第05話 見てたんですね
試合を見に行った次の月曜日、朝から少しだけ落ち着かなかった。
別に、何か約束をしていたわけじゃない。
土曜の夜に秋元と少しだけメッセージをした、それだけだ。昨日――日曜は特に連絡もなくて俺もわざわざ何か送るほどではないと思っていた。
なのに、教室で席に着いて窓の外を見ていると、ふと一年の校舎のほうへ目が向く。
渡り廊下の端にあの無表情な後輩の姿が現れるんじゃないかと、どこかで待っている自分がいた。
「何そわそわしてんの?」
朝からそれを見逃さなかった三沢が、隣でにやにやしながら言った。
「し……してない」
「してる。明らかに」
「秋元待ち?」
「違う」
即答したつもりだったのに、三沢はますます面白そうな顔をする。
「その間がもう違うんだよなあ」
「うるさい」
軽く肘で押すと、三沢は笑いながら頬杖をついた。
「まあでも、気になるだろ。学校じゃあんななのに、氷の上だと別人なんだろ?」
「……別人、っていうか」
そこで言葉が止まる。
別人――確かにそう見えた。
でもそれだけじゃ足りない気がした。
学校にいる秋元が偽物だとは思わない。
昇降口で靴紐を前に立ち尽くしていたのも、購買で昼飯を買えずにいたのも、たぶん全部あいつだ。
ただ、リンクの上ではそれ以外の何かまでむき出しになっていた。
「そんなにすごかった?」
「……すごかった」
それしか言えないのが悔しかった、そして綺麗だった。
見ていて息が苦しくなるくらいに。
チャイムが鳴って、一時間目が始まる。
授業中も、土曜の光景がふと頭をよぎった。
白いリンク、冷たい空気、氷を削る音。
最後のポーズのあとに広がった拍手。
あんなものを見せられて、何も変わらないわけがないと思った。
なのに、二時間目と三時間目の間の休み時間になっても秋元は来なかった。
昼休みになっても来ない。
いつもの渡り廊下の窓際まで、なんとなく足を運びかけてやめる。
何をしてるんだ俺は、と思う。
秋元のほうが来るのが当たり前みたいに思っている自分に気づいて、少しだけ居心地が悪くなった。
「伸二、パン買わねえの?」
「……行く」
購買へ向かいながら、自分で自分に呆れた。
たった数日関わっただけの後輩だ。
少し手がかかって、少し距離感がおかしくて、ちょっと目を離せない――それだけのはずなのに。
パンを買って教室へ戻ろうとした、その時だった。
「――先輩」
背後から聞き慣れた低い声がして、心臓が変に跳ねた。
振り向くと、秋元がいた。
いつもの無表情、いつもの熱の低い目。
なのに、土曜の演技を見たあとだとその静けさの奥に何かを探してしまう。
「……いたのか?」
「はい、いました」
「今日は来ないのかと思った」
「いえ、今日も来ました」
相変わらず会話が平坦だ。
でも、それだけで少し胸のあたりが落ち着く自分がいて、余計に複雑になる。
「昼飯は?」
「買えました」
「おお」
「焼きそばパンです」
「またかよ」
「先輩が前に選んだので……」
「だからって固定しなくていいだろ?」
三沢が横で吹き出す。
「秋元、もう伸二のこと親みたいに思ってね?」
「やめろ」
「違いますよ」
「お、否定早い」
「親ではないです」
「そこだけ否定するなよ……」
思わず突っ込むと、秋元は少しだけ首をかしげた。
「先輩は先輩です」
「……そうだな」
その言い方が妙にまっすぐで困る。
結局、俺たちはまたいつもの窓際へ行った。
三沢は途中で「俺、今日はあっちで食うわ」と離れていき、残ったのは俺と秋元だけだった。
「試合、おつかれ」
秋元はパンの袋を開ける手を止め、小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「優勝、したんだろ」
「はい」
「すごいじゃん」
「……そうでもないです」
謙遜というより、本気で大して気にしていないみたいな言い方だった。
「学校であんななのに……」
「どんなですか?」
「靴紐も結ばないし、昼飯買えないし」
「先輩がいるので」
「それ、理由になってない」
即答しながらも、その言葉が少し引っかかった。
「……なあ」
「はい」
「土曜さ。演技終わってから普通だったよな……リンクの上だと全然違うのに」
秋元は少し黙ってから、静かに言った。
「終わったら、終わりなので」
「それだけ?」
「……それ以外、どうしていいか分からないです」
思っていたよりずっと素直な答えだった。
氷の上で全部使い切って、その外側ではうまく力が入らない。
そんな感じなのかもしれない、と思う。
「先輩」
「ん?」
「土曜、どこにいましたか」
「どこって……上のほうの左側」
「三列目」
「……そう、だけど。なんで分かるんだよ」
「見えてましたよ」
思わず変な声が出た。
「いや、試合中だろ?」
「はい」
「そんな余裕あるの?」
「余裕はないですよ……でも、先輩がいたので」
またそれだ――淡々と、少しも冗談じゃないみたいに言う。
「演技の最初に分かりました」
「……見るだろ。知ってるやつが滑るんだから」
「はい」
「じゃあなんで俺だけ分かったんだよ」
「それは、先輩だから」
そればかりだ。説明になっていないのに、秋元の中ではそれで十分なんだろう。
俺は焼きそばパンの端をちぎりながら視線を逸らした。
「……変なやつ」
「よく言われます」
「自覚あるのか?」
少しだけ笑うと、秋元はほんのわずかに目を細めた。
「――先輩がいると、滑りやすかったです」
その一言に、今度こそ手が止まった。
「……何それ」
「そのままです」
「意味分かんないんだけど」
「分からないですか?」
「分からないだろ。俺、別に何もしてないし」
ただ客席で見ていただけだ。
応援の声をかけたわけでも、何か特別なことをしたわけでもない。
秋元は少しだけ考えてから言った。
「先輩がいると、ちゃんと終われる感じがします」
その言葉に、土曜のリンクの上で見た張りつめた横顔が浮かぶ。
あそこでは全部を使い切るみたいに滑って、終わったあとに急に熱が引く。
その戻り先みたいなものが必要なのかもしれない、と思ってしまう。
――それが俺、なのか?
「お前さ、そういうこと他のやつにも言うの」
「言いません」
「即答だなおい」
「先輩にしか言ってないですから」
さらっと言われて、喉の奥が詰まりそうになる。
多分深い意味はないと、思う。
多分――あいつは言葉の選び方が変で、距離感もおかしい。
だからこれもその延長線上なんだろうと思う。
「……先輩、顔赤いです」
「赤くない」
「少し……」
「お前のせいだよ」
「すみません」
「謝るくらいなら最初から変なこと言うな」
そう返すと、秋元はなぜか少しだけ落ち着いたように見えた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「先輩。また来てもいいですか」
「もう来てるだろ、毎日」
「嫌ならやめますが……」
「……別に。来るのは、好きにすれば」
「分かりました」
その返事だけ妙に素直で、また調子が狂う。
二年の教室の前で立ち止まると、秋元も止まった。
「じゃあな」
「はい」
そこで帰るのかと思ったのに、秋元は少しだけこちらを見上げた。
「土曜、本当にありがとうございました」
「……もういいって」
「よくないです。先輩が見てたから、よかったので」
まっすぐに言われて、返事に詰まる。
そしてそのまま秋元は一年の校舎のほうへ歩いていった。
背中を見送りながら立ち尽くしていると、教室のドアにもたれた三沢が呆れたように笑った。
「伸二。お前、あんまり深く考えすぎんなよ」
「……ああ」
「でも、もう手遅れっぽいな」
否定できなくて、俺は黙った。
秋元雄哉は、氷の上では眩しいくらい特別なやつだ。
なのに、その特別なやつが、客席の中から俺を見つけて、俺がいたから滑りやすかったなんて言う。
そんなの、困るに決まっている。
俺は別に、誰かの特別になれるような人間じゃない。
そう思ってきたし、それでいいと思っていた。
けれどあいつは、俺のそういう線引きを知らないみたいに、平気で越えてくる。
ただの変な後輩、ではもう済まない気がする。
その事だけが、胸の奥で少しずつ形になっていった。
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