5-4 彼と彼女の時間
始まった曲はどこか軽快なリズムだった。
顎先で小刻みに弦を震わせる諫矢も口角を上げていて楽しそうだ。
後方を気にしたような素振りで目線を向けると、桜川さんのピアノの伴奏もついてくる。
「ヴィヴァルディ四季、『秋』の第一楽章ね」
北見さんが相変わらずの真剣顔で言った。
何この後方どや顔師匠面。
「北見さん、もしかして二人に稽古つけたりした?」
「静かに」
即座に黙らせられる。冗談も通じないのか。
江崎さんがそっと耳打ちする。
「千冬ちゃんは吹奏楽部だからこういうの煩いんだ」
「まあそうだよね」
俺達も私語を止め演奏に集中した。
ヴィヴァルディの四季、その内の春は中学の音楽で習った気がするけど、他の季節の曲を聴くのは初めてだった。
秋はこんな曲なんだな。どこか明るくて軽快で上品さもあってパーティのようだ。
脳内で勝手に繰り広げられるのはヨーロッパの紅葉で色づいた森の中、赤に黄色の落ち葉が敷き詰められたその場所でお茶とお菓子を楽しみながら踊りふざける人たち、そんな光景だ。
そのお茶会のただ中で音楽を演奏する二人、そのイメージ映像がシームレスに体育館のステージに移り変わる。演奏時間はあっという間に終わってしまった。
「流石に全楽章やるのは長いからね。クラシック知らない人たちも見てるし、観客の『飽き』に配慮したんでしょう」
「へえ」
北見さんが何故か俺に話しかけてきたぞ。音楽には滅法疎くて通知表も『2』か『3』を行ったり来たりしている俺に。
反対側に座る江崎さんに目を向けると相変わらず俺をからかうような笑み。しかし、この場では笑うのを我慢しているのか不自然な表情だ。
もしかしたらこのやり取りが見たくて敢えて北見さんの反対側に座ったんだろうか。
周囲は相変わらずの静寂、ステージ上では新たな楽曲を演奏するのか桜川さんが楽譜を変えている。
そして、小さくリズムを取るように二度三度鍵盤を鳴らし、バイオリンを構える諫矢と頷き合う。
「――――」
諫矢のバイオリンから始まった一曲目とは打って変わり、今度は桜川さんのピアノから曲が始まる。
流れるような鍵盤の旋律はどこか優しく、少し遅れるようにして諫矢のバイオリンが響きだす。
「あっ」
聞き覚えのあるメロディに思わず小さな声が漏れた。
その曲はいつか小さな頃、祖父に連れられ見に行った映画のテーマ曲だった。
確か、俺が生まれるよりずっと昔に作られた映画。上映されていたのも何かの拍子で行われたリバイバル上映だったんだと今になって思う。
そして、何よりも。いつか球技大会の時に、赤坂と語り合った映画でもある。
「ああ……」
映画内の随所で流れるそのテーマ曲はどこか郷愁を誘う物悲しげな曲調だ。それが幼い頃と、そしてつい半年前のあの昼下がりの光景を蘇らせる。
あの時と同じ旋律が脳裏から体育館中から、俺の心の中でなぞられていく。
「エンニオ・モリコーネね」
「映画の曲だ。昔テレビで見たことがある」
思わず俺はそう答えた。
「……」
意外だとでも言いたげに北見さんがこちらに顔を向ける。
「うん。いい曲だよね」
そう言って笑みを少しだけ浮かべるとすぐに舞台上の桜川さん達に視線を戻す。
イタリアの作曲家が作ったというその曲は、日本人の俺にも何故か懐かしさを沸き起こさせてくれる。
先ほどとはまるで違う真剣そのものの諫矢の表情。じっと顎先にあるバイオリンの弦を見ながら演奏に注力している。
桜川さんも指一本ずつ、丹精込めるように鍵盤を叩く。
バイオリンの高音が切なさを伴わせ、合わせるようなピアノの伴奏が続く。
もう戻って来ない大切な物。それを追憶するような儚げな旋律だ。
「ねえ、千冬ちゃんも一之瀬君もこの曲知ってるの?」
傍らの江崎さんにつんつんと肩をつつかれた。
「映画の曲なんだ。へえー」
「静かに、久美子ちゃん」
小声で注意する北見さんに俺も江崎さんも思わず笑みが漏れた。
今度は邪魔にならないよう、江崎さんは口元にそっと手を添えて小声で囁く。
「一之瀬君の言う映画は私は知らないけど」
独り言のように、江崎さんはステージ上の二人を眺めている。
そして、
「でも、何か心が切なくなる曲だね」
胸奥に言い聞かせるように紡ぐその一言はこの曲に魅せられた者と確信できるほどの優しさに満ちていた。そしてそれは江崎さんだけじゃない。
反対側の北見さんも、体育館中の聴衆が諫矢と桜川さんの演奏に酔いしれている。
誰一人視線を崩さず、すべての人がステージ上のたった二人に注がれている。
しかし、その衆目に晒されても諫矢も桜川さんも音一つずれない。全く乱れる事はなく演奏は紡がれていく。
もう、まるで俺達の存在なんて二人の中から消え去ったみたいだ。
ここにはもう一人の少年と一人の少女しかいない。
まるで、これまで歩んできた互いの時間を名残惜しむように。その間にすれ違い、互いに離れ合い、空白となったいくつもの時間を今ここで必死に埋め合うかのように。
バイオリンの低い旋律に雨音のようなピアノの鍵の音が絡んでいく。
永遠に続くかと思われたその時間。
しかし、その演奏もやがてピークを過ぎる。
郷愁的な余韻だけ残したまま、ピアノとバイオリンの音色は徐々に落ち着いていき、やがて終わりを迎える。
瞬間、一拍の静寂に驟雨のような拍手が被せられた。
俺も北見さんも江崎さんも。他の皆と同じように万来の喝采を送る。
「二人とも、吹部入ればいいのに」
拍手の雨で消されそうな中、かろうじて北見さんの声が聞こえた。
残念そうに言うけれど、彼女の表情が妙に明るかったのは俺の印象に残った。
♢ ♢ ♢
演奏が終わる。
しかし、そのまま二人の発表が終わるのかと思いきや諫矢はおもむろにまたバイオリンを構えた。桜川さんも想定していないのか、諫矢はソロで演奏を始める。
「えっ、まだやるのか?」
まさかのアドリブらしい。
さっきの映画のテーマ曲でしっとり締めて終了だと思っていたので意外だった。
今度の曲はどこか明るいメロディ。
よく聞いたらそれは数年前に流行ったあるアニメ映画の主題歌だった。
「あれ? これ私も知ってるー」
クラシックや古い曲には疎い江崎さんもピンと来たようで楽しそう。
周囲を見ると、こういった演奏会に慣れてない生徒達も諫矢の演奏に合わせて肩を揺らしたりしている。ちょうど俺達が小学校か中学くらいの合間の時期の曲なので馴染み深いのかもしれない。
「あいつらしい立ち回りだ」
これまでの雰囲気をいい意味で台無しにするような選曲は実に諫矢らしい。
飄々とバイオリンを弾く諫矢に対抗するように桜川さんもピアノで続く。
少したどたどしい始まり方だったけどその伴奏は自然についていく。
ふと、楽しそうにバイオリンを弾いた諫矢が俺達のいる方を向く。
「……」
それはバイオリンの演奏の動きでたまたまだったかもしれないけど、遠くの諫矢と目が合った気がした。
その後も、何事もないまま演奏は続く。
「アドリブかな?」
「でもよく合わせられてるよ」
少し心配したような江崎さんだけど北見さんは完全にあの二人を信じきっているのか、その顔に不安はなかった。
息の合った即興演奏は続く。
すっかり観客も聞き入っていて、明るい雰囲気に包まれていた。
きっともう少し、あと少しだけ二人のセッションは続くんだろう。
そして、会場の雰囲気を最高の状態に保ったまま、次の発表者に繋げるんだ。
「一之瀬君?」
「俺、そろそろ行くよ」
席を発とうとした俺に声を掛ける江崎さん。じっとこちらを見る北見さんにも目線で伝え、俺は退席を告げる。
「そっか。うん」
江崎さんは頷き返しそれ以上追及することは無かった。
体育館の側面にいくつか設けられた非常用の出入り口。今はそのどれもが開放されていて、暗幕代わりの黒のカーテンが微風に揺れていた。その先に薄っすら透けて見える十月の陽光。
俺はカーテンをすり抜けてその明るい外へと出た。
明るい野外は暖かな真昼の太陽の光が真上から降り注いできていた。
想像していた以上に暑い。秋も深まり晩秋と呼ぶべき季節だけど、この時間だとこんなにあったかいんだな。
「あっ」
そんな事を思いながら、ふと気づいた。
「内履きのままだ」
残り続けて演奏の終わりを見るのが何となく嫌で抜けてきたせいだ。自分の靴が内履きのままだという事を忘れていたのだ。
たくさんの外来の生徒たちがここから出入りしているのに釣られたのもあるのかもしれない。
でも、今更このままどうして。
脱ぎ捨てられたり、綺麗に靴先を揃えていたり様々な靴の群れ。踏まないように俺は歩を伸ばす。
「仕方ない。正面玄関まで行くか」
砂利が敷き詰められた体育館脇に出た俺は、昇降口の方を目指す。
ごつごつした砂利に足元を取られないよう注意しながら、熱を蓄えた外壁を手で伝うようにして歩きながら遠くを見ると、グラウンドに出店が居並んでいた。
それらの内のいくつかは既に営業を終えたのか、後片付けがちらほら始まっていた。
祭りの終わりも近い。
長かった三日間もあっという間にその時が来る。




