第十三回 遷都洛陽立憲法 高順改制開新天 二段
董承と伏完の陰謀が公にされ、二人が軟禁されたことで、許昌の朝廷には一時の平穏が訪れた。しかし高順は、この平穏が一時的なものであることを誰よりもよく理解していた。陰謀の芽を摘んだだけでは、同じことが繰り返されるだけだ。問題の根はもっと深いところにある。すなわち、漢帝国の統治の仕組みそのものが、すでに限界を迎えているのである。
桓帝、霊帝の時代から続く宦官と外戚の専横、黄巾の乱、董卓の暴虐、そして群雄割拠。これらすべての根源には、一人の皇帝の徳と能力にすべてを依存する統治システムの脆弱さがあった。董卓や李傕のような暴君が現れれば国は乱れ、名門世家が私腹を肥やせば民は苦しむ。この構造そのものを変えなければ、真の意味での太平は訪れない。
高順には、一つの明確な理想があった。それは中国に日本の天皇家のような「万世一系」の皇室を実現することである。彼が生きた後漢の時代は、すでに四百年の歴史を刻んでいたが、このままでは司馬氏による簒奪を経て、五胡十六国の大混乱へと突き進む。それを食い止めるには、皇帝を権力闘争の中心から外し、祭祀的象徴として位置づけ、実際の政治は法に基づく合議制で運営する仕組みを作らねばならない。
法を主とし、儒を輔とし、諸子百家の知恵を混ぜ込む。それが高順の描く国づくりの青写真だった。儒教の「一人の徳で万民を統治する」という考え方は、理想としては美しいが、現実には機能しない。桓帝や霊帝がその証明だ。だからこそ、個人の徳に頼らず、法の力で国を治める仕組みが必要なのだ。
しかし、法を作るだけでは足りない。法を理解し、運用できる人材を育てねばならない。それが国憲学堂設立の狙いだった。
洛陽復興の第二段階として、高順は洛陽と晋陽に「国憲学堂」を設立することを上奏した。これは法学を主とし、儒学、諸子百家、行政実務を総合的に教える、これまでの太学とはまったく異なる教育機関である。太学が儒教の経典を中心に据え、為政者の修養を目的としていたのに対し、国憲学堂は法の解釈と運用、行政の実務、そして諸子百家の思想を幅広く学ぶ場として構想された。
学堂の構成は四つの部からなる。第一に法学部。ここでは商鞅、韓非子、李斯らの法家思想を中心に、法の解釈と運用を教える。商鞅は身分に関わらず法を適用する「法治主義」を秦で実践した改革者であり、韓非子は商鞅の法、申不害の術、慎到の勢を統合して法家思想を大成した人物である。法学部の学生は、これらの思想を学ぶと同時に、実際の裁判や行政で必要となる法令の知識を徹底的に叩き込まれる。
第二に儒学部。ここでは孔子、孟子、荀子らの経書を講義する。特に荀子については、礼と法の関係を重視した講義を行う。荀子は儒家でありながら「性悪説」を唱え、人間の欲望を法と礼によって制御する必要性を説いた。彼の門下からは韓非子や李斯といった法家の大成者が出ている。儒家と法家の橋渡し的存在として、荀子の思想はこの学堂の理念を体現するものだった。
第三に諸子百家部。ここでは老子、荘子、墨子、孫子、呉子など、儒家・法家以外の諸思想を広く学ぶ。老荘思想の無為自然、墨子の兼愛交利、孫子の兵法。いずれも天下を治めるために必要な知恵であり、学生たちはこれらを自由に選択して学ぶことができる。
第四に行政実務部。ここでは戸籍の管理、税の計算、土木工事の計画など、実際の統治に必要な技術を教える。法学部で学んだ法の知識を、実際の行政でどう活かすかを実践的に訓練する場である。
この提案に対し、朝廷では当然ながら反対論が噴出した。特に強硬だったのは孔融である。彼は儒学の大家として知られ、孔子の子孫を自称する名門の出身だった。
「高将軍、学堂で法学を主とし、儒学を輔とするとは、あまりに儒学を軽んじておられる。孔子は『之を道くに政を以てし、之を斉えるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道くに徳を以てし、之を斉えるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格し』と仰せである。法や刑罰で民を縛れば、民は罰を逃れることだけを考え、恥を知らなくなる。徳と礼によってこそ、民は自ら正しく生きようとするのだ」
孔融の言葉は儒学の本質を突いたものであり、朝廷の多くの老臣たちがこれに同意した。しかし高順は微塵も動じなかった。
「孔融殿の仰ることは、平時においては正しい。しかし今は乱世だ。徳と礼だけで民が正しく生きられるなら、なぜ黄巾の乱は起きたのか。なぜ董卓や李傕の暴虐を誰も止められなかったのか。民が苦しんでいる時に、徳を説くだけでは何も救えぬ。まずは法で秩序を作り、その秩序の中で民が安心して暮らせるようになって初めて、徳や礼が意味を持つのです」
高順の反論に、孔融は言葉を詰まらせた。高順は続けて、学堂で教えるべき学問の体系について詳しく説明した。
「私は儒教を否定しているのではありません。儒教の徳治主義は、為政者の修養として重要です。だからこそ儒学部を設け、孔子、孟子、荀子の教えを学ぶ。しかし同時に、商鞅や韓非子の法家思想も学ばねばなりません。荀子は儒家でありながら、人間の欲望を礼と法によって制御する必要性を説きました。その門下から韓非子や李斯が出たことは、儒学と法学が決して相反するものではない証拠です」
「荀子を引き合いに出すか」
孔融は荀子の名を聞いて、わずかに眉を動かした。荀子は儒家でありながら、その思想は法家の源流ともなった特異な存在である。孔融は荀子を完全に否定することはできなかった。
「法を主とし、儒を輔とし、諸子百家の知恵を混ぜ込む。それが最も現実的な統治のあり方だと信じています。法は民を縛るだけのものではない。法は民を守る盾でもあるのです。そしてその法を作り、運用する人材を育てるのが、この学堂の役目です」
孔融はなおも反論しようとしたが、蔡邕が静かに手を挙げて制した。
「孔融殿、高順の言い分にも一理ある。私はかつて、同じ議論で彼に敗れたことがある。儒教の理想は確かに素晴らしい。しかし現実の政治は、理想だけでは動かぬ。法と徳、両方の車輪があって初めて、国は前に進むのだ。荀子が礼と法を架橋しようとしたように、我々もまた儒学と法学を融和させる道を探るべきではないか」
蔡邕は当代随一の学者であり、朝廷でも最も尊敬される人物の一人だった。その蔡邕が高順の肩を持つ形になったことで、反対論は急速に勢いを失った。結局、国憲学堂の設立は正式に裁可され、蔡邕がその総長に就任することになった。
蔡邕は高順に向かって、静かに言った。
「高順よ、私は法学の専門家ではない。しかしお前が学堂の総長に私を推したのは、儒学の大家である私が関わることで、この学堂が単なる法家の牙城ではなく、儒学を含めた総合的な学問の府であることを示したいのだろう。その意図は理解した。私は儒学部で孔子や孟子を教えつつ、荀子の章句を通じて礼と法の関係を若者たちに考えさせよう。法学と儒学の融和こそが、この学堂の使命なのだから」
許昌での御前会議が終わり、国憲学堂の設立が正式に決まると、高順はすぐさま洛陽へと向かった。洛陽復興の現場を視察し、学堂の建設予定地を確認するためである。同行したのは賈詡と、学堂の教員として招かれた数名の学者たちだった。
洛陽の廃墟は、かつて董卓に焼かれて以来、十数年もの間、荒れ果てたままだった。焼け落ちた宮殿の柱だけが虚ろに空を指し、崩れた城壁の石が累々と積み重なっている。しかしここ数年、高順が派遣した工兵たちによって、少しずつ復興の手が加えられていた。城壁の修復はすでに八割が完了し、内城の宮殿も骨格が整いつつある。学堂の建設予定地は、内城と中城の境界に位置する広大な敷地だった。
「将軍、ここに学堂を建てるのですか。これだけの広さがあれば、数千人の学生を収容できます」
賈詡が感嘆の声を上げた。高順は敷地を見渡しながら、ゆっくりと頷いた。
「ああ。法学部、儒学部、諸子百家部、行政実務部。四つの部を設ける。法学部では商鞅、韓非子の法家思想を中心に、法の解釈と運用を教える。儒学部では孔子、孟子に加え、荀子の礼と法を架橋する思想を重視する。諸子百家部では老子、荘子、墨子、孫子、呉子など、あらゆる思想を学ぶ。行政実務部では戸籍の管理、税の計算、土木工事の計画など、実際の統治に必要な技術を教える。学生は身分や出身地を問わず、試験によって選抜する。名門の子弟も、貧しい農民の子も、同じ教室で学ぶのだ」
「それはまた、壮大な構想ですな。しかし、これだけの教育を行うには、教員もまた多数必要です。どこから集めますか」
「蔡邕先生が儒学の大家たちを集めてくれる。法学に関しては、私が并州で育てた者たちがいる。諸子百家については、各地から学者を招聘する。行政実務は、董昭たちが教科書を作成中だ。時間はかかるが、必ず形にする」
高順の声には、揺るぎない決意が込められていた。彼は洛陽の地に、新しい国づくりの種を蒔こうとしている。法と秩序を理解し、それを運用できる人材を育てること。それが、彼がこの乱世で見出した最も確かな道だった。
洛陽から許昌に戻った高順は、御史台の中に「法典編纂局」を設置した。これは漢帝国のあらゆる法令を整理し、誰にでも理解できる形で成文化するための機関である。長には董昭が就任し、審配、郭図、辛毗、辛評といった元袁紹の幕僚たちが実務を担った。彼らは袁紹のもとで培った行政手腕を、今度は法の整備という形で活かすことになったのである。
董昭は早速、并州で施行されてきた法令を基に、全国統一の法典の草案作りに着手した。土地の均分、税の減免、官吏の不正を取り締まる監察制度、裁判の公開原則、刑罰の均衡――高順が并州で実践してきた政策が、次々と条文に落とし込まれていく。審配は冀州の実情に合わせた修正を提案し、郭図は袁紹時代の法令との整合性を検討した。辛毗と辛評は、豪族たちの既得権益に配慮しつつも、法の前の平等を実現するための微調整に腐心した。
同時に高順は、洛陽と晋陽を皮切りに、各都市の街衢に「法榜」を掲示させた。法榜とは、民衆に法の内容を知らせるための掲示板である。そこには、殺人や窃盗に対する刑罰だけでなく、税の計算方法や戸籍の登録方法、裁判の申し立て方まで、日常生活に必要な法知識が平易な文章で記されていた。
この法榜の設置は、これまで法を独占してきた名門世家や地方豪族にとっては大きな衝撃だった。彼らは法を知らない民衆を搾取し、自分たちに都合の良い裁きを行ってきた。しかし民衆が法を知れば、不当な搾取に抗議することができるようになる。高順はこの法榜を通じて、民衆に「法は自分たちを守る盾である」という意識を根付かせようとしたのである。
ある日、高順は曹操の丞相府を訪れていた。二人は庭園の東屋で向かい合い、酒を酌み交わしながら語り合っている。曹操は最近の高順の動きを、ある種の警戒心をもって見守っていた。
「孝父、お前は学堂を作り、法典を編纂し、街に法榜を掲げているそうだな。お前の狙いは何だ。漢室を復興することか。それとも、別の何かか」
高順は杯を手に取り、曹操の目をまっすぐに見つめた。
「漢室を守ることだ。しかし私が守ろうとしているのは、単なる王朝ではない。皇帝が万世一系で続いていく仕組みそのものだ。今のままでは、いずれ誰かが漢室を簒奪する。それは董卓かもしれず、袁紹かもしれず、あるいは――お前かもしれない」
曹操は高順の言葉に、わずかに眉を動かした。
「お前は私が漢室を簒奪すると思っているのか」
「今はまだ、そうは思っていない。しかし権力は人を変える。お前が丞相として権力を握り続ければ、いつかお前の周囲の者たちが、お前に禅譲を勧める日が来るだろう。その時、お前がその誘惑に勝てるかどうかは、誰にもわからない。だからこそ、法と秩序を作り、お前自身をも縛る仕組みが必要なのだ」
「お前は私を信用していないのか」
「信用している。しかし盲信はしていない。私はお前を信じているからこそ、お前が道を誤らぬように、法の枠組みを作ろうとしているのだ」
曹操はしばらく沈黙し、それから微かに笑った。
「お前は本当に変わらんな。いつも正しい。しかし正しすぎて、時に煙たくなる。だが、それでいい。お前のその正しさが、私の歯止めになるのなら、それはそれで悪くない」
曹操は杯を掲げ、高順もそれに応じた。二人の間には、奇妙な友情とも呼べるものが確かに存在していた。それは打算や利害を超えた、乱世に生きる者同士の独特の絆だった。
洛陽の学堂建設予定地では、すでに基礎工事が始まっていた。高順が派遣した技術者たちが測量を行い、石工たちが礎石を据え付けている。高順は工事の進捗を視察しながら、傍らに控える蔡琰に静かに語りかけた。
「この学堂が完成すれば、数年後には法学を修めた若者たちが各地に派遣される。彼らは商鞅や韓非子の法家思想を学びながら、同時に孔子や荀子の儒学も修めている。法だけでもなく、徳だけでもない。両方を兼ね備えた者たちが、この国を支える。それが何世代も続けば、この国は変わる。皇帝が誰であろうと、丞相が誰であろうと、法が国を守る。それが私の理想だ」
蔡琰は夫の横顔を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「あなたの理想は、いつも遠くを見すぎています。でも、それがあなたらしい。私は儒学部で、詩と経書を教えましょう。荀子の章句を読み解きながら、礼と法の調和を若者たちに伝えます。法だけでなく、人の心を豊かにする学問もまた、必要なのですから」
「ああ。頼む。お前の教え子たちが、いつかこの国を支える人材になる」
高順はそう言って、再び工事の様子を見つめた。洛陽の空には、春の陽が柔らかく降り注いでいる。焼け野原だったこの地に、今、新しい国づくりの種が蒔かれようとしていた。法と秩序の種が、やがて芽吹き、大樹へと育つ日を、高順は信じていた。




