4-36 全肯定の天使
定期テストを週明けに控えた金曜日。
学校帰りにコンビニに寄るとお菓子売り場で見知った顔と遭遇する。
「あれ、一之瀬君?」
渡瀬さんだった。席は近くの筈だけどこうやって彼女と話すのは久しぶりだ。
「おう」
会釈を返しつつ、俺は何を話せばいいか分からなかった。
渡瀬さんが諫矢に告白したという事実は西崎から聞いていて気になっていた。だが、ここで本人に直接聞く勇気は俺には無い。
とりあえず場を繋ぐ会話だけが口からついて出る。
「同じ帰り道だったっけか」
「ですね。結構近い学区なんだよね?」
「そうだっけ?」
「うんっ」
楽しげに渡瀬さんは笑った。暖かそうなピンクのカーディガンの袖口から少しだけ覗く指先は艶っぽく光っている。
「ていうか。席近くなのに、私達ってあんまり話さないですよね」
「そ、そうだね」
狼狽えながら答える。同じことを考えていたので少し意識してしまった。
やっぱり渡瀬さんとの会話は苦手だ。こっちのリズムが完全に崩れてしまう。
「あのさ。いっつも諫矢君の事ばかり相談してごめんね?」
「えっ」
チョコレート菓子を手に取り渡瀬さんは目を合わせずに続ける。
「本当は自分の事は自分でやらなきゃいけないのに、諫矢君と仲良しの一之瀬君を頼ってばっか」
「いや、俺は別にいいけど」
彼女が手に取った白い箱はホワイトチョコレート、そしてもう片方の手にある赤い箱は普通のチョコレートだった。どちらを買うか悩んでいるようだった。
「私、諫矢君に告白したんです」
「えっ」
唐突に出てきたその一言。心の準備を全くしていなかった俺は思わず聞き返す。
渡瀬さんはそんな驚いた顔の俺を見てどう思っただろうか。
くすりと苦笑いして口元を隠した。だけど、その表情は暗い。
「でも、ダメだって」
「そっか」
「今誰か特定の人とお付き合いするのは考えられないって」
「ああ――」
一瞬、俺はこう言おうとした。
『――今はってことは、振り向かせるチャンスはまだあるんじゃないか?』
だけど、その言葉が喉から出てくる事は無かった。
ここで渡瀬さんを励まし希望だけを抱かせるような事を言うのは残酷だと思った。
人に優しく在ろうとするだけが優しさじゃない。まして、俺が彼女につこうとしたのは優しい嘘ですらない。そう思ったのだ
なら、どう言えばいいんだ?
俺は自問自答する。
諫矢、そして桜川さんや西崎の事を見てきてある程度分かっているのに。困った渡瀬さんを少しでも勇気づける一言を俺は持ち合わせていない。
「ま! それなら仕方ないかなって思うんです」
何も言えずにいる俺を見ながら、渡瀬さんは悲しそうな笑みを向ける。
どこか既視感のある笑顔――俺は即座に思い出す。
少し前の桜川さんもこんな表情をしていたっけ。我ながら悠長過ぎる。
「じゃ先に店の前で待ってるんで」
「えっ」
渡瀬さんはしゃがんでいた体勢から立ち上がる。
そして、レジの方に向かって行った。
まだ、何も答えていない。俺はしばらくぼんやりと立ち尽くしていたが結局何も買わず店を出た。
♢ ♢ ♢
「何も買わなかったんですか?」
「ああ」
コンビニから出ると渡瀬さんが待ち構えていた。
「食べます?」
「いいの?」
「えへ。結局二個とも買っちゃったし」
悪戯っぽく舌を出しながら赤いチョコレートの箱を開ける。
「太っちゃうし、一之瀬君にあげます」
「ありがとう」
渡瀬さんから受け取ったチョコを開ける。
包装をちぎると綺麗に並んだ小さなホワイトチョコレート。その中の一つを口に放り込むとほろ甘いミルクの香りが広がる。
「どうですか?」
「甘いな」
「それ、当たり前すぎる感想じゃない?」
タメ口を交えながら渡瀬さんが乾いた笑いを零した。俺も釣られてぎこちなく笑い返す。
そんな事をしながら、すっかり日の落ちたコンビニの駐輪スペースでチョコレートを食べる。
背後から照り付ける店内の灯りが何となく眩しかった。
「おいしい?」
「うん。ありがとう」
当たり前の事しか返せない。だから俺はモテないんだろうな。そんな自虐的な事を考えながら渡瀬さんを見る。
彼女はずっと俺の方を見てたみたいだ。俺より小柄な体躯でこちらを見上げている側なのに慈母のような微笑みを浮かべている。
「こっちのも上げるから、一之瀬君のも一個ください」
「え? 待っ――」
答える間もなく渡瀬さんは俺の手元からホワイトチョコを一つつまむ。そして代わりに渡瀬さんも自分が持っていたミルクチョコを一つ寄越してくれた。
「元々渡瀬さんが買ったやつだし、交換なんてしなくても持っていけばいいのに」
「いいんです。これは私のお礼だから」
にこ、と微笑みながら首をかしげる。照明を浴びた彼女の髪は明るい桃色がかった光沢を帯びて反射していた。
じっと、こちらを見るクルミみたいな丸い瞳。思わず鼓動が弾けそうになる。
こんな可愛い女子と帰り道に時間つぶしをしているなんて。
「あのね。一之瀬君」
「なに?」
「多分分かってると思うけど、一応一之瀬君にも確認したいんです」
優しい声音、だけどはっきり確かめるような口調。
「諫矢君が好きな人って多分、桜川さんですよね?」
「……」
すぐに答える事ができない。口に運んだチョコレートが口内でゆっくりと蕩けていく。
駐車場を行き来する車のエンジンの音を聞きながら、俺はようやく頷く事が出来た。
「何でそう思うの?」
「だって、あの二人絶対何かありますよね? 西崎さんが諫矢君と付き合わないのもそういう事情だと思って」
渡瀬さんは鋭く、まだどこか誤魔化すような俺を追及するように言った。
「確かに、俺もそう思ってる」
「じゃあ……!」
「でも、諫矢からはっきり聞いたわけじゃないよ」
俺は念を押すように言った。
「俺も渡瀬さんと同じように、あいつらのやり取りを見てそう思っただけ。本人の考えなんて分からない」
生憎、俺に恋愛の話をされても力になれる気はしない。
そもそも彼女なんていたこともないし、今言った事だって殆ど想像だ。
でも、渡瀬さんも同じことを考えていたのは驚きだった。
「渡瀬さんもそう思うってことは、女子から見てもやっぱりそうなんだろうな」
「分かんないですよ。私だってただの妄想です」
渡瀬さんはどこか子供っぽい口調で拗ねるように言う。
「でも、いいですよ。諫矢君の気持ちを変えさせればいいだけだし」
「そ、そうか」
にこりと笑みを浮かべる渡瀬さんの表情はどこか晴れ晴れとしていた。
まるで、憑き物でも取れたような可愛らしい笑顔。
「一之瀬君がそう思うんなら多分確定だし」
「何でそうなるんだよ」
「えへへ。だって――」
そういって、渡瀬さんは身を預けていた車輪止めから軽やかな動きで離れる。そしてくるりと俺の方に体を回転させながら言った。
「一之瀬君って結構クラスの事分かってますし。頼れるし」
「え?」
「だって、一之瀬君っておとなしいけどクラスの事ちゃんと見てるし、何でも分かってる。凄いと思う」
驚きを隠せずにいる俺を見て、つんつんと指先で頬を触ってくる。なにこの可愛い生き物。
「もっと自信持った方いいです。一之瀬君は十分かっこいいです」
「はあ!?」
「じゃ、そういう事で!」
いちいち意識させるような事を言いながら、全く悪びれもしない。
俺をからかいながら渡瀬さんは去っていった。
「なんだよそれ、笑えねえ」
俺は一人残ったまま呟く。
渡瀬さんからしたら俺は結構頼れる存在なのだろうか。
少なくともそういう風に見ていると彼女は言っていて、それがからかいとかにも思えないのだ。
あの諫矢の話をした後の渡瀬さんの表情は真剣そのものだった。
「一応褒めてくれてたのかな」
自信を持て。そんな風にも渡瀬さんは言っていた。
いつか赤坂にも似たような事を言われた気がする。
「でも、俺は自分が努力してるとか、凄いなんて思ったこともないんだよ」
主人公みたいな立ち振る舞いや考え方は俺はできない。
でも、この地位は今までよりも這い上った先にある場所だ。それを渡瀬さんは言いたかったんだ。
「そっか。俺、それなりに良いとこまで来れてたんだな」
自覚は無いけど、そうなんだろう。
皆が必死によじ登り、その頂きを維持し続けようとする場所。俺はそれなりにそこに近い所までこれたらしい。
でも、何も満足感のようなものは無かった。
だって、俺は諫矢も桜川さんも渡瀬さんも、そして西崎も。あいつらの悩みを完全に解消できた訳じゃないんだ。
――もう一つ、俺がやるべきことがあるんだと。そんな事を考えていた。
でも、そのためには。




