34話 洋紅色と緑色
屋上に出た瞬間、突風が吹き荒れる。
堆積した枯葉が舞い上がり、俺はたまらず顔を手で覆っていた。
轟々と打ち付ける屋上の風。ほのかに熱を帯びていて温かい。
「すっご」
そう言って赤坂が興奮気味に歩を進めていく。
ドアの向こう側は想像していたよりも広い青が広がっていて、それでいて狭くて案外普通の場所だった。
見るからに滑りそうな緑の床を靴先に注意して転ばないように歩く。
前を行く赤坂の足取りは軽く、まるでこの場所が初めてではないように見えた。
「足、まだ痛む?」
「まあ、あれだけ蹴ったらな」
片足を少し跳ねさせながら俺は赤坂の後を追う。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
「折れてたら歩けないくらい痛いって聞いたことあるし、大丈夫だと思う」
「ほんと?」
そう言っていたら屋上の縁の柵までたどり着いた。
そこでようやく広々とした眺望が見えた。
地方都市らしく、高層ビルなんてものは殆どない。この学校のような高さのある建物が数えるくらいだ。
あとは密集する住宅地が点在し、その合間に田畑が広がっている。
鉄塔と新幹線の高架、人間が作った建造物はそれくらいで、あとは山が連なっている。
緑の稜線のてっぺんはまだ雪をかぶっていてうっすら白い。
そして、その上は空の青。絵具をいっぱいに溶かしたような鮮やかさだった。
「綺麗だ」
自然とそんな声が漏れ出した。
「うん。すごくきれい」
隣で柵に寄りかかりながら赤坂がため息交じりに呟く。
そよ風に靡く髪は鮮やかな洋紅色に煌めいていた。
「なに?」
そんな彼女の横顔をじっと見ていたら目が合う。
「いや」
穏やかなそよ風とどこか熱のこもった草の匂いが混じるこの場所は時間が止まったみたいだった。
「なんもないんだなって」
「この辺?」
俺が頷くと赤坂は何も言わず笑みを作り、視線が景色へと戻る。
どことなく赤坂の口数が少ない、そんな気がした。
こうやってなかなか見ることのない光景を見ているんだ。仕方ないのかもしれない。
「ていうか、いいの? 完全に五限目サボリなんだけど」
「もう今更どうしようもないよ」
「だね」
既に午後の授業開始を告げる本鈴も鳴り、校舎内は静けさに溢れていた。
グラウンドを見ても体育の授業は行われないのか誰も出てこない。
まるで、ここにいる俺達二人を除いて世界から人がいなくなってしまったような、そんな錯覚に陥る。
「一之瀬って」
「え?」
しばらくぼーっと二人で眺めていたら不意に赤坂が言った。
「その目」
細い指が俺の頬に伸びる。そして爪の先が当てられるぎりぎりの所で止まった。
「瞳の色、薄くない? 緑っぽく見える」
ピントのはっきりしない指先に視線が向いていたら、赤坂が頬を緩ませる。
「は?」
言いながら顔を逸らす。何となく赤坂と視線をずっと合わせているのが恥ずかしかった。
「太陽のせいだよ」
「昔読んだ小説でそんなセリフあった気がする」
「知らないよ」
さっきまでとは逆に俺の方が仏頂面になっていた。
赤坂は屋上の手すりに腕を絡ませるようにしてずっと笑っている。
「いいよいいよ、でも綺麗だなあって思ったの」
「言われた事あるんだ。東北にはたまにこういう目の人がいるんだと」
「そうなの?」
「聞いただけだよ。俺の場合は部屋の中だと普通だし。明るいから光の関係じゃないの」
「ふーん」
普通は茶色か少し明るいくらい色合いだけど、俺の瞳の場合はこうやって明るい場所に出て光に当たると若干灰色がかって見える。
赤坂の言う通り、緑色という表現ができないという訳でもないけど……
「何、そのきょとんとした可愛い顔」
「可愛いって何だ」
赤坂は少しだけ、本当に少しだけ口許をぎゅっと吊り上げる。
「さっきはあれだけの剣幕だったのにね、なっちゃん♪」
「そのあだ名で呼ばれるの嫌なんだよなあ」
赤坂はそれを聞いて、にんまりと笑う。
「そんなに?」
「だって、俺には『なつき』って名前がちゃんとあるんだよ? ちゃんとした名前で呼んでほしいよ」
特に、親や美祈さんにもあだ名で呼ばれることが多かった子供の頃はしょっちゅう思っていた。
「分かった、なつき」
「何か馬鹿にされてる気がする」
「うっさい」
何だろうこのやり取り。赤坂の当たりがウザ絡み化している気がする。
すると、赤坂は手すりに顔を預けながら俺を上目で見る。
「じゃあ、今ここで呼ぶだけなら?」
くいと首をかしげながら、柔らかな桃色の頬に目が行った。
「まあ、いいけど」
しぶしぶ頷くと、赤坂の目が朗らかに細められる。
今、赤坂にこの呼び名を使われるのは何故か悪い気がしなかった。
「さっきの一之瀬、いつもと少し違ってた」
「必死だったからな」
「ほんとにね」
「ほんと面白そうに言うな」
誰のおかげで――そう言いかけた所でぶあんという音がした。
見ると遥か遠くの高架を新幹線が通り過ぎていく。
快晴の下、緑色の車体を煌めかせて進む。
緑――そう認識した所でさっき言っていた瞳の色の話を思い出して勝手に自分に重ねてしまう。そして、少し照れ臭くなったんだ。
♦ ♦ ♦
それからしばらくの間、屋上の景色を楽しんだ俺達は、どちらから言うわけでもなく屋上階段に戻った。
そっと扉をしめると、再び冷涼な人気のない空気に戻る。
「もう授業始まってるかな」
「だろうな」
これからどうするか。途中で早退するとか保健室に行くとか、どちらかは授業に遅れて戻るかとかそんな策がいろいろ浮かんだ。
でも、赤坂はそんなことまで考えていないようだった。
とんとんと小気味よく足音を響かせて階段を軽快に下りていく。
「ねえ」
不意に、踊り場に降りたところで赤坂が振り向いた。
「一之瀬、私が友達になってあげようか?」
その言葉はあっけないほどにぽつりと呟かれた。
「さっきの話、こうも真面目に返答されるとは思わなかった」
「えっ」
「恥ずかしくなる」
それを聞いた赤坂も少しだけ照れ臭そうに視線を背けた。
「ありがとう」
答えると、安心したような赤坂の顔が再び俺を向いた。
「一之瀬、本当に気が許せる友達いなさそうだし?」
「お前もな」
くすくすと二人で笑い合った。
「ありがとね。一之瀬」
赤坂が手を差し伸べ、こちらを見上げていた。
「私を助けてくれたんだよね。かっこよかった」
「……」
俺達以外誰もいない、昼下がりの屋上階段。
埃が舞っていて、窓から差し込む淡い陽光と、手入れのされていない埃をうっすら積もらせた古い階段。
「赤坂にはいろいろと知られ過ぎちゃった。もうどうしようもないよ」
「あはは、何それ」
ぎゅっとその手を握る。すると、赤坂も強く握り返してきた。
赤坂の柔らかな手は暖かくて、少しだけ汗で濡れていた。
そのまま二度、三度振られる。
赤坂のどこか猫っぽい可愛らしい小顔を俺はじっと見ていた。
きっとこの先、この場所に流れていた空気のようなものは記憶にいつまでも残り続ける。
忘れていたとしても、ふとした春の日にきっと蘇る。
温かな風と、春の日差し。そしてこの弛緩するような穏やかで優しげな昼下がり。そういう時にきっとふと思い出す。
その時、きっと楽しかったなと振り返られるなら――。
閉ざされた屋上扉を一度だけ見返し、俺は階段を下りた。




