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4-18 雨の日の再会

 本日最後の授業、そしてHRが終わった。

 この後は文化祭の準備だ。いつもならすぐにでも帰ろうとする筈なのに自然と作業に向かおうとする自分がいた。俺もすっかり居残り作業が脳に染みついてきたんだろうか。


「そう言えば、明日の朝に来るんだっけ?」

「台風? やだねー」

 そんな事を交わしながら女子数人が席の横を通り過ぎていく。

 既に空気は湿りきっていて、風も強まっている。

 夜には台風襲来か。

 そんな事を考えていたら、とんとん。不意に背中を小突かれる。

 振り返った先にいたのは成田と福井だった。


「今日も残って作業すんの?」

 気難しそうに眼鏡を直しながら凝視してくるのは成田だった。

 心の底から早く帰りたい。そんな感情が伝わってくる。


「あるんじゃないの」

 答えると、成田は隣の福井と顔を見合わせる。


「でも、来週からは試験準備期間だろ。帰って勉強したいんだけど?」

「それにこの天気だぜ?」

 成田に続いて福井もそんな風にけしかけてくる。


「夜から雨も強くなるっていうし、今日はナシだろ」

「だよな」

「一応赤坂に言ってからの方が」

 慌てて止めようとするけどもう遅かったようだ。


「やっぱ俺ら帰るわ」

「赤坂には一之瀬から伝えといてくれよ」

 二人はお揃いの四角いバックパックを背負うと行ってしまった。強く言えない俺はそれを呆然と見送る。


「俺が伝えるのか……」

 結局のところ、二人は俺に帰るという意志表示だけして合法的にサボろうとしただけのようだ。

 赤坂に言っても追及されるのは分かりきってるし、事情を知ってる俺に言っとけば赤坂を介さずに帰れる。舐められてんな、俺。

 とりあえず、赤坂のいる廊下側の席へと向かった。


「なに? どうしたの一之瀬」

 赤坂はリュックを立てながらきろりと視線を向けてくる。


「福井と成田の事なんだけど――」

「ああ、別に良いよ。一之瀬も今日は帰っていいよ」

 思いもしない一言が飛び出してきた。二人と違って残るつもりだった俺は出鼻をくじかれる。


「何か雨降るっぽいし。帰るときに土砂降りだって分かってたらモチベも上がらないし。だから今日はナシ!」

 そう言って赤坂は周囲にいた他の生徒達にも声を掛ける。


「明日の事考えたらなあ」

「でしょ? こういう時こそ勉強でもしたら?」

 湿気でうねった赤髪を鬱陶しそうに払いながら、赤坂はリュックを背負う。


「ていうか、一之瀬。何を素直に待ってたの? 忠犬ハチ公じゃないんだから。別に帰って良かったのに」

「俺を犬扱いするな」

 たまらず言い返した。猫属性の赤坂に言われたくない。


「来週からは部活も全休じゃない? あとの作業は試験終わってからでもいいかなって思ってるんだよね」

「なあ赤坂。イラついてる?」

「そう見えるの?」

 小首を傾げ、なるべくあざとい表情を心がけているようだ。だけど、こいつの考えている事はある程度読める。


「見える」

 答えると赤坂がふーっと小さく息を吐いた。


「……実は、西崎さんも同じこと聞いて来たんだよね」

「マジか」

「それで勝手に帰っちゃった」

 確かに、西崎の席は既にもぬけの殻だ。赤坂に尋ねてさっさと帰ったと言う事か。


「私が今日は残らなくていいよって言うと、何でかなあの人めちゃくちゃ不満そうな顔するの。別に早く帰れるならいいじゃん。ねえ?」

「……」

「何で私が言う事成す事に反対してくるんだろ、あの人」

 そう言って何故か八つ当たりのように俺を睨んでくる。


「赤坂だってそういう西崎に対して対抗心剥き出しじゃないか……」

「そう? なるべくあの人に話しかけられたら顔に出ないように隠してるんだけど」

「じゃあもっと隠せ。対抗心が隠しきれてない」

「え、そう?」

 本気で隠せていると思っているんだろうか。

 赤坂は割と素で驚いているようだった。


「あ、そう言えば。一之瀬は試験勉強もうやってる?」

「試験前になったらやるよ。赤坂は?」

 別に見栄を張る事も無い。正直に答えると赤坂は何故か勝ち誇った顔になる。


「早めにしといた方いいよ?」

 そう言って俺を諭すような口調で忠告してくる。


「環季ちゃん。バス停まで一緒に帰らない?」

 ふと、そんな立ち話をしていたら赤坂の友人がやってきた。


「待たせちゃってごめん、じゃ帰ろ」

 赤坂はくるりと身を翻すと人好きのする笑みを浮かべる。

 そして、俺との会話もそのままに二人で帰ってしまった。


「これは酷い」

 俺に対する態度とはまるで別人。

 福井成田コンビといい、さっきから何なんだこの仕打ち。


「この沈んだテンションのまま、帰るのも辛いな」

 俺は食卓でその日のテンションがモロに顔に出るタイプだ。

 沈んだ顔をして家族に何かあったの? と聞かれたらめんどい。

 俺に似て神経質な親だ。何も無いと言っても隠し事をしてるのかと心配される。


「仕方ない」

 この荒んだメンタルをリセットする事が必要だ。

 俺はさっきまで座っていた自分の席の方を振り返った。

 机の中は置き勉の教科書の束がにょっきりと、ハンバーガーの具みたいにはみ出していた。




 ♢ ♢ ♢



 曇り空が頭上一面に広がっていた。

 これから台風が来るというのに俺は図書館へと向かっていた。

 自転車を飛ばし段差を超える度、前かごに突っ込んだ鞄が揺れる。


「まあ、家からも近いし。大丈夫だよな」

 まだ雨が降る気配はなく、程なくして目的地の駅前の複合ビルに到着した。

 俺がこれから行こうとしている市立図書館はこの駅ビルの上層にある。

 中に入ると同じように学校帰りだろうか。様々な制服を着た学生の姿が目立つ。

 地方都市とは言え駅前だ。下校時間になれば学生はそれなりに集まるんだろうな。

 喫茶店にファッションブランドのショップやらアクセサリー店など。様々な店が軒を連ねた階層を抜ける。

 エスカレーターで上りきったそこはまるでダンジョンみたいな静けさに包まれていた。

 温かな木目調の床に白い柱。目的地の図書館はガラス張りの通路の向こうに見える。

 スマホの時計で帰る時間を逆算する。


「一時間くらいか」

 それでもやらないよりマシだろう。何よりも勉強したという事実が俺のメンタルをきっといい方向に持っていってくれる。

 散々だった一日。良い事をしたっていう自己肯定感が欲しい。


 入口の自動ドアを抜けると、図書館特有の建材と書物の入り混じった厳かな香りがした。

 整然と並ぶ書架の間を通り過ぎ読書スペースへ。一番窓側のカウンター席に行きつく。

 テーブル席と違い、ここなら対面に見知らぬ相手が座ることもない。まさに俺の為だけに存在するような場所だ。


「よし、やるか」

 教科書を置いて椅子に座りなおす。

 すぐ前のガラス越しに広がるのは上層から見下ろす市街地の景色だった。


「あれ……?」

 ふと、少し離れた隅の席に良く知った横顔が見えた。


 ――桜川さん!?


 黙々とペンを走らせている少女は黒とピンクのワンピース姿。いつも見る制服姿とは違って上品さと女の子らしい可愛さがある。

 どうしよう、知り合いに会っちまった。

 桜川さんは集中した表情でノートに何か書いている。俺に気づく様子は無い。


「どうすんだこれ……」

 話しかけるのを躊躇う状況だ。しかし、無視を決め込んだとして何かの拍子で顔を上げたら絶対気づかれる距離だ。

 別のクラスの顔しか知らない生徒ならともかく同じクラスの見知った相手。何で話しかけないんだと思われるのもそれはそれで気まずい。

 とりあえず、挨拶だけでもしておいた方が無難だな。意を決して隅の席まで足を運んだ。


「やあ」

「……!?」

 桜川さんは顔を上げるなり引きつった声を漏らす。

 勉強に没頭していたのか、割と本気で気づいていなかったらしい。


「一之瀬君? どうしてここに!?」

「いや、テスト勉強早めにしておこうと思って」

 そんな事情を話しながら様子を窺う。

 桜川さんは学校で見る太縁フレームとは違う丸眼鏡をしていた。図書館というロケーションもあってかいつも以上に知的な女って感じ。

 いや、そうじゃなくて。


「元気そうでよかった」

「びっくりしたぁ」

 本当に驚いているのか桜川さんは胸に手をやって息を整えていた。


「ナンパかと思っちゃった」

「ええ!?」

 桜川さんは大袈裟に胸をなでおろしながら、そこでようやく笑みを作った。

 ああ、学校でも癒された優しい桜川さんの笑顔だぁ。俺もほっこり安心する。


「図書館でナンパする奴なんていないよ」

「いやいや、たまにいるみたいだよ? 千葉さんとか声掛けられたって」

「まじか」

 つーか普通に会話してる分だと休む前とあまり様子は変わらないな。

 最初はやつれた風に見えたけど気のせいだったようだ。

 と、そこまで考えた所で歩道橋の事を思い出した。


「あっ」

 あの時、桜川さんは俺の方をはっきりと見ていた。目を見開き動きが止まったその一瞬。あの驚きと悲しみに満ちた表情はカメラのシャッターを切った瞬間みたいに今でも鮮明に覚えている。

 俺とここで出くわして彼女はどう思っているんだろうか。


「一之瀬君はどうしてここに?」

 不意に桜川さんがそんな事を尋ねてきた。


「私いつもここ使ってるけど、一之瀬君とは会った事ないよね?」

「え。ああ、ここなら知り合いもいないかなって思ってたんだ」

 そんな雑念を振り払いながら俺は平静を装う。


「試験も近いし勉強に向き合いたいなと思って」

 夏休みの出来事には触れず、口だけが勝手に動いているみたいだった。


「そうなんだ――私とおんなじだね」

 桜川さんは少しだけ寂しそうな顔をして笑った。


「はあ、日が暮れるのも早くなってきたね」

 そう言って、高層階の窓辺に広がる街並みを眺めた。

 夕方にしては暗い空、どこまでも灰色の雲海。その境界線上には同じように灰色のビルディングが並んでいた。

 建造物の合間からはその向こうに広がる海が見える。しかし、その水面も等しく灰色だ。

 視界の端ではチカチカと鉄塔の先が白く瞬いている。


「今思い出したけど、桜川さんが教えてくれたんだよな――ここが落ち着いて勉強できる場所だって」

「……!?」

 驚いた顔で俺を見上げる桜川さん。形のいい丸っこい瞳がぱちくりと瞬いている。


「そうだったっけ」

「そうだよ。自分で言ってて忘れたの?」

「ううん」

 伏し目がちな目を俺に向けてくる。


「一之瀬君って記憶力高いんだ」

 それは驚いているのか?

 丸眼鏡越しの大きな瞳。

 桜川さんはしらばっくれているのだろうか。あれだけ熱心に勉強付き合ってくれたのに覚えていないだなんて。


「俺って結構細かい事をいちいち気にするからな。忘れろって言っても簡単に忘れられないんだ」

「何それ、気持ち悪い……」

 桜川さんはにっこり笑顔を浮かべ、わざとらしく言い放った。

 完全に諌矢の家で見せた素の表情って感じだ。この女子も赤坂並みに腹黒いんだよな。

 まあ、陰で言われるよりはマシか。

 今まさに心に致命的なダメージを負ってはいるものの、知らないうちにズタボロにされるよりかは潔い。


「ところで桜川さん――身体の方はもう大丈夫なの?」

「えっ? ああ……身体はね」

 桜川さんは一瞬詰まりながら答える。と同時に俺はしまったと思った。

 これじゃ彼女が何に悩んで休んでいるのか、大体察しがついているみたいじゃないか。


「身体は大丈夫だよ。心配してくれてありがと」

 どこか含みのある言い方で桜川さんはにこっと笑う。


「そ、そうなんだ……う」

 皆心配してるよと、俺はありのままのクラスの様子を伝えたかった。

 だが、言葉が喉元から出てくる事はない。

 その場しのぎの言葉を選んだところでどうにもならないと諦めかけている自分がいた。

 俺にとって恥ずかしくて人に知られたくないお腹の悩みみたいに、桜川さんにもきっと触れられたくない悩みがある。

 そうでもなければ無遅刻無欠席の彼女がこんなに長い間休んだりする訳がない。

「最近、学校はどうかな?」

 そんな風に迷っていたら桜川さんの方から尋ねてくる。

 思わず見ると、桜川さんは優しげに目を細めている。


「文化祭の準備とかどうなってるの? 私、初日の話し合いしか出てなかったから……」

「ああ」

 それなりに責任を感じているらしい。


「大丈夫。実行委員は赤坂が引き受けて上手くやってるよ」

「赤坂さん? ちゃんと出来てるのかな?」

「今の所は。西崎とも上手くやってる」

「そっか。それならいいけど……」

 赤坂が引き継いだ事に一瞬驚いたようだったが、事情を聞いて落ち着きを取り戻す。

 少しは安心してくれたようだった。


「とりあえず、隣座ったら?」

 そのまま立ち尽くしていたら、桜川さんが横の椅子を引きながら声をかける。

 俺はこの状況でも彼女に逆に気遣われているようだ。


「分かんないとこあれば、聞いてね?」

「ありがとう」

 何となくここで会話は切り上げるという空気を感じ、俺も椅子に座った。


「あ、数学からやるんだ?」

 鞄から道具を出していたら、桜川さんにそんな声を掛けられた。


「暗記科目は家でも出来るけど、苦手なのはこういう集中できる場所じゃないと身が入らない」

「あはは。わかる」

 それを聞いてにこりと微笑む桜川さん。私服だと数割増しで可愛い。学校と違いとっつきやすさみたいなのも感じる。

 教室での桜川さんはいつも相手の言葉に耳を傾ける側にある。

 だから、こんな風に彼女の方からいろいろ聞かれたり関心を寄せられるのは珍しい状況だった。

 隣合って座りながら、俺達はそれぞれの勉強を開始した。

 桜川さんからはいつもと違う様子は見られない。俺と江崎さんが休み中に渡したプリントを教室で見るのと同じように、熱心に問題を解いている。

 かりかりとシャーペンを擦る音だけが耳を掠め、時々誰かの咳払いや物音が遠くから微かに聞こえる。

 時間の流れがどこかゆったりとした静寂の空間。

 俺も苦手な数学の練習問題に打ち込む。

 そうしていたら、聞こえていたペンの音が一切しなくなっている事に気づいた。


「あっ」

 ふと、隣を見ると桜川さんが俺をじっと観察するように見ていた。


「どうかしたの?」

 俺はそう問いかけるのだが、こちらを見つめる桜川さんは微動だにしない。


「一之瀬君。ほんとは私に何か聞きたい事あったんじゃない?」 

 どこかぎこちない笑顔で彼女は言う。

 からかっているわけでもなさそうだ。


「何で?」

「そういう顔してた。ねえ――」

 言うが早いか、口元が耳元にそっと近づいてくる。


「何で私がこんなに休んでいるのかって、そういう事聞きたかったんじゃない?」


 吐息混じりの囁き声。思わず心臓が高鳴っていく。

 聞きたい事はいろいろあった。でも、聞けなかった。

 心の中で歪んだもやもやはこの会話をする間に意識の外にどけた筈だった。でも、桜川さんはそんな俺の葛藤も全部分かっていたんだ。


「正直ここで桜川さんと会って気になる事はあったよ。あったけど――」

 自嘲しながら覚悟を決める。

 流石は諌矢の幼馴染。俺はこの二人には隠し事はできないなと痛感した。


「あのさ。桜川さん」

「なに?」

 頬杖をしながら興味深そうに俺を見つめてくる桜川さん。

 耳に掛かった黒髪がしな垂れる。


「桜川さんが休んでるのってさ。もしかして諌矢が関係してる?」

 長い髪がはらりと落ち、テーブルに波打つように広がった。


「えっ」

 桜川さんは小さく口を開くが、俺は追及を止めない。


「夏祭りの日。桜川さん、諌矢と歩道橋にいたよね?」

「そっちの話かぁ」

 ふうと溜息が漏れる。何故か困ったような顔を向けられた。


「まさか、いきなりあの時の話を聞いてくるなんて思わなかったな」

「だって、桜川さんが聞きたい事あるならはっきり聞けって言うから」

 図書館内は静かにしなくてはならない。全力で言い返したい気持ちをぎりぎり抑えこむ。


「だとしても、切り込み過ぎだよ。ほんとデリカシーがないなあ」

「うう」

 優しく、きつく罵倒されている。

 彼女は赤坂とは違ったベクトルで嗜虐的だ。


「一之瀬君って普段はいつも皆に遠慮してるのに、思いもしないタイミングで一段階飛び越えてくるよね」

「そう?」

 そうだよと言いたげに桜川さんがこくりと頷いた。


「何か悩み事あるなら言ってよ。俺でもそれくらい聞ける」

 俺はそんな言葉をかける。


「諌矢とはそれなりに仲が良いし、あいつの事は良く理解していると思うし……」

 だからもしも彼女が諌矢との関係で悩んでいるのなら、橋渡し役になれるかもしれない。

 見つめた先、黒目がちな桜川さんの瞳がとくんと揺れる。


「分かった。それなら全部一之瀬君に教えちゃってもいいか」

 桜川さんはそう言って頬杖を解いた。


「でもね。ごめん、ちょっとここじゃ無理だ」

 そして、悲しそうに微笑むのだった。


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