4-19 雨の夜に
俺達が外に出た頃には小雨が降り始めていた。
そのまま大通りから離れた公園に立ち寄る。
それなりに広い園内は遊歩道が続いていて――しかし今は台風が来る前。散策している人影は皆無だ。
「あそこなら雨にも当たらないし大丈夫か」
遊歩道の中腹に見える四阿。
ぽつりと桜川さんが呟き、それが合図になった。
俺は牽いていた自転車を停め、二人で雨宿りに入る。
藤棚の下に小さなベンチが置かれただけの空間。雨がぽつぽつ降っている周辺とは隔絶した世界みたいだ。
「まさか、こんなに早く降ってくるなんてな」
「じゃあ帰る? 今日はこれでおしまいにして」
冗談混じりに桜川さんは笑うけど、ここに連れ出してきたのは彼女自身なのだ。
「ちゃんと聞くよ。ここなら誰も来ないし」
見上げた頭上には細い幹が複雑に絡まり合っている。葉も隙間なく生い茂っていて雨に濡れる事もなさそうだ。
「一之瀬君。あの日、信号待ってた時に私と目が合ったよね」
雨音も強まってきた中、桜川さんがはっきりとした口調で言う。
「やっぱり気づいてたんだね」
だからこんな事になっているんだけどな。俺は頷き返す。
思えばややこしい現場に鉢合わせたものだ。
「私ね、諌矢君の事ずっと前から好きなんだ」
「そ、そうなんだ……ふーん」
いきなりストレート過ぎる。もう少しこういう話が苦手な男子相手に配慮してくれ。
明らかに動揺を隠せない俺を見て桜川さんが頬を緩める。
「諌矢君と二人きりで帰ってたら我慢できなくなっちゃったんだ。歩道橋の所で告白しちゃったの」
そう補足しながら、落ち着いた?と小さな声で心配された。なんて優しいんだろう。
「やっぱりあれはそういう話だったんだな」
「うん。そういう話だったの」
桜川さんは子供に言い聞かせるような口調で言う。
「それにしたって恥ずかしいなあ。ばっちり現場見られてたなんて――それも一之瀬君に」
悪戯が見つかったような無邪気な笑顔。だけど、表情の奥底には陰鬱とした彼女の本音のような物が俺には見えた。
そっと、あまり掘り返さないように言葉を選んだ。
「諌矢と二人で何か神妙に向かい合ってたから。何かあったのかとは思っていたけれど」
「そんなに目立ってた?」
「そこまでは。でも、知ってる顔だし自然と注目しちゃったんだよ」
雨脚は徐々に勢いを増していく。
「振られちゃったんだ。私」
ぽつぽつと街灯に鈍く照らされた雫が絶え間なく落ちていく。
何故だかその無数の雨粒を見ていると心が落ち着いていく。
身体に纏わりつくじめじめした煩わしさはあるのに。心ってのは身体とは別にあるんだなと思った。
「最近休んでるのはその話が関係してるの?」
「うん」
顔を合わせるのが気まずいとか、そういう話なんだろう。
桜川さんは小さく頷き答えた。
「そんなとこかな。でもね――」
雨に揺れる生垣を見ながら桜川さんが呟く。
「私怒ってるんだよ?」
「へ? 誰に?」
「諫矢君」
桜川さんはしかし、声色からは怒っているようには聞こえない。
「え、何で?」
だからだろうか。直後の俺は不用意に聞き返した事を激しく後悔した。
「だって、あれだけの事で私がすっごいショック受けたのにッ!」
俺の言葉が呼び水になったのか。突然桜川さんが表情を歪める。
「いつもと全く変わんないんだもん! 昔はもっと感情出してたのに。ほんと素直じゃない。腹立つよ」
諌矢への苛立ちを俺に向けて八つ当たりしてるのか。
「私はね、また昔みたいな距離感で高校も過ごせたらなって思っただけなの。だから、そういうのも含めて好きだからいつも通り接してほしいって言ったのに」
桜川さんが諌矢に抱いている感情の片鱗みたいなものが少し分かった。
確かに、学校での桜川さんに接している諌矢はあくまでも『委員長の桜川さん』に対するスタンスだ。
昔からの幼馴染みなのに。それも、好きな相手から他人行儀にされるのが耐えられなかったんだろう。
「でもさ。三人で勉強した時とか夏祭りではいつもの軽いノリで桜川さんに絡んでたよな」
「あれが本当の諌矢君の姿だとでも?」
割と圧強めで言う桜川さん。
まるで俺達の知らない諫矢を知ってますと言わんばかりの勢いだ。教室で見る穏やかな彼女とは正反対のその言動に俺は面食らう。
「諫矢君、あれでも結構周りに気を使ってるんだよ。ほんとはもっと悪ガキでうざキャラなの。子供の頃は泣かされた事もあるくらいだし」
怒ったような口調なのにどこか遠い昔を懐かしんでいる、そう聞こえるのは俺の錯覚だろうか。
雨の遊歩道をぼんやりと見る瞳は悲しげに揺れていた。
「そっか……そういう子供時代だったのか、あいつ」
俺はとりあえずそんな風に鵜呑みにする。
「まあ、幼馴染の桜川さんが言うんだから本当なんだろうな」
高校で関わるようになってから、諫矢の人となりはそれなりに知ったつもりだった。
だけど、まだまだ仮面は分厚いって事らしい。
「ほんとはもっと性格悪いの隠そうともしないんだよ? もっと自己主張激しかったのにそれが無くなって今はほんといい子演じてる感じ」
「お、おう……」
とりあえず合わせた感のある返しだったのに桜川さんは嬉しそうだった。
「一見昔と変わらないのに、ほんとは全然違うの」
昔を懐かしみ羨み、そしてどこか嫉妬している。複雑な感情を織り交ぜたような桜川さんの語り口。
だが、俺にはそんな彼女が少し楽しげにも見えるのだ。
そう言えば、西崎も前にこんな表情を見せていた事があった。
嫌だ嫌だと言いながら、諫矢を肯定している。つまりは諫矢に関するノロケ話。
女子ってのは好きな男子の話をするときはこうも雰囲気が変わるものなんだろうか。
「今の諫矢君にはまるで腫物に触られてるみたいで、私はすごく嫌」
「つまり、桜川さんは諌矢といつでもどこでも幼馴染だった時のノリで仲良くしたいってこと?」
「うん。そんな感じだね」
無言で小さく頷く。その仕草が妙にしおらしくてこっちも反応に困ってしまう。
まさか完璧超人の優等生委員長が幼馴染物のテンプレみたいなノリに憧れていたなんて。
「桜川さんって俺達よりずっと大人っぽく見えるのに。驚いた」
「私なんて全然わがままだし子供だよ。諌矢君みたいに学校では本心を隠してるだけ」
「そうなのか」
「今ここで会話して内心そう思ったでしょ?」
俺が配慮してとぼけているところまでお見通しらしい。
「ほら。そういう顔。一之瀬君って嘘とかつけないでしょ? ふふ」
図星を突かれた顔をしていたら、初めて桜川さんの表情がほぐれた。
「それにしたって」
「ほんともうね」
隣に座る桜川さんに目が行く。
「まさか、あのタイミングで勢いのままコクるなんて。自分でも信じられない。ほんと何で――」
何であんな事言ったんだろ。そう呟く。
明るい口調なのに他人事みたいに自分の失恋を語っているなと思った。
「諌矢驚いてた?」
「寝耳に水って顔してたよ」
歩道橋での出来事は最初から目撃していたわけではない。でも、今は直接桜川さんの口から聞く言葉で徐々にやり取りがイメージできるようになってきた。
「流石の諌矢も困ったりそんな顔するんだな。いつも飄々とラブレターやら告白をかわしているイメージだったけど」
諌矢はモテる。いろんな女子からアプローチを受けているのは俺が横にいる時でも結構あった。
それを自分でも自覚していて悪びれもせずかわしたり、断ったり。そんな風に上手く対処しているのを想像していた。
だからこそ、桜川さんの口から伝えられた諌矢の反応は意外過ぎた。
「私知ってたんだ。渡瀬さんも諌矢君の事を好きだって話」
「えっ」
ベンチに背をもたれながら、桜川さんはどこか投げやりに笑った。
「告白するんだって結構前から宣言してたし。だから焦っちゃったのかも」
「なんというか、女子ってそういう駆け引きすごいんだな」
まさか渡瀬さんがここまで諌矢に対しアタックを掛けていたなんて。
「諌矢君って学年でも人気あるし、他のクラスの子達は気が気じゃないみたい。玉砕した子もたくさんいるみたい」
本当は笑いたい気分なんかじゃない筈なのに、無理矢理頬を緩めているんだろうな。
桜川さんの優しい表情が俺の胸に突き刺さってくる。
「だから、私も言わなきゃって思ったんだ。何も考えずに諌矢君に気持ちを伝えたのは焦っちゃったんだろうね」
見ていて痛ましい。それでも俺が聞き役に徹したのは桜川さんが愚痴る事で少しでも気が晴れると思ったから。
「遠くから見てるだけでいたら、いつか諌矢君を誰かにとられちゃう。私はそれが怖いんだ」
ずっと昔から好きだった相手がふと出会った人と呆気なく付き合う。
「何もしないという行動を選択しているだけでいつでも起こり得る事なんだよね。それって」
そういって自嘲気味に笑うけど、声が震えていた。
「だからずっと気持ちが落ち着かないとか?」
「うん。こんなに心がめちゃくちゃなのって初めて。本当に――」
頷いて答える桜川さんは既に目に涙をためていた。
一番近い場所から諫矢を見てきた彼女だからこその苦しみか。
互いに成長して変わっていく時間の流れに耐えられないのかもしれない。
幼馴染のような存在のいない俺には分からない苦悩だ。
「渡瀬さんの事だけどさ――多分、諌矢は付き合ったりはしないと思うよ?」
「え⁉」
息を呑む桜川さんに俺は続ける。
「前にだけど、諌矢宛てのラブレターを渡してくれって頼まれたんだ。でも諌矢のやつ、封筒を開けて読もうともしなかった」
夏休みの講習期間中、渡瀬さんにラブレターを託された時の話を打ち明ける。
「読んでなければ返答もしていない。あいつは付き合う気が無いんだよ」
「ほんと?」
驚きで丸まった黒い瞳。涙でしっとり潤んでいる。
「多分諌矢は誰かと付き合うとかしたくないんだと思う」
渡瀬さんから預かったラブレターを見せた時、諌矢は直接言いに来た女子の話だけ聞くとか言ってた。
それでいて桜川さんや西崎が直接思いを伝えようとしてもはぐらかすなんて矛盾している。
これはもう諌矢自身に付き合う気がないとしか思えない。
「あいつモテるから誰かと付き合って人間関係こじれるの嫌がってるんじゃないの?」
「そうなのかな……」
困惑する桜川さんに俺は続ける。
「あいつさ、俺にもすごい気を使ってくれるんだぜ。いつもふざけてる癖に人の考えとか空気まで全部読んでるんだよ。だからきっと誰か一人と付き合えば周りで面倒が起きるのも分かってるんじゃないかな」
だからこれは諌矢なりの配慮の結果なのだと。
そして、あいつはきっと彼女を作らずに高校生活を穏便に過ごしたいのかもしれない。
「でも、そういうのって女の子の方からしたらたまらないよ」
感情を押し殺すように桜川さんが呟く。
「一之瀬君は分かんないかもしれないけど」
そして、俺をもう一度見る目は先ほどには無かった感情、怒りが宿っていた。
まさか、今の俺の言葉を聞いて怒っちゃった?
「ごめん。でも、今のはあくまで俺の予想ってだけで――」
「ううん。違うよ」
胸に手を当てながら、桜川さんは薄暗い雨空を見上げた。既に街灯には明かりが灯っている。
「私も一之瀬君と全く同じこと思ってたんだ」
「え……」
「休んでる間ずっと考えてて、行きついたのが今一之瀬君が推理して見せた事と同じなんだよ」
そして、どこか諦めたように口角を上げてこちらを見る。
「驚いたなあ。たかが半年関わっただけの一之瀬君が、私と同じ考えに行きついちゃうなんて」
「意外と俺って観察眼あったのか」
じっと見つめる桜川さんに合わせるつもりで俺も笑おうとした。
だが、しかし。
「――いいのに」
強まった雨の音がその勢いを増していき、彼女の言葉を聞きそびれた。
「えっ?」
そして、思わず聞き返したのが、不味かった。
桜川さんは俺を見ると、眉をひそめて表情を歪めた。
「いっそ、誰かと付き合ってくれたらいいのにっ!」
そしてはっきり聞こえるような声で叫んだ。
ベンチから立ち上がり握り締めた拳は俺の鼻先で小刻みに震えていた。
「誰かと付き合ってくれた方が諦められるもん。妬めるもん! 諌矢君が渡瀬さんの告白をOKしたらどんなに良かったか!」
数歩進んだ先はもう雨が降りしきる場所だ。みるみる内に桜川さんの黒髪に水気が染み渡っていく。それでも全く気にしない。
「そうしたら、私も諌矢君嫌いになれるのに!」
俺はただ呆然と見上げる。
自分の告白が失敗した話を他人事のように語っていた。彼女がそんな風に振る舞っていたのは必死に自分の気持ちに蓋をする為だったのか。
今の彼女は溜めに溜めた思いが決壊し、濁流となってぶちまけられている状態だ。
「ねえ、知ってる? あの歩道橋で私が告白した時、諌矢君ずっと優しい顔で突き放そうともしなかったんだよ?」
自嘲気味に微笑む頬をおびただしい滴が流れて落ちていく。
「諌矢君はずっと私の気が落ち着くまで待とうとしてくれて――でも、私気づいたら逃げ出しちゃってた」
小さく声が消え入りそうになる。
しかし、桜川さんは目一杯空気を吸い込むように胸を突き動かした。そして、ぐちゃぐちゃになった激情と共に吐き出す。
「何でダメなの!? 私だってずっと諌矢君といっしょにいたんだから、好きだって気持ちもずっと分かってる筈なのに! 酷いよ!」
「それは……」
きっと、諌矢にも事情はあった訳で――でも、そんな気安めみたいな言葉を今の彼女に掛ける気にはなれなかった。
「昔っから本当そう! 何であんなに優しいの! 酷い事できるの!」
昔の事も含めて不満を吐き出しているようだけど、俺は二人の過去に何があったのか知らない。
彼女から八つ当たり気味にぶつけられる言葉の数々は、雨音に閉ざされていてはっきり聞き取る事もできなかった。
俺はすっかり暗くなった四阿を見上げた。
ばちばちと大きな雨粒が藤棚の梁に打ち付け跳ねる音がする。
激しい雨だ。その下で全身ずぶ濡れになりながら、桜川さんは言葉にならない声で泣きじゃくっていた。
癇癪を起こした西崎や炊事遠足の時にふとした俺の言葉で赤坂が激昂したり。女子の修羅場と相対したことは何回かある。だけど、桜川さんの感情の乱れ方はそれらの比じゃなかった。
精神をかきむしられるような泣き声が雨音をつんざく。
「――――ッ!」
すっかり暗くなった空に向かって叫び続ける桜川さん。
でも、聞こえない。
雨音に消されて彼女が何を言っているのか俺の耳に届く事はない。
――だけど、それで良いのかもしれない。
場違いだと分かっていても俺の心は妙に冷静になっていた。
側らでよく知った女子が感情をむき出しにしているというのに、ぼんやりと空を見上げ場違いな感情を抱いている。
これは果たして現実逃避なんだろうか。
雨は良いなと思う。
どんなに叫んでも全てを掻き消してくれる。
それからしばらく桜川さんが泣き疲れるまで。
俺は何も言わず耳を傾け続けた。