先を聞くのは、もっと難しいことかと思っていた。
でも実際に声に出してみれば、思っていたより簡単だった。
「連絡先、教えてください」
そう言ったとき、先輩は露骨に嫌そうな顔をした。
嫌そう、というより困っていた。
眉が少し寄って、声の調子がわずかに硬くなる。
伸二先輩はそういうとき、分かりやすい。
それでも断らないだろうとは思っていた。
多分この人は、困っている相手を放っておけない。
自分が得か損かではなく、目の前にある“面倒”を拾ってしまう。
――いい人、という言葉で片づけるには、少し違う気がする。
いい人なら、もっと器用に笑うだろうし、もっと無難に優しくできるだろう。
伸二先輩はそうじゃない。
面倒そうにするし、呆れた顔もするし、口もそんなに良くない。
それなのに、結局見捨てない。
そういうところがいいと思う、とはまだ言えなかった。
自分でも、まだそこまで整理できていなかったから。
画面を差し出されたとき、少しだけ安心した。
先輩のアカウント名は、驚くほど普通だった。
アイコンも、どこかで撮った空の写真。
飾り気がなくて、でも少しだけきれいだった。
こういうのにも、その人らしさは出るんだなと思った。
「おい、悪用すんなよ」
と言われて、しないのにと思う。
でも、多分先輩は、悪用される心配をしているんじゃない。
ただ、距離を測っている。
ここまでなら許せる、ここから先は近い、みたいな線を自分の中で引いている。
その線を、いきなり越えたくはなかった。
ちゃんと、少しずつ慣らしたほうがいい。
そういうことだけは、雄哉にも分かる。
▽
家に帰ってから、スマホを見た。
連絡先の一覧に、今日増えた名前がある。
――作倉伸二。
文字だけなのに、少しだけ変な感じがした。
学校では目の前にいて、声をかければ返事をする。
けれど今は、手のひらの画面の中にもその人に繋がる場所がある。
それは、思ったより大きいことだった。
「……何を、送ろうかな?」
どんな言葉を送ればいいか、考えた。
でも、意味のないことを送るほど器用ではない。
そもそも、そんな話題もない。
思わず考えた事を打ってみると、返事が返ってきた。
予想通りだった。予想通りなのに、少しだけうれしかった。
『ありがとうございます』
それで終わってもよかったけれど、それでももう少し、なんでもいいから話したいと思ってしまった。
何回も、質問のように言葉を出す。
きっと、先輩にとってはこれが普通のことなんだろう。
でも雄哉にはそれが難しい。
必要ないことはすぐに頭から抜けるし、必要なはずのことも、練習の前後にはよく曖昧になる。
氷の上のことなら忘れないのに、それ以外はひどい。
分かっている。分かっているけれど、直せない。
『先輩は覚えてるんですね』
そう送ったのは、本当に感心したからだった。
返ってきたのは、少し呆れたような文面だった。
『普通これくらい覚えてるだろ』
『お前が忘れすぎなんだよ』
それを見て、少しだけ笑いそうになった。
怒っているわけではない。ちゃんと、世話を焼く側の声だ。
叱られるのは嫌いじゃない、と思った。伸二先輩に限っては。
少し考えてから、送る。
『そうかもしれないです』
『でも、先輩がいるので』
自分でも、その言葉が思ったより素直に出たことに驚いた。
先輩がいるから、大丈夫だと思っている。
学校生活の細かいことも、ネクタイも、昼休みも、たぶん少しだけ。
氷の外のことも。
その後、ネクタイのことを送ったのは、半分は本気で、半分は確認だった。
『ネクタイ、明日も曲がってたら直してください』
返事はすぐに来た。
『自分で直せよ』
当然だと思う。
でも、それだけじゃ終わらないとも思っていた。
伸二先輩は、そういう人だ。
口では面倒だと言う。
呆れる。
嫌そうな顔もする。
それでも、たぶん明日の朝、曲がっていたら見かねて直してくれる。
それを期待している自分は、少しよくない気もした。
けれど、期待してしまう。
リンクでは、誰にも頼らないほうがいい。
頼るなら自分の体だけでいい。
跳ぶのも滑るのも、失敗するのも、全部ひとりで引き受けるものだ。
でも、氷の外では少しくらい誰かに頼ってもいいのかもしれない。
そんなことを、最近思うようになった。
――先輩のせいで。
『……一回で覚えろよ』
その文面を見て、雄哉はスマホを持ったまましばらく黙った。
怒られているはずなのに、変に安心する。
無視されない。
突き放されない。
呆れられても、ちゃんと返ってくる。
それが、思ったより大きかった。
『頑張ります』
そう返す。
画面の向こうで、先輩がどんな顔をしたのかは分からない。
多分、呆れている。
もしかしたら少し笑っているかもしれない。
それを想像するのは嫌じゃなかった。
ベッドに横になって、スマホを胸の上に置く。
静かな部屋だった。
遠くで何かの生活音がして、窓の外を車が通る音がして、でもそれだけだ。
明日の予定も、練習のことも、学校のことも、考えないといけないことはたくさんある。
なのに今、いちばん頭に残っているのは、画面の中の短い文ばかりだった。
普通これくらい覚えてるだろ。
お前が忘れすぎなんだよ。
一回で覚えろよ。
どれもたいした言葉じゃない。
でも、そのどれもがちゃんと自分に向けられていた。
秋元雄哉ではなく、ただの面倒な後輩に。
それが少しだけ、うれしい。
明日も、先輩のところへ行く。
昼休みか、朝か、授業の合間か。
どこでもいい。顔を見れば、少しだけ安心するのが分かっている。
それがどういう種類の感情なのか、まだきちんとは分からなかった。
分からないけれど、たぶんもう、どうでもいい後輩ではいたくない。
先輩にとって、自分が少しでも特別ならいいと思う。
せめて、学校生活でいちばん面倒な後輩くらいには。
目を閉じる前、雄哉はもう一度だけ連絡先の一覧を開いた。
作倉伸二――その名前を見ただけで、胸の奥が少し静かになる。
たぶん、今日はよく眠れるきがした。
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